Maybe Tomorrow







 帰宅したアキラは、母親の涙ながらの攻撃ならぬ口撃に遭い、突然大阪まで出かけたことへの弁解と謝罪で数時間拘束されることとなってしまった。
 事前に大阪へ出かけることは伝えたとはいえ、実はそれはすでに大阪行きの新幹線の切符を買った後で、すぐに新幹線へ乗り込んでしまったのだから母親が驚くのも無理はなかったかもしれない。
 誰かに脅されたんじゃあ、なんて物騒なことを言う母親を落ち着かせ、自分の意志で友人に会いに行ったことを辛抱強く話して聞かせた。何しろ、ここで信用を失って更に行動を規制されるようなことがあっては困る。
 ようやく母親から解放されたアキラは、心身共にぐったり疲れて自室へと逃げ隠った。
 元の世界の母親にも頭が上がらないのに、こちらの世界では泣き落しも加わってより強力だ。アキラは畳に腰を下ろしてふっと息をつく。
 やれやれ、と自然と年寄りじみた言葉が口をついて出て来て、アキラは苦笑いした。
 ――本当に、こちらに来てほんの数日しか経っていないのに。
 一気に何年も老け込んだ気分だ――アキラは髪を掻き上げて時計を見上げる。
 すでに夕方近い。昼食はとっていないが、腹は減っていなかった。社の部屋で振る舞われた朝食にしてはボリュームの多かったお好み焼きと、新幹線の中でヒカルに強請られて買った菓子のつまみ食いがまだ腹に残っている。
 ヒカルはどうだろうかと、先程別れたばかりの眩しい前髪を思い出して目を伏せる。
 食べる量も相当なのに、消化が早いのかすぐに腹が減ったとこぼすヒカル。じっとしていないせいだろうか、かつては無駄な動きばかりだと思っていた彼の行動が、今は何一つ無駄などなかったのだと実感する。
 ヒカルはいつも、自分が正しいと思うがままに動いていた。ここに来てから、その直感にどれだけ助けられたか。あの細身の身体が何度自分より大きく見えたか知れない。
『俺は俺のできることをする。お前もお前が今できることをしろ。』
 真直ぐにアキラの目を見据えて告げられた言葉。
(ボクが今できること)
 何か、あるのだろうか。
 こちらの世界の寂しい二人の、捻れを元に戻してあげられるような何かが……
 アキラはふっと口唇を緩めた。
 いつの間にか、「元の世界に戻ること」よりも彼らの謎を解くことのほうに夢中になってしまっている。
(戻れるのかな)
 戻れたら、何の不安のない世界にヒカルを戻すことができたら――
 誰にも咎めさせることなく、ヒカルを力いっぱい抱き締めてやるのに。
「!」
 突然服の中でブルブルと震えた物体に飛び上がったアキラは、胸ポケットに入れっぱなしだった携帯電話を慌てて取り出した。
 もしやヒカルだろうかと期待して液晶画面を覗くが、表示された「和谷義高」の文字に少しだけ落胆して通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし〜塔矢か? 具合どうだ?』
 和谷の問いかけがピンと来なかったが、記憶のなかった三日の間に体調不良との理由で手合いを休んだらしいことを思い出し、アキラは曖昧に笑ってみせる。
「あ、ああ……もう何ともない。それより何? 何か用?」
 体調についてあまり深く追求されないようにと、無理に話題を聞き出そうとしたのが和谷にはお気に召さなかったらしい。少々むっとした声が返って来た。
『なんだよ、用がなきゃ電話すんなってのかよ』
「そ、そういう訳ではないけど」
『まあ、いいけどさあ。今日はマジで用事あったし。来月の囲碁イベント、スポンサーの都合で日程変更になるってさ。俺も今日棋院行って聞かされたんだけど』
「来月の……?」
 アキラは携帯電話を肩と耳で挟み、手を伸ばして鞄から探り出したスケジュール帳を開く。来月のページに和谷が言っているらしい囲碁イベントの日程が書き込まれていた。該当と思われるページを大きく開いて、携帯電話を改めて握り直す。
「ああ、子供向けの?」
『そうそう。一、二週間ずれこむらしいけど、まだ詳しいこと決まってないって。また分かったら教えるよ』
「どうもありがとう……」
 スケジュール帳にその旨書き込みつつ、アキラはふと自分の今後のスケジュールを見直してみた。
 さすがに低段のせいか、かつての自分と比べると決して忙しいとは言えないスケジュールだが、手合いのほかにもぽつぽつと仕事は入っている。幸い、ここ数日は特に予定がないとは言え、きちんとチェックしなければ穴を開けることになりかねない。
 そして、ヒカルのことを思い出した。こちらの「ヒカル」は手合いどころかその他の仕事にもろくに顔を出さなかったようだから、スケジュールは一体どうなっているのか……
 手合いのハガキは捨てられていたようだし、ヒカルとしても日々手持ち無沙汰なのは辛いところだろう。
(進藤、手持ちの金もそれほどないみたいだしな)
 仕事をおろそかにしているのだから当然ではある。
 アキラはその後もだらだらと世間話を続けようとする和谷をやんわり留め、さらりと話をまとめて電話を切った。
 そうしてしゃきっと立ち上がり、再び外へ出かけるために簡単な身支度を整え始めた。
 避けては通れないと思い、母親がいる台所へと顔を出す。
「お母さん。帰ったばかりで申し訳ないですがまた少し出かけて来ます」
 がしゃーんと静かなキッチンに不似合いの騒音が響き渡った。
 アキラは慌てて母・明子が落とした数枚の食器を拾い上げる。アクリル製だったようで、割れなかったのが幸いだった。
 明子は皿を落としたままの格好で、わなわなと震えながらアキラを見つめていた。
「アキラさん、また……? もう夕方じゃない。あなた、やっぱり誰かに脅されて」
「違います! 棋院に用事があるんです。仕事ですから」
 仕事と言えば母も大人しく引き下がるかと甘く見ていたのだが、
「じゃあ、芦原さんに送ってもらいましょう。芦原さんに電話してくるわ」
「ちょっと、お母さん! 一人で行けます!」
 すっかり思考が凝り固まった母を再び説得するのに多少の時間を要してしまった。
 それと言うのも、ボクが甘ったれだから悪いんだ――アキラはぶつぶつ呟きながら、どうにか自宅を脱出することに成功する。行き先は棋院、母に告げた通りだ。
 ただ、棋院に向かうのはヒカルのスケジュールを確認するためだった。
 今のヒカルが自ら棋院に問い合わせるのはまずかろう。ならば自分が一通りのことを調べて、ヒカルの荒れた生活を少しずつ正常に戻してやらなければ……そんなことを考えて、アキラは足早に地下鉄の駅へと向かった。