Maybe Tomorrow







 棋院では、一通りの好奇な視線に囲まれた。
 仕方のないことかもしれない。数日前、ロビーに貼り出された写真を囲んでいた人間はそれなりの人数だったし、そこから噂は何倍もの人へと伝わっているだろう。
 おまけにその渦中の人物である自分達が自ら写真を剥がし、外部に漏れているかどうかは分からないが人を殴ったりもした。遠巻きにアキラを眺める人々の表情がそれぞれ複雑なものを抱えていて、アキラは辟易しながらも毅然と前を向いて歩いていた。
 すでに夕方近いということもあって、見知った顔とすれ違わなかったのは幸運だった。あれこれ尋ねられるのは面倒だったし、昨日大阪へ強行したせいもあってかそれなりに身体も疲れている。
 アキラはまっすぐ事務局へ行って、ヒカルのスケジュールを確認することだけを果たして早く棋院を出るつもりだった。


 事務局で訝し気な目を向けられながらも、無事に入手したヒカルのスケジュールは想像した通り大したものではない。
 手合いはともかく、その他の仕事の予定はほとんどなく、万が一ヒカルが放棄しても他のメンバーで何とかなりそうな内容のものばかりだった。
 完全に失った信用を取り戻すことは容易ではない。しかし、こうした小さな仕事ひとつひとつに顔を出すことで少しずつ周りからの評価も変わってくるだろう――アキラはそれをヒカルに伝えるべく、携帯電話を取り出してメールを送る。
 人目を避けるため、やりとりはなるべくメールでと決めていたが、散々この世界を引っ掻き回した今はそれもどうでも良いことのように思えて来る。そのせいか、アキラが送ったメールの内容は「今後のスケジュールを把握したから電話しても構わないか」といったものだった。
 つい先程別れたばかりだというのに、もうすでに声が聴きたくなっているというのが理由のひとつだった。
 もうひとつの理由は、アキラの前では笑顔だったヒカルが本当は寂しがっているのを知っていたから。何度か訪れた、あの部屋は何故か酷く寒い。帰る場所があそこしかないというのはヒカルには辛いことだろう。
 ついでに腹が減っていないかを尋ねて、もし空腹だというのなら何処か食事に誘おうかとも思っていた。少しでも長く一緒にいたほうが、お互い気が紛れるのではないかと思ったのだ。
 そうしてヒカルからの返信を待った。ヒカルの部屋には娯楽も何もないのだから、メールにはすぐ気がつくはずだった。だからものの数分も経たずに返事が返ってくるものと信じ切っていたアキラは、十分経っても二十分経っても反応のない自分の携帯電話をまじまじと見つめてしまった。
 ――まさか、気付いていないのだろうか?
 たまたま携帯から離れているのだろうか。例えばシャワーを浴びているとか。ありえないことではないなとため息をついたアキラは、携帯に神経を尖らせつつ、棋院からの帰路を進んでいた。最初は帰路のつもりだった。しかし、一向に震えない携帯に焦れて、アキラの足は自宅からヒカルのいるアパートへと向けられつつあった。
 すでに三十分以上が経過している。シャワーだとしても、そろそろ上がっているのではないだろうか? アキラの知るヒカルは決して長風呂ではない。寧ろ行水のほうだ。
 遂に待ち切れなくなったアキラは、ヒカルからの返事を待たずに直接電話をかけることにした。
 素っ気無く登録されている『S』の文字。
 そこに表示された携帯番号を確認し、通話ボタンを押す。
 コール音が耳に響く。一回。二回。心の中で数を数えながら、アキラはイライラと足踏みをする。
 何故返事が来ないのか。今のヒカルには、アキラしかまともな繋がりがないのだ。二人を繋ぐ唯一のツールである携帯の存在をおろそかにするようなことがあるだろうか?
(――まさか)
 十回を越えたコール音を聞きながら、アキラの表情から血の気が引いて行く。
 ――出られない、のではなく、出ない……のだとしたら。
 まさか、と口唇がもう一度動いた時、ふとコール音が途切れた。
 咄嗟のことでアキラはすぐに声が出せなかった。
『――……』
 切れた訳ではない。誰かが電話に出たのだ。サーという通話音がそれを証明している。
 アキラはごくりと息を呑み、何も応えない受話器の相手にそっと呼び掛けた。
「……、進藤……?」
 声をかけた途端、ブツリと耳障りな音がアキラの顔を顰めさせる。次いでツー、ツーという無情な音に切り替わったことに唖然として、アキラは携帯電話の液晶表示を見た。通話は完全に途切れていた。
「……何故」
 口にして、分かり切った答えに舌打ちした。
 ――電話に出たのがヒカルではないからだ。
 外見はヒカルかもしれない。……しかし、アキラの知るヒカルではなかった。
 アキラは携帯電話をしまい、今度は迷いなくヒカルのアパートへと目的地を定めた。
 ……今のはきっと、「ヒカル」だ。





 ここ数日間で何度も見上げたヒカルのアパート。
 すでにここまでの道順は完全に頭に入ってしまっていた。
 アキラはアパートのくたびれた外壁を睨みながら、落ちて行く太陽を背に一歩ずつ前に進んで行く。
 自然と鼓動は速まっていった。古びた階段を上がり、ドアをノックした先にいるのはヒカルなのか、「ヒカル」なのか――
 ドアの前に佇んだアキラは口唇を噛み、俯く。
 別れたのはついさっき。それまでのヒカルは、確かにアキラの大切なヒカルだった。
 それが僅か数時間で「ヒカル」に変わってしまうだなんて、そんなことがあるだろうか?
(でも、ボクも進藤も。記憶を失う前にそれらしい兆候はなかった。)
 あえて言えば、猛烈な眠気に襲われたことくらい。ヒカルのほうはどうなのか分からないが、話しぶりから唐突だったことは間違いない。そもそも、置かれている状況はもうずっとおかしいのだから、常識的に物事を考える必要はないだろう。
 意を決して、薄っぺらいドアを軽くノックする。こんこん、と二回。
 しばらく待ったが返事がないので、今度はもう少し強めにノックする。どんどんどん、三回。これでダメなら無理矢理ドアを蹴破ろうかと、アキラが物騒なことを考え始めた時、ドアが薄く開いた。
 アキラはごくりと唾を飲み込む。
「……誰」
 けだるそうな低い声がぼそりと隙間から聞こえて来て、アキラはその息苦しい気配に眉を顰めた。
 肌寒い部屋の冷気がひゅうと漏れてきたような気がして、思わず身を竦めながら、アキラは扉の向こうに目を瞠った。