Maybe Tomorrow







 開いたドアから現れたその姿は、紛れもないヒカルその人だった――
 しかしそれは、アキラを安堵させることにはならなかった。
 扉の向こうに立っていた相手がアキラだと分かるや否や、ヒカルの睫毛が黒目を覆い隠すように伏せられたからだ。
「……お前か」
 ぼそりと呟かれた声には抑揚がなく、感情の読み取れない様子にアキラは息を呑む。
 間違いない。これはヒカルではない。
 アキラ自身も初めて対峙する、この世界の「進藤ヒカル」だった。
 ヒカルはふいにアキラから顔を逸らし、背を向けて部屋の奥へと戻って行く。閉まりかかる扉の隙間にアキラは慌てて手を差し込むが、ヒカルはその行動にすら頓着しようとしない。
 アキラはそっとドアの隙間を押し広げ、玄関の内側に身体を滑り込ませた。背中でドアの閉まる音。どうやら、ヒカルはアキラを中に入れたくないという訳ではないようだ。
 日当たりの悪い窓からはすでに薄暗い空が覗いていて、電灯がつけられていない部屋の中も陰気な雰囲気になっていた。
 室内は相変わらず寒い。皮膚で感じる寒さ以上に、影の落ちた部屋の様子が視覚的な寒さをもたらしているのだとアキラは気付く。
 靴を脱いで奥へ入っても良いものかアキラが迷っていると、ベッドの傍まで歩いていったヒカルがくるりとアキラを振り向いた。
「何? ヤんの?」
 初め、ヒカルの言葉の意味が分からずにぱちぱちと瞬きをしたアキラだったが、すぐに気付いてかっと頬を染める。
 こちらを向いているヒカルの表情は、部屋の薄暗さと離れた距離のせいでよく分からない。アキラは意を決して、靴を脱いだ。
 室内に足を踏み入れ、一歩、二歩とヒカルに近付くにつれ、彼の纏う空気の寒さに息苦しさが募って行く。
 部屋に充満する濁った煙。見れば小さなガラステーブルの上に灰皿が置かれ、その中に何本かねじ込まれた煙草がまだ燻っていた。
 なんて似合わない光景だろう――アキラは呆然と、今や目の前にいるヒカルの姿を上から下まで眺め下ろした。顔かたちはヒカルそのものなのに、目の覇気が違う。薄く結ばれた口唇の色が違う。気配までもがアキラの知るヒカルのそれとは違うような気がして、アキラは狼狽を隠せない。
 アキラがまじまじとヒカルを見ていたのが気に触ったのか、ヒカルはほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。その感情表現は普段のヒカルに比べてずっと乏しいものであったのにも関わらず、無表情が僅かに色付いたことに思わずアキラはほっとしてしまう。
 しかしそれもほんの一瞬のことだった。次いでヒカルの口から出て来た言葉に頭から冷水を浴びせられたような衝撃を受けることになってしまった。
「脱げよ」
 淡々とした言葉にすぐに反応できず、アキラは唖然とヒカルを見つめる。
 ヒカルは相変わらずの細めた瞳で興味なさそうにアキラを見やり、そうしてふいと視線を逸らした。
「そのために来たんだろ?」
 かりかりと後頭部を掻きながら面倒臭そうに言い放つヒカルに、呆気にとられていたアキラはぶんぶんと首を振った。
 呆然としている場合ではない。――こちらの「ヒカル」がヒカルと違うのは初めから分かっていたことだというのに。
 アキラはすっと背筋を伸ばし、顎を引いて瞳に力を込めた。
 こうして実際に逢うことを考えなかった訳ではないが、いざ対峙すると案外気持ちが怯むものだったとは。
 しかし、いつまでも圧倒されていてはどうしようもない。
 ようやく会えたのだ。誰よりもこの世界の捻れを知る人間に。

『俺らにはできることがあるのかもしれない』

 ヒカルの言葉と、別れ際のキスの甘さがアキラをそっと後押しする。
 何か、できること。……それはただの自惚れかもしれないけれど。
(できるだけ……やってみるよ。進藤。)
 アキラは一度深呼吸をして、改めてヒカルに向き合った。
「そういうことをしに来た訳じゃない」
 きっぱりと告げると、ヒカルがちらりとアキラに目を向ける。
 つまらなさそうな顔だ――そんなふうにアキラは思った。
 何にも関心を持たないような、そんな顔。
 くだらないことでころころと笑うヒカルしか知らないアキラにとって、彼は未知の領域だった。
(でも)
 未知であるはずなのに、何故だか……アキラには微かな覚えがあった。
 こんなヒカルを何処かで見たような気がする。力のない瞳の色を……
「じゃ、何しに来た?」
 本気で聞いているのではないのだろう、素っ気無い問いかけにもアキラは怯まずに答える。
「あの写真を彼らに渡したのは、キミか?」
 ヒカルの肩がぴく、と揺れた。
 何か不思議なことものでも見たように傾いたままの首で、じっとアキラに冷ややかな視線を向けている。
 ふと、その口元が薄ら微笑を浮かべたようだった。
「……へえ。あいつら、あの写真使ったんだ?」
 あの棋院での一騒動の時、この身体はアキラがよく知るヒカルのものだった。恐らく、目の前の「ヒカル」は例の一件に覚えがないままだろう。
 写真が棋院に貼り出され、それを剥がしたのが他でもない自分とアキラだなんて、彼は知る由もない。
 しかし、今のヒカルの一言で、アキラはこれまで懸念していたことが事実であることを思い知らされた。
 あの写真を撮ったのはヒカルで、それを彼らに手渡したのもヒカル。犯人達からそれらしきことを聞いていたとは言え、実際にヒカルの口から聞くのとは真実味が違う。
「俺のケータイ。古いからあんまキレ−に写ってなかっただろうけど。どうだった?」
 ヒカルはおもむろにポケットから携帯電話を取り出し、無意味に二つ折りのそれを開いたり閉じたりしている。口調にはややからかいの色が見られるが、心底興味があるからというわけではない。暇潰しをしているに過ぎないとでも言いたげに、ヒカルはアキラから視線を逸らすための道具として携帯電話を選んだようだった。
「写りは最悪だったな。もっと上手く撮ってもらいたかったよ」
 わざと乱暴な物言いをすると、ヒカルは携帯をいじっていた指の動きを止める。
「残念だけど。あの写真はもう人目に触れることはないだろう。ボクが彼らに釘を刺しておいた」
 ヒカルがゆっくりとアキラを振り返る。
 開かれた携帯電話の液晶画面の光が、ぼんやりとヒカルの顔を照らしていた。
 アキラは真直ぐにヒカルを見つめ、これまで手に入れたキーワードを頼りに頭の中で「ヒカル」と「アキラ」の姿を思い浮かべる。
 「アキラ」に決して開くことのないだろう、「ヒカル」の心の断片を覗くためには、他の誰でもない塔矢アキラとして向き合うしかない――アキラは口元を厳しく引き締めた。