Maybe Tomorrow







「お前……誰だ」
 思わず出て来てしまったのだろう、ヒカルの口から飛び出した質問にアキラははっとする。
 ヒカルも自分で呟いた言葉だというのに、その内容に驚いているようだった。
 アキラは肩を竦め、軽く苦笑いを見せる。
「見ての通りだ。誰に見える?」
「……塔矢がそんなこと言うはずない」
「そんなこと、とは? キミが、本当はボクを必要としている、ということ?」
「……お前は塔矢じゃない」
 ヒカルに眉間の皺が深くなる。
 アキラは苦笑いを微笑みに変えた。ヒカルがアキラを怯ませるために感情を表に出せば出そうとするほど、アキラの知るヒカルに近付いていく。
 やはり本質は同じ。ガラスのような瞳の奥に灯る隠し切れない淡い炎。こんなヒカルの目を何処かで見たことがある。
 ――俺はもう打たない――
 そうだ、「ヒカル」はあの頃のヒカルのまま時間を止めてしまっているのだ。
 あの時、ヒカルをもう一度陽の当たる場所へ引っ張りだしたきっかけは残念ながら分からないままだけれど、あのヒカルが立ち直ったのだからこの「ヒカル」が戻って来ないはずがない。
「何ニヤニヤしてる」
 微笑を浮かべるアキラの表情が気に触ったのか、ヒカルは苛立たし気に口唇を歪めた。
 アキラは軽く首を傾げてみせた。正直なところ、彼を刺激するのが楽しかったのかもしれない。彼がアキラの反応に腹を立てればそれだけヒカルが近くなる。ついさっきまで、人を食ったような発言をしていた彼が極端に子供っぽくなっていくのを見るのは何だか嬉しかった。
 当然、そんなアキラが頬を緩めるのはヒカルにとって気分の良いものではないだろう。尋ねても答えず、微笑を見せるアキラに焦れたように、ヒカルは大股に歩み寄って来た。一気に距離が縮まったことに対してアキラが少し目を丸くした時、ヒカルはアキラの胸倉を乱暴に掴み上げていた。
「出てけ。気持ち悪い」
「随分だな。答えは出た? ボクが塔矢アキラではないなら、一体誰かって」
「知るか。とにかくお前なんか知らない。塔矢は何も聞くはずがないから」
 掴まれた襟が首を絞め、アキラはぐっと呼吸を詰まらせる。それでも腕の力を緩めないヒカルに、アキラは負けじときつい視線を向けた。
「何故、ボクが何も聞かないと言い切れる?」
 苦し気な吐息混じりのアキラの質問に、ヒカルの眉がぴくりと動いた。
 乾いた薄皮がめくれかかっている下口唇に、釣り上げられながらアキラは気付く。そっと舌で触れてやりたいと思った時、その口唇が小さく動いた。
「……塔矢は俺に執着しない」
 微かな呟きは、確かにアキラの耳に届いた。
 その言葉の違和感に顔を顰めるが、苦しさ故のものと受け取られても無理はない締め上げられ方だ。
 いい加減限界だと、アキラは胸倉を掴んでいるヒカルの腕に手をかけた。
「……ッ!」
 力を込めると、ヒカルの表情が痛みに歪んだ。途端、緩んだヒカルの手を振り解き、アキラは喉を押さえてふうと大きく息をつく。
 細い腕のくせに、なんて馬鹿力だ。口の中だけで悪態をついたアキラは、素早く呼吸を整え、なるべく平静を装って背中を伸ばす。そうして見据えたヒカルの乾いた口唇が先ほどの言葉を紡ぐ様を記憶の中で反芻する。
「……ボクがキミに執着しない、だって?」
「……」
「とんだ矛盾じゃないか? こうしてキミをせっせと尋ねてくるボクは? 執着もない相手に黙って抱かれているというのか?」
「……そのほうが楽なんだろ」
「楽……?」
「カラダだけやっときゃ、余計なこと知らなくても繋いでおける」
 ヒカルはアキラから再び顔を逸らしてそう言った。
 アキラは瞬きする。――それは逆の言い分ではないだろうか?
 これまで、「アキラ」はヒカルの心を繋ぎ止めるために身体を利用しているものだとばかり思っていた。
 しかし今「ヒカル」が告げた内容は、その予想とは道を違えている。
 まるで、「アキラ」が「ヒカル」の心なんか必要としていない、と言ったのも同じ。
 そしてそのことを口にしたヒカルの憎々し気な表情を見れば、彼が淡白になり切れていないのも容易に理解できる。
 ――彼らは、とんだ勘違いをしているのではないだろうか。
 アキラはぽかんと開いていた口唇を結び、縺れた糸の先端を見つけたような気持ちになった。
 これを解いてやれば、彼らはひょっとしたらこれまでの過ちに気付くかもしれない――
「……話を戻そうか。ボクがキミの言う塔矢アキラじゃないとしたら。今のボクは、キミに執着しているように見えるというわけだね」
「……」
「確かにボクはキミの知る塔矢アキラとは少し違うかもしれない……だが、ボクもまた「塔矢アキラ」だ。キミがこれまで知らなかった部分、それがボクだ」
「訳の分からねえこと言ってんじゃねえよ……畜生、まだ目が覚めてねえんだ、俺……」
 顔を覆おうとしたヒカルの手首を、先程とは逆にアキラが強く掴んだ。ヒカルがぎょっとしたようにアキラを見る。
「ボクの存在が夢だとでも?」
「……、お前、一体何なんだ……」
「言っただろう。ボクも塔矢アキラだと」
「――、そうか、お前だな。何度もあいつの携帯番号入れやがったの。勝手に俺の灰皿隠したり、俺が知らないうちに家ん中引っ掻き回して――」
「へえ、あの登録内容だけでボクの番号だと分かった訳か。確か『T』としか入れていなかったはずだ。少なくとも、ボクに無関心と言う訳ではなさそうだな」
「うるせえっ! 誰だてめえは!」
「残念ながら、キミの部屋を引っ掻き回したのはボクじゃない。もう一人のキミだよ」
 ヒカルの目が見開かれた。
 隙を見つけたとばかり、アキラはヒカルの手首を掴んだまま、その身体を突き飛ばすように乱暴に腕を伸ばした。咄嗟の衝撃に吹っ飛んだヒカルの身体は、アキラが手を離したことによって背後のベッドに足をぶつけ、受け身も取れずにベッドの上に尻をつく。
 アキラはすぐに身体を起こそうとしたヒカルの肩を掴んで、力を込めてベッドに押し付けた。まだ体勢を整えていなかったヒカルが呆気無くベッドに背中をつき、血走った目を剥いてアキラを見上げている。
 アキラは僅かに乱れた呼吸を押し殺して、ヒカルを見下ろしたまま低く囁いた。
「キミの中に、いるはずだ。こんな生活を好まないもう一人のキミが。そしてボクも、黙ってキミに抱かれるのは性分じゃない……キミを抱き締めるほうが余程合っている」
 できるだけ優しく、語りかけるように告げたアキラは、手荒なことをしていながらヒカルを安心させるためにそっと微笑した。
 ヒカルは大きく開いた目をギラつかせてアキラを睨み付けていたが、アキラの言葉にふいにその丸い瞳がぐしゃりと歪み、殺気立っていた顔が一気に幼くなる。
「……だったら……なんでしてくんねえんだよ……」
 絞り出すような声にアキラがはっとしたその瞬間、まるで電池切れの機械の最後のアクションのようにヒカルは大きく一度だけの瞬きをして、その瞼がゆっくりと閉じていく。
 ことりと力が抜けたヒカルの身体を呆然と見下ろしていたアキラは、ふと理性を取り戻して彼の身体を軽く揺すった。何の反応もないヒカルは、唐突に深い眠りに落ちたようだった。
 瞼を下ろしてすぐの間は苦渋が浮かんでいた表情が、やがて安らかな寝顔に変わるのを見守って、アキラは「ヒカル」が眠ったことを理解した。