Maybe Tomorrow







 ――さて、どうしたものか――

 アキラはヒカルをきちんとベッドに横たわらせ、丁寧に布団をかけてやってから、その周りを落ち着きなくうろうろと歩き回っていた。顎には指先を当て、何か考え込んでいるようなポーズで。
 気付けば外はすっかり暗くなっていて、部屋の中も当然のように真っ暗だった。相変わらずカーテンのない部屋で煌々と電気をつけるのは躊躇われるのだが、暗闇から月が無遠慮にこちらを覗いているよりはマシかと灯りのスイッチに手を伸ばしたのは数分前。
 ヒカルは寝息を立てている。
 次に目が覚める時、「ヒカル」はヒカルに戻っているだろうか。そうあって欲しかったが、保証はどこにもない。そもそも、何がきっかけで「ヒカル」になっていたのかもよく分からない。
 社の部屋で泊まるその前日まで、お互いに違う意識が身体を支配していた。それから数日と経たずに再びヒカルが「ヒカル」になったということは、思った以上に残された時間は少ないのかもしれない。
 そして、それは自分にも言えることだろう。
 ともかく、できるだけ頭を整理して、ヒカルが目を覚ますのを待とう。アキラはそう考えながら、何度も狭い部屋を大股で横切った。途中、ふと思い出したようにヒカルの携帯電話を確認し、やはり自分の番号が消されていることにため息をつきながら(そして改めて番号を登録し直しながら)。
 そんなことをして数十分経った頃だろうか、突然胸ポケットに入れていた携帯電話が震え始めた。
 飛び上がるほど驚いたアキラは慌てて携帯電話を引っ張りだし、電話をよこした相手を確認しようと液晶画面を覗き込んで――青ざめた。
 そこに表示された自宅の番号に、アキラは天を仰いで口唇を噛み、少しの間を要して怖じ気付く気持ちを奮い立たせる。そして意を決して通話ボタンを押した。
『アキラさん!? 今どこにいるのっ!』
 耳を劈く母の声に顔を顰め、アキラは必死の弁解を始めた。
 無理もない、出掛けにあれだけ押し問答をした末ようやく納得させたのは、棋院でちょっとした用事を終えたらすぐに帰るというアキラの言葉を母が渋々信用したためだ。アキラは自分の詰めの甘さに舌打ちする。
『ともかく、今すぐ帰ってらっしゃい。これ以上心配かけないで。また前みたいに皆さんにご迷惑をおかけするようなことがあったら……!』
「わ、分かりました、すぐに戻ります。ボクは大丈夫ですから、落ち着いて」
 同じような台詞を何度も繰り返して母を宥め、ようやく切れた通話にアキラは心底安堵のため息をつく。
 なんて疲れるやりとりなんだろう――先ほど「ヒカル」とやりあった時のほうがよっぽど冷静でいられた。
 アキラは眠るヒカルに顔を向け、その穏やかな寝顔をじっと見下ろす。
「……進藤」
 小さく呼び掛けてみるが、反応はない。時折瞼がふるふると揺れるくらいで、後は微動だにせずにぐっすりと眠りこけている。
 仕方がない、とアキラはもう一度ため息をつき、ヒカルの傍らに膝をついてその顔を覗き込んだ。
「ごめんね。ついていてあげたかったけど……行かなきゃならない」
 前髪を優しく掻き上げて、額に触れるだけのキスを落とした。
「またすぐ連絡するから。……おやすみ」
 立ち上がり、名残惜し気に数秒ヒカルを見つめた後、アキラは身を翻す。
 電気を消していこうか迷ったが、振り返った先の窓から大きな月が顔を出すのが癪で、そのままに部屋を出た。
 閉まるドアを背中に感じ、アキラは眠る前の「ヒカル」の顔を思い出す。

 ――……なんでしてくんねえんだよ……

 独り言のように呟かれた悲痛な訴えは、自分を責めているように聞こえた。








 帰宅した後、真直ぐ戻ってこなかったことに対してたっぷり一時間両親の説教を食らったアキラは(とても理不尽な内容だと思ったが、黙って耐えた)疲れた身体を引き摺って自室へと戻る。
 なんだかこのパターンが続いてしまっている。アキラは嘆息した。
 一度部屋に戻った時から数時間が経過してしまったが、まるでデジャヴのような自分の様子に失笑を漏らす。
 そういえば、ヒカルにスケジュールを伝えることができなかった。
(進藤、お腹を減らしていないだろうか)
 目を覚まして、腹を鳴らし寂しそうにしているヒカルの姿が容易に想像できて、せめて何か食べ物を買って置いておけばよかったとアキラは後悔する。
 起きた時に、電灯で明るい室内を見て不思議に思ったりはしないだろうか。
 いや、そもそも――起きて来るのは「どちら」のヒカルか。
「……」
 アキラは神妙に眉を寄せながら、母親に風呂に入れと言われたことを思い出して気怠げに支度を始めた。
 手も足も現実世界の義務をこなすため淡々と動いているのに、頭の中だけは目に見えている景色からどんどん逸れていく。
『お前は塔矢じゃない』
 「ヒカル」の言葉が繰り返し再生される。
『塔矢は俺に執着しない』
 あれでは、まるで。
(――「キミ」が「ボク」を繋ぎ止めようとしているみたいじゃないか……?)
 数日前、いなくなったアキラを探して迷わずヒカルの家に現れた和谷。
 伊角の「何度言っても進藤から離れようとしなかった」という言葉。
 アキラはずっと、「アキラ」ばかりが「ヒカル」を追っていたのだと思っていた。
『カラダだけやっときゃ、余計なこと知らなくても繋いでおける』
(繋いでおける? ……何を?)
 執着しないと言い放った相手が、ヒカルの何を繋いでおくために身体を重ねているというのだろう?
 それは心ではないのか。心がありながら執着がないと言い切れる、そんな状態は矛盾している。
(心ではないとしたら、「ボク」は一体彼の何を繋いでおきたいと言うんだ?)
 そして、あの口ぶりからするに――ヒカルこそがアキラの心を繋いでおきたがっている。
 分からない、とアキラは眉間に指先を当てる。
 少し前までは「ヒカル」が分からなかった。今は「自分」が分からない。
 実際に「ヒカル」と逢って納得したことがある。あの部屋の寒さはヒカルの寂しさだ。カーテンのない、不躾にも感じられる大きな月の視線。あの遠慮のなさは酷く居心地が悪いと思っていたのに、寧ろヒカルはそれを望んでいたのかもしれない。
 本当は「ヒカル」こそが、あの開け放した窓と同じように心の奥底まで覗き込まれたがっているのでは……
 ブー、と耳障りな音にアキラの意識が引き戻される。
 畳の床に置いていた携帯電話が震えていた。うるさくないよういつも音を消しているが、ちょうど縁の上に乗っていたせいでバイブレーションでも騒音が響いてしまったようだ。アキラが携帯を拾い上げると振動が手の中でのみ広がった。
「進藤」
 画面に表示された『S』の文字を見て、アキラは思わず呟く。
 目を覚ましたのだろうか。あれから数時間と経っていない――ヒカルから電話をかけてくるということは、恐らく「ヒカル」は眠ったままだろう。そう判断したアキラは、迷わず携帯電話を耳に当てた。
「もしもし?」
『塔矢? 悪い、いきなり電話して。今、大丈夫?』
「ああ、部屋だから構わない。……どうかした?」
 つい、ヒカルの反応を確認するような問いかけをしてしまう。
 基本的にやりとりはメールからと決めてある。電話がくるということは、それなりに緊急事態だということだ。
『いや、特に何でもねーんだけどさ……お前、俺んとこ来たり、した?』
 どきんと胸が大きく音を立てた。
「……いや」
 咄嗟に口をついたのは否定の言葉だった。
 何を隠す必要があるだろう? ――自分でもそう思っているのに、しかしアキラは躊躇った。「ヒカル」と出会ったことを告げるべきかを。
 「ヒカル」との会話はアキラに新たなヒントをもたらした。ただ、そのヒントがアキラを安堵させたかというと、決してそんなことはなくて……
『そっか。なら、いいんだけど……やっぱ、夢か……』
「……夢?」
『いや、なんでもない。それだけ。ごめんな、いきなり』
「いいんだ。……進藤、お腹すいてないか?」
『あ、やっぱ分かる? へへ、ちょっとな。我慢できなくなったら何か買って食うよ。まだ金残ってるし』
「そうか。それならいいんだ……」
 ヒカルの声。あどけない笑い混じりの朗らかな声はアキラの不穏な心を癒してくれる。
 それでも酷く後ろめたい気分だった。ヒカルに嘘をついたこともそうだが、「ヒカル」の言葉もまた。

 ――なんでしてくんねえんだよ……

『じゃ、またな。おやすみ、塔矢』
「え? あ……、ああ、おやすみ……進藤」
 通話が途切れる。
 手の中の携帯電話は、途端にただの物体に成り下がる。
 アキラは静かに通話状態を切り、携帯電話を畳に転がした。
 口唇から漏れるため息に目を細め、歯切れの悪い自分の様子がヒカルに気付かれなかったかと転がった携帯電話を見下ろす。
 ――不安になるくらいなら、嘘などつかなければ良かったんだ。
 だがしかし、あのやりとりをどんなふうに伝えたら良いのだろう……?
「……」
 ふっと短い息をついたアキラは、気持ちを切り替えるために機敏に立ち上がり、そうして引っ張り出された着替えを見つけて風呂に行く途中だったことを思い出した。
 また母親に何か言われては困る……そんなことを思いながら着替えを拾い上げようとした時。
 視界がぶれた。
「……!?」
 いきなり立ち上がったことによるただの目眩だと、頭では理解していた。しかしもっと深い部分で警鐘が鳴り響く。
 抗いようのない眠気が足元をフラつかせる。天井がくらくらと回り、アキラは自分がとうに床に仰向けに倒れこんだことを気付かされた。
 まずい、と口唇が動いた、それが最後だった。
 意識が引っ張られる。眠くて、瞼を閉じずにいられない。
(……駄目、だ……)
 この感覚はあの時と似ている……眠くてたまらず、目が覚めた時はすでに三日もの時間が経過していたあの時と。
 逆らえない――「彼」が出て来る……







 ……、




 ……だから……


 ――お願いだから――





 ……ボクのために生きてなんて……



 ……言わないから……










なんだか二重人格者の話みたくなってきました……。
相変わらずの牛歩小説です。ひどすぎる。
一応「ヒカル」が出て来たことでちょっとだけ進展したかなあと
ごまかしながらもまだまだ続きます。すいません。
(2007.02.28/37〜45UP)