Maybe Tomorrow






 ガサガサとコンビニ袋を引っさげて、真っ暗な通りをとぼとぼと歩く。
 ヒカルはところどころ灰色の雲がかかっている夜空を見上げながら、人通りの少ない寂しい路地を一人進んでいた。
 あまり通い慣れたくはない、この世界への我が家への道。何度歩いても落ち着かない、賑やかさとは程遠い景色だった。
 ひっそり静まり返った暗い道、ヒカルの腹がくうと音を立てた。ヒカルは苦笑して自分の腹をぽんぽんと優しく叩きながら、軽いコンビニ袋をわざとうるさく振り回して歩く。
 アキラには電話で「まだ金が残っている」と伝えたが、実は相当節約しなければ数日ももたない程度にしか残っていなかった。そのためコンビニで買えたのもおにぎりふたつだけ。仕方ねえな、と味気ない夕飯を思ってため息をつく。
 アキラは自宅で暖かい夕食にありつけているだろうか。
「……」
 靴の爪先に当たる石ころをこつんと蹴飛ばした。
 ――さっきは思わず電話をしてしまった。
 気付いたら自分は服を着たままベッドの中に居て。室内は何故か電気がついて明るいまま。どうしてそうなったかの状況をうまく思い出せずにいたら、テーブルの上に隠したはずの灰皿が乗っているのに気がついた。
 さっと血の気が引き、怠い身体を起こして部屋を見渡して、何が起こったのかを理解しようと努めた。
 携帯電話で日時を確認する。ヒカルが自分の意志で部屋に戻って来てからそれほど時間は経っていない。記憶がないのは大方数時間といった程度で済んだようだ。
 ついこの前記憶が飛んだばかりだったのに――現状に身震いしながら、なんだか部屋に仄かに残る気配に眉を顰めた。
「……塔矢?」
 思わず声に出してしまう。
 アキラが、居たような気がする。
 数時間前に別れたばかりなのにそんなバカなとも思ったが、やけに耳に残っているアキラの低い声。
 大好きなあの優しい響き。

 ――キミの中にいるはずだ……

「……」
 ただの夢かもしれない。
 でもひょっとしたら。
 その瞬間、手は思わず携帯電話を握り締めていた。また消されてしまったかと思われたアキラの番号はちゃんと登録されたままで、ほっとしながらアキラを呼び出す。
 聴こえて来たアキラの変わらない声に目元を緩め、他愛のない会話と挨拶で通話を終えた。
(やっぱり、夢だった)
 再びこつんと道端の石ころを蹴飛ばす。先ほどより大きな石は、ごろごろとほんの少しだけ転がってすぐに止まった。ヒカルは助走をつけて、思いきりその石を蹴り上げた。ふわりと浮いた石は数メートル先まであっという間に転がって行く。
 どうしても、寂しい気持ちは拭い切れない。
 仕方のないことかもしれない。帰る場所は今あそこしかない。強がってみせても、一人きりの時間が辛くならない訳ではないから。
「……どうしようもねえけどな」
 呟きは闇に溶けた。
 夜風がびゅうとヒカルの身体を竦ませて、ヒカルは足早に夜道を急ぐ。
 素っ気無い部屋でも、自分の家には変わりない。



 ヒカルの部屋には余分なものがほとんどない。勿論金目のものも全く無い。
 そのせいで、ヒカルは戸締まりにすっかり無頓着になっていた。
 今もコンビニに食料を調達する僅かな時間だからと、部屋のドアに鍵をかけずに出かけていた。だから、ドアノブを握った時に簡単にドアが開いても何の疑問も持たなかったのだけれど。
 開いたドアの向こう側、つけっぱなしで出かけたはずの室内が暗い。
「え……」
 勢いそのまま足を踏み入れた玄関、一連の動作が癖のようになってドアをばたんと閉めてしまうと、その思い掛けない暗さにヒカルは視界を遮られてしまった。
 だがそれも一瞬のこと、カーテンのない窓からは雲の隙間に顔を出している月明かりがぼんやり室内を照らしている。徐々に暗さに慣れて来た目をぱちぱちと瞬きさせて、ヒカルはとりあえず中に入ろうと靴を脱ぎかけ――こつりとスニーカーの先に何かが当たるのを感じて目線を下ろした。
 狭いスペースに誰かの靴がある。……革靴。
 はっとしてヒカルは顔を上げた。
 ベッドの傍に、誰かが立っている。
 声を失ったまま、そのシルエットを凝視した。影は窓を向き、じっと身じろぎせずに立っている。
 騒々しく中へ入って来たヒカルに気付いていないはずがない。それなのに、影は驚く素振りも見せない。
 ヒカルはごくりと唾を飲み込んで、静かに部屋の中へと入っていった。コンビニの袋がやけにガサガサと耳障りで、玄関のすぐ傍で手を離した。ガサリ、と袋が床に転がる大きな音の後、室内はほぼ無音になった。
「……塔矢?」
 ヒカルはそっと声をかける。
 人影は数秒、その呼び掛けにさえ反応せず、それでもしばらくしてゆっくりとヒカルを振り向いた。
 窓からの月明かりで逆光になり、表情がよく分からない。
 それでも確かに振り返ったその人がアキラであることを認めて、ヒカルはほっと肩の力を抜いた。
「……なんだよ。来てたの? びっくりした……」
 アキラは何も答えない。
 ヒカルはアキラに近付きながら、不思議そうに首を傾げる。
「どした? ひょっとしてさっきの電話のこと?」
 アキラは動かない。僅かにヒカルから目線を逸らして、口唇をしっかりと結んだままその場に突っ立っている。
「……、塔矢……?」
 ヒカルは足を止めた。
 ――おかしい。
 様子が変だ。
(違う)
 空気が違う。
 ヒカルの知っているアキラと、纏う空気の質が違う。
(俺の塔矢じゃない)
 立ち止まったヒカルは、目を見開いてアキラの姿を見つめる。
 姿形、何もかも同じ。服装だって数時間前に別れたそのままだ。
 それでも目の前のアキラは、ヒカルがよく知る塔矢アキラではなかった。
「……塔矢」
 ヒカルの囁きに、アキラが微かに顎を上げる。
 室内に闇が落ちた。――雲が月を覆い隠した。
 暗い部屋の中、耳に痛いほどの静寂を突き破るようなヒカルの鼓動が、どくん、どくんと激しく加速を始めていた。