Maybe Tomorrow






 ごくり、と生唾を飲み込んで上下した喉の音が部屋中に響いたような気がした。
 ――間違いない。
 ヒカルは目の前にいるアキラが、こちらの世界の「アキラ」であると確信した。
 自分だって先ほどまで別の「ヒカル」が出て来ていたのだ、アキラが同じ状態になっていてもおかしくない。
 ただ、こうしてヒカルの家にやってきた真意を図りかねて、ヒカルは何と声をかけたものか戸惑った。
 先ほどから何度も名前を呼んでいるのに、アキラは返事すら寄越さない。ただ黙って立ち尽くすその姿にどう対応したら良いのか、ヒカルは困って眉を垂らす。
 沈黙は数分続いただろうか。
 おもむろにアキラがゆらりと動いた。は、とヒカルが目を見張るその前で、アキラは来ていたジャケットを肩から落とし、シャツのボタンに手をかけ始める。
「え……」
 ひとつ、ひとつ、上から順にボタンを外して行く。ヒカルは目を見開いて、何が起こっているのか理解しようと必死で頭を働かせた。――理解するも何も。
 アキラはシャツのボタンを全て外し、そのシャツを脱ぎ捨てた。ぱさ、と小さな音を立ててアキラの足元に蹲るシャツを思わず目で追ったヒカルは、その事実に呆然と声を失ったままでいる。
 少し俯きがちに顎を引いたまま、アキラは今度は自らのベルトに手を伸ばした。さすがにぎょっとしたヒカルが慌てて両手を突き出す。
「お、おい、何してんだよ」
 アキラは答えず、躊躇なくベルトを外した。カチャ、という音がしてから間髪入れずにジッパーを下ろす音が聴こえて来て、ヒカルはいよいよマズイと頭を抱えた。
 目の前で淡々と衣服を脱いで行くアキラ。薄暗い部屋の中で、言葉もなく肌を晒していくアキラが何をしにここへとやってきたのか、「ヒカル」ではないヒカルにだって分かる。
 何とかしてアキラの動きを止めたいが、アキラはヒカルの声に耳を貸さない。それどこか目も合わせてくれない。焦れたヒカルは、強行手段に出ようと一歩アキラに近付いた。
 その時、空を覆う雲が風に流されて、隠れていた月が俄に顔を出した。
 暗闇の中に突然差し込んで来た明るい光にヒカルは一瞬目を閉じる。衣擦れの音が止んだ。
 はっとして目を開いたヒカルの視線の先に、全裸になったアキラがじっと床を睨んだまま佇んでいた。
 月明かりの下、照らされたアキラの裸体に思わず息を呑む。引き締まった体躯はこれまで何度も見て来たというのに、薄闇に浮かび上がるその身体は惚れ惚れするほど美しかった。
 この肌寒い部屋の中でアキラは震えることもなく、視線を落としたままぽつりと呟いた。
「……三日後。手合いがある。」
「……え?」
「そろそろ、出ておいたほうがいい」
 それだけ言うと、アキラは再び黙ってしまった。
 ヒカルはアキラの短い言葉を頭の中で何度も反芻して、その意味を理解しようと努めた。
 目の前で服を脱いで、唯一発した言葉が手合いに出るようヒカルを促すもの――
 ヒカルは愕然とした。
「……お前、手合いに出る代わりに抱かせてやるって言ってんのか?」
「……」
「何、安っぽいことしてんだよ」
 アキラが一瞬顔を上げかけた。
 それよりも早く、ずんずんとアキラに近付いたヒカルが、その左腕をぐっと掴む。アキラははっとしてヒカルを見上げ、すぐに顔を逸らした。
「こっち向け」
「……」
「俺を見ろ! 塔矢!」
 ヒカルはアキラの腕から手を離し、代わりに両肩を掴んで力を込めた。咄嗟にヒカルを見たアキラの顔が驚きで強張っている。
 月の光のせいか、アキラの顔は酷く青白く見えた。ヒカルがよく知るアキラのような、優しい目の輝きは彼にはなく、何かに怯えているような小さな光が瞳の中でちらちら迷っているばかり。ヒカルは顔を近付けて、戸惑うアキラを逃がさないように覗き込む。
「……ちゃんと、俺を見ろ」
「……?」
「俺の目。ちゃんと見ろよ」
「……、キミ、は……」
 アキラは緩く首を振り、信じられない、といった表情で顎を引いた。
 ヒカルは掴んだ肩を離さない。
「キミは、誰だ」
 今にも消え入りそうな声でアキラが尋ねた。
「誰」
「ヒカルだよ」
「違う」
 アキラは再び首を振る。
 しかし、目だけはヒカルに射抜かれたかのように視線を逸らせず、その事実が更にアキラを戸惑わせているようだった。
 無理もない、とヒカルは軽く目を細めた。悪戯に貼り出された写真で見た、うつろなアキラの表情を思い出して胸が苦しくなる。
 本当はお互いを必要としているはずなのに、心が通えていない二人。今だってアキラはこんなに怯えている。見つめあうことさえ怖がっているだなんて、どうしてそんなふうになってしまったのだろう?
 ヒカルは緊張に渇いた口唇を舐めて、小さく深呼吸をした。それからアキラの肩を掴んでいた手の力を少しだけ緩め、掴むというよりは支えるように優しく添えた。
(やれるだけやってみよう)
 揺れる瞳を正面から見つめる。ヒカルが大好きな、アキラの強い光が宿る瞳が見えなくて寂しさを感じるが、本質は同じアキラであるはずだ。
(お前に逢いたい、塔矢)
 まずは目の前の彼から話を聞いてみよう。
 何故、こんなふうに歪んだ関係になってしまったのか。
(そして、俺の塔矢を返してくれ)

 彼にも必ず「ヒカル」を返してあげるから――

 ヒカルは微笑んだ。
 その優しい微笑を見て、アキラの目がもうひと回りふわりと大きくなった。