Maybe Tomorrow






「……怖がるな。大丈夫だよ」
「……キミは、一体……」
 アキラはヒカルの腕から逃れようと身を捩った。ヒカルは慌てて手に力を込める。
 あまり乱暴に押さえ付けていたくはないが、このまま逃げられては話もできない。
 裸のアキラを捕まえたまま、ヒカルはなるべくゆっくりとした口調で、アキラに優しく語りかけた。
「俺はヒカルだよ。進藤ヒカルだ」
「違う……」
「なんで違うって思う?」
「……だって」
 アキラはやんわりと下口唇を噛み、堪え切れないといった様子でヒカルから目を逸らした。
 再び視線を床に落としたアキラは、緩く首を振り続けながらヒカルの言葉を否定しようとする。
「キミが、笑うなんて。……進藤は笑わない。ボクを見たりしない」
「……そっか。だから驚いたんだな。……そうだな、俺はお前の知ってる進藤ヒカルとは少し違うかもしれない」
「……?」
 アキラがまた少しだけ顔を持ち上げかける。
 ヒカルは自分へと興味を向けるその仕種を見逃さず、根気良く言葉を続けた。
「俺は……夢の中の進藤ヒカルだよ」
「……、夢……?」
「そう、夢だ。だから怖がらなくていい。俺は、夢なんだから」
 アキラが恐る恐る顎を上げ、上目遣いでヒカルを見た。その頼り無い視線を柔らかく受け止めたヒカルは、もう一度静かに微笑んでみせる。
「夢?」
「ああ、夢だよ」
 アキラは幾分ほっとした表情を見せた。力の入っていた二の腕が若干解れて、ヒカルもまたほっとする。
 よく見れば、どことなくアキラの表情は朦朧としているようにも見えた。ひょっとしたら「アキラ」になったばかりで身体の動きが覚束ないのかもしれない。――ヒカルが三日間の眠りから覚めた後も同じような感覚があった。
 だからこそ「夢」だという暗示を信じてくれたのだろう、しかしもう少し思考がはっきりしてくればすんなり言うことを聞いてくれないかもしれない。かといって怯えているアキラを急かすようなことはできない。
 できれば服を拾い上げて肩にかけてやりたいが、少しでも余計な動きをするとこちらを向きかけているアキラの気を削いでしまうとも限らない。
 焦らずに、ゆっくり。ヒカルは自分に辛抱強く言い聞かせ、真直ぐにアキラを見つめた。
「なあ。なんで、俺を見るのが怖かったんだ?」
「……」
「目を合わせるの、怖がってただろ。俺が見つめ返さないのとは話が別だ。俺が怖い?」
 アキラは小さく首を振る。戸惑いの残る表情が怖じ気付かないよう、ヒカルはアキラの口を割らせるために首を傾げてみせた。
 怖いかと尋ねられたアキラが小さな素振りでそれを否定した。ならば別の理由があるはずだと、ヒカルはアキラが口を開くのをじっと待つ。
 ヒカルの無言の圧迫に屈したのか、アキラは躊躇いながら微かに口唇を動かし始めた。
「……分からないから」
「……分からない?」
「どんなふうにキミを見たらいいのか、分からない」
 ヒカルは瞬きをする。
 アキラの答えをうまく聞き返すことができなかった。
(――分からない?)
 アキラの言葉の意味を理解しようとすればするほど、それは難解だった。
 「分からない」とアキラが悩んでいること自体に酷く違和感があったからだ。
 ヒカルの知るアキラは、いつだって真正面からヒカルを見つめていた。ヒカルの中に存在する佐為の強さに怖れを憧れを抱き、ヒカルを追ってきたあの強い眼差し。
 その目の輝きに引き寄せられるように、ヒカルもアキラを追い続けた。強烈な引力は頭で考えて起こしたものではない。自然とお互い惹き付けられたのだから。
 それが、アキラの口から「どんなふうに見たらいいのか分からない」と言われて、ヒカルも戸惑ってしまう。
 何が違うというのだろう? 彼らが過ごした時間と、自分達が歩いて来た道の何がずれていたというのだろう。
(……あ)
 ふと、ヒカルは社の話を思い出した。

『その塔矢名人の息子と、一局打って友達になったって言うんや。』

 あの時は聞き流した一言だったけれど。
(ひょっとして……)
 ヒカルはアキラの肩をしっかりと掴み直し、その目を見据えた。慣れないのだろう、アキラがまた怯えて目を逸らそうとする。
「塔矢」
 低く呼び掛けると、アキラの身体がびくりと震えた。
 なるべく刺激を与えないよう、できる限りの優しい声色でヒカルはそっと尋ねる。
「なあ、俺達が初めて逢った時のこと、覚えてる?」
 ぴくりとアキラの身体が反応したのが、触れている部分から伝わって来た。
「初めて……」
「そう。初めての時。俺は……どんなだった?」
「キミは……」
 アキラは睫毛を伏せ、その隙間から除く瞳を静かに左右へ動かし、遠い日の思い出に記憶を馳せているようだった。
 そのどこか切な気な、それでいて陶酔を感じるうっとりとした表情を前に、ヒカルは目を奪われながらもアキラが話し始めるのをじっと待つ。



「キミは……ある日突然碁会所に現れて……」

 ――なんだ、子供いるじゃん!

「辿々しい手付きで、石を打って……」

 ――俺は、進藤ヒカル。6年生だ!

「まるで素人みたいな石の置き方をするのに……、圧倒的な強さで……ボクを遥かに凌駕した……」

 ――また、打とうな――



 屈託ない笑顔で手のひらを差し出して来る彼の小さな右手を、半ば呆然と――まるで見蕩れているような顔をしながら、アキラがそっと握り返した遠い日――