Maybe Tomorrow






 ヒカルはゆっくりと目を見開いた。
 俯きがちのアキラはヒカルのそんな表情には気付いていないだろう。
「また、打とう……?」
 呟くように聞き返したヒカルは、思わず漏れていた自分の声にはっとしてアキラの様子を伺うが、アキラはヒカルの呟きが耳に入っているのかいないのか、相変わらずの視点の覚束ない瞳でうろうろと地を見つめている。
 また打とうと握手して。
 アキラはそれを心待ちにして。
 ヒカルもいそいそと碁会所に現れて。

 ――その塔矢名人の息子と、一局打って友達になったって言うんや――

(……友達……)
 ヒカルの頭の中で、少しずつパズルのピースがはまって行く。
 そうなのだ、この世界はそもそもがヒカルのいた場所と違っている。幼馴染みの社に、「お友達」のアキラ。そういえば、社は「塔矢の棋力はいまいち」なんて言っていた。もっとも、北斗杯の予選ではしっかりとした碁で勝ち残ったのだから、元々実力はあったのかもしれない、出し切れていなかっただけで。
(……、友達。)

 ――分かった。
 「友達」では駄目だったのだ。

 ヒカルはごくりと唾を呑み込み、少し頭を下げてアキラの顔を覗き込んだ。
 アキラがまたびくりと肩を竦めるが、両肩を掴まれているせいか逃げようとはしない。
「塔矢……、その時、変だって思わなかった?」
「……変……?」
「俺の棋力。素人みたいな打ち方してたのに、やたら強かったんだろ? 変だなって、思わなかったのか?」
 アキラはヒカルから顔を逸らしたまま、戸惑うように微かに首を振った。
「ボクよりも強い人なんてたくさんいる。確かに、手付きは辿々しかったけど……、それでも確かな力だった。ボクは……キミとまた打ちたかった」
「塔矢……」
 ヒカルは確信した。
 恐らくは、ヒカルの知るアキラほど自分の力に自信が持てていなかったアキラは、驚きながらも力の差を受け入れてしまったのだ。
 勝つためにではなく、純粋に再戦を願うアキラにヒカルは応えた。ひょっとしたら、幼馴染みの社が碁を嗜んでいたことで、ヒカルも碁に対する抵抗が少なくなっていたのかもしれない。
 そうして友達として慣れ合いながら、仲良く楽しく碁を打って来た。お互いの内に秘められた激しさなんか気付きもせずに。
 ――佐為が、消えるまで……。

『どんなふうにキミを見たらいいのか、分からない』

 分からないのも無理はない。
 求めあうタイミングがなかったのだ。



 ――俺、お前とは打たないぜ

 ――もう二度とキミの前には現れない

 ――ホントの俺にいつか足元すくわれるぞ!

 ――いつかと言わず今から打とうか?

 ――俺はもう打たない

 ――ボクと戦うためじゃなかったのか!

 ――俺、碁をやめない――





『――追って来い!』





(そうか……)
 どれもこれも、必要なことだった。
(アイツを突き放すことも、アイツに突き放されることも)
 敗北から這い上がり、失望をバネにして、追い、追われて、喪失を乗り越えた。
 何もかも必要だったのだ。あの遠回りの関係に、無駄などひとつもなかったのだ。
 だからアキラは真直ぐにヒカルを見つめて、ヒカルも正面からアキラを見つめ返す。
 互いの存在が紛れもない「目指すもの」だったから。
(……塔矢)
 辛くて苦くて、それでも大切だった通過儀礼。
 それを越えられなかった彼らは、互いを見失って道に迷った――


「塔矢」
 ヒカルはアキラの顎を掬い上げ、強引に顔を向かせた。
 ふいに強い態度に出たヒカルと一瞬目が合ったアキラは、すぐに顔を強張らせて背けようとする。
 それでもヒカルは手を離さなかった。嫌がるアキラを無理に自分へ向かせ、押さえ切れない思いが氾濫するのだけはぐっと堪えて口を開く。
「塔矢。教えて。お前、俺が……手首切った時。俺に、何を言った?」
「……!」
 ばち、と大きく瞬きしたアキラの表情が凍る。薄闇でははっきりと分からないが、月の灯りも伴ってやけに青白い肌がすっと透き通ったようだった。
「なあ、教えて? 目を覚ました俺と何か話したんだろう? これは夢だから。だから、話しても大丈夫だから」
「あ……」
「……塔矢!」
 顎を捕らえられたまま、ぶるぶると震えるアキラの口唇が音にならない声を漏らす。
 ヒカルはしっかりアキラと目を合わせ、根気強くアキラの言葉を促した。
 やがて、アキラはゆるゆると腕を持ち上げ、ヒカルの拘束が解けた左腕を掲げて崩れた表情を覆い隠す。ヒカルはその行動を止めようとはしなかったが、アキラの右肩を掴む手は決して離そうとはしなかった。
「……キミの……」
 それでも掠れた声が徐々に言葉を紡いでいくのを、ヒカルはひたすら辛抱して待ち続けた。
「キミの碁は、……必要とされているから」
 カタカタと震える口は、過去の出来事を思い出しているためだろうか、形を歪めて痛ましい。
 ヒカルは堪えて待ち続けた。
「……その人たちのために……打って、欲しい、と……」
 長い時間をかけてようやくアキラが落としてくれた言葉を聞き、ヒカルはそっと瞼を下ろす。
「……そうか……」
 緩く口角を釣り上げたヒカルは、目を細く開いて小さく息をついた。
「それは、甘ったれの俺にはキツイなぁ……」
 ヒカルは自嘲気味に呟いて、静かにアキラの顎から手を離し、代わりに顔を覆うアキラの左手首を掴んで押し退けた。
 今にも泣き出しそうに瞳を揺らすアキラの顔がそこにあり、ヒカルは愛おし気に微笑みを浮かべると、その左手首からも手を離す。
 ふいに屈んだヒカルは、アキラの足元に蹲っているシャツを拾い上げ、裸のアキラの肩へとかけてやった。アキラが驚いたように目を丸くしているのにも構わず、シャツの上から再びアキラの両肩を掴んだヒカルは――真直ぐにアキラを見つめて、
「塔矢。本当のこと、言って」
 そう、きっぱりと口にした。