Maybe Tomorrow






「本当の……こと……?」
「そう」
 アキラが分からない、といった様子で首を振る。
 ヒカルは諦めずに、アキラの目を見据えたまま一言一言はっきりと口を開く。
「お前の、本心が聞きたい。俺の碁を、本当に必要としているのは誰なのか……、いや、必要なのは俺の碁なのか」
 アキラは首を振り続ける。
「言って。塔矢。本当のこと。あの日、お前が本当に俺に言いたかったこと、言って。今、ここで」
「あ……」
 それまで大人しかったアキラが、ふいにヒカルの腕から逃れようともがき出した。
 ヒカルは力を緩めない。宥めるように、しかし諌めるようにアキラの肩をしっかりと掴み、嫌がる顔を向けさせる。
「塔矢。……言って」
「……っ」
 口唇の端を噛んだアキラの目尻に、じわりと水滴が滲んで来る。
 ヒカルは目を逸らさずに、アキラの口唇が再び動き出すのをじっと待っていた。
 アキラは潤んだ瞳をゆらゆらと揺らして、意志とは関係なく込み上げて来るのだろう、嗚咽を噛み殺すように喉を震わせながら、小さく口を動かし始めた。
「……キミが、……」
 はらはらと両眼から落ちて来る涙を、ヒカルは静かに見守り続ける。
「キミが……必要だ」
 ひく、と苦しそうにしゃくりあげたアキラは、声を振り絞って最後の言葉を口にした。
「ボクには……キミが、……必要だ……」
 ヒカルは目を細めて、優しく微笑みかけた。
「……うん、俺にもお前が必要だよ」
 ひくひくと肩を上下させるアキラの背中をそっと撫でて、よくできました、と言うようにヒカルはアキラに頷いてみせる。
 アキラは流れる涙をとめる方法が分からないらしく、泣き顔のままで呆然とヒカルを見つめながらしゃくりあげていた。
 ヒカルはアキラの頬を両手で包み、親指の腹で涙をぐいと拭ってやる。
「……でも、塔矢。今の俺は夢だから。……だから、目が覚めた時……目の前にいる俺に、もう一度今の言葉言って?」
「……もう一度?」
「うん。俺に、言ってあげて。そうしたらきっと」
 ――「彼」の心の氷も溶けるから。
「あ……」
 カタカタと顎を震わせるアキラに手のひらの熱が伝わるように、ヒカルは優しく力を込めた。
「言ってやれよ。……絶対だぞ。」
「ボク、は……」
「約束だ」
 ぱちぱち、と不自然なほど何度も瞬きをするアキラの瞼の縁からぼろぼろと涙が落ちる。
 その仕草に違和感を感じたヒカルは、はっとしてアキラの顔を覗き込んだ。
「塔矢?」
「……、しん、どう」
「……おい、塔矢……」
 かくりとアキラの肩から力が抜けた。
 咄嗟にアキラの身体を支えるヒカルの腕の中へ、アキラはぐったりと身を預けていく。
 涙に濡れた瞳が驚いたように一度見開かれて、ゆっくりと閉じられていった。
 くたり。折れて仰け反った首を慌ててヒカルが抱き起こすと、アキラは瞼を下ろして静かに呼吸をしている。――唐突に眠りに落ちたようだった。
「……塔矢」
 アキラの名をぽつりと呟いたヒカルは、「アキラ」が眠ったのだとすぐに理解した。
 ほんの十数分の、短い邂逅。
 アキラでありながらアキラではなかった儚気な青年。
 寝息は穏やかで、頬はまだ濡れているが苦しそうな様子は見られない。そのことに少し安堵したヒカルは、腕の中のアキラが肩にシャツを羽織っただけのあられもない姿だということに気付いてはっと顔を赤く染める。
 とにかく服を着せてあげようと、半ば引き摺るようにアキラの身体をベッドへ下ろした時――
「……!」
 ぐらりと視界が揺れた。
 咄嗟に掴まったベッドのパイプ部分がやけに手のひらに冷たく、ヒカルの意識を浮上させてくれようとするが、更なる目眩と猛烈な眠気が容赦なくヒカルの足元をフラつかせた。
(このままじゃ……また……)
 床に膝をつき、ベッドに仰向けに身体を横たえるアキラの傍らに蹲るような体勢で、ヒカルは重い瞼をこじ上げようと必死になる。
(ダメだ……、「アイツ」が……今、出て来たら……)
 アキラに手を伸ばそうとした。
 しかし闇が落ちるのが先だった。
(……塔矢……)
 身体が重い。頭が痛い。怠くて眠くて抗いきれない。
 ぐらぐらと揺れる頭を持ち上げていられなくて、ヒカルはずるりと床に崩れ落ちた。閉じてしまった瞼はそれきりぴくりとも動かすことができず――意識も闇に落ちていった。







 それから数分経った頃、床に俯せに倒れていたヒカルの肩が微かに動き、おもむろに身体を起こしてゆっくりと立ち上がった。
 眉間に皺を寄せ、頭を押さえながら辺りを見渡して――ベッドで裸のまま横たわっているアキラに気付いてはっと目を見開く。
 ヒカルはしばらく無言でアキラを見下ろした。
 アキラはすうすうと安らかな寝息を立てたまま、身じろぎひとつしない。
 ヒカルはアキラの足先でぐしゃぐしゃに丸まっている毛布へと手を伸ばし、静かに広げてアキラにかけてやった。アキラの呼吸は規則正しいまま、変わらない。
 そっと床に膝をついたヒカルは、微かに震える指先をアキラへ向かって伸ばして、ぎこちなく頬に触れた。頬はまだ先程流した涙で濡れて光っている。
 指先で頬を撫で、濡れた自分の指先を見つめたヒカルは、目を閉じてその場所へと口唇を当てた。
 目を開き、再び伸ばした手のひらで優しくアキラの髪を一撫ですると、ヒカルはふいに口唇を引き締めて立ち上がる。
 尻のポケットを探り、何かがないことを確認すると小さく舌打ちをして、ベッドで眠るアキラに背を向けて歩き出した。
 部屋を突っ切って、玄関で一度だけアキラを振り返り――動かない影に細めた目を向けてから、前を向いたヒカルの表情は厳しいままだった。
 開いたドアが、ヒカルを外へと送り出してぱたんと閉まる。
 ヒカルの消えた部屋で、一人眠るアキラの上に、雲の支配から逃れた月が明るい光を降り注いでいた。