電話口でヒカルがしどろもどろに説明したのは、およそアキラにも、恐らくヒカルにも心当たりのない場所だった。 その住所にあるアパート二階の一室にヒカルはいるという。アキラは住所を自分のものらしいスケジュール帳に書きとめ、時計を見上げた。――午後八時。 それほど遠くではない。タクシーを拾えば三十分もかからないで到着できるだろう。 すぐに行くと告げて電話を切り、居間の様子を伺う。芦原はすでに帰った後のようで、両親にも特に変わった素振りは見られず、アキラは彼らに見つからないように気配を殺して部屋に戻った。 念のため、布団を出して中に人の形に見えるように毛布を詰め込んでおく。ここまでしなくてもとは思ったが、どうにもこちらの塔矢アキラは過保護に育てられているようで、万が一部屋にいないなんてことになったら大騒ぎにならないとも限らない。 準備が万全であることを確認したアキラは、足音を立てないように廊下を通り過ぎ、そうして広い塔矢邸から脱出することに成功した。 ヒカルの待つアパートへ足を急がせる。一分一秒が、酷くアキラを焦らせた。 タクシーから降りて見上げたアパートは、三階建ての古びた壁に覆われ、剥き出しの階段は錆びて赤茶けていた。すっかり陽の落ちた暗闇の中、頼りないオレンジ色の街灯が数本立っているだけで、辺りには人影もほとんどない。 随分奥まった寂しい場所にあるアパートだった。 アキラは意を決して階段を上がり始める。カンカン、と渇いた音がいちいち耳に障る。 202。その扉の前に立ち、呼び鈴を探すが、そういったものが見当たらないことにすぐに気づく。アキラは深呼吸を一度して、目の前の薄いドアを二度ノックした。 中から、ばたばた、と慌しい音が聞こえてきて、ドアノブがガチャガチャと揺れる。アキラが一歩下がったその瞬間、ドアは勢い良く開いた。 ノブを掴んだまま、玄関で強張った表情を貼り付けている……室内の闇を背負って立っているヒカルを認めて、今まで冷え切っていたアキラの指先にどっと血が戻っていくのが分かった。 「……とうや……」 「……進藤」 「塔矢!」 ヒカルは一も二もなく飛びついてきた。 夢中でしがみついてくるヒカルを強く抱きとめながら、アキラはぐっと身体を玄関の中へ押し入れる。 後ろ手にドアを閉め、完全に閉ざされたドアに凭れ、強く抱き合ったままアキラはヒカルの口唇に噛み付いた。 何度も合わせた熱い口唇の感触は、夢でも幻でもない。 アキラは深い口付けを繰り返しながら、もどかしく足を振って靴を振り落とす。 絡む舌を逃すまいと、ヒカルがアキラの頭を抱え込む。アキラもまた、ヒカルの身体を自由にさせないように腕と脚を絡ませ、じりじりと狭いリビングに近づいた二人の身体は、やがて縺れたまま床に倒れこんだ。 その時一瞬顔を上げたヒカルと、見下ろしたアキラの視線がぶつかり、そうして二人の瞳がしっとりと濡れていることを互いで確認した後は、アキラもヒカルも考えることを完全に放棄した。 意識を手放し、狭い室内に獣染みた息遣いだけが五感を支配する。 カーテンのない窓から、大きな月が二人の肌を照らしていた。 軽く汗ばんだ胸に顔を寄せ、ヒカルは浅い呼吸を繰り返していた。 乱れたヒカルの髪を撫でながら、アキラは黙って窓から覗く眩しい月明かりに目を細めている。 ワンルームの狭い部屋だった。 申し訳程度に置かれたパイプベッドは薄っぺらで固く、今こうしてヒカルを抱いて仰向けになっているだけで腰を痛めそうだ。備え付けの台所の傍に小さな冷蔵庫。他に目立った家具もない。カーテンもカーペットもない、板に囲まれた冷たい部屋。 テレビもステレオもなく、娯楽すら許されない部屋に、読み古したような雑誌が数冊床に散らばり、壁には何着か服がかけられていた。 「……ここ、俺の部屋なんだって。」 ぽつりとヒカルが呟いた。 「ここが?」 アキラはこの殺風景な部屋をもう一度まじまじと眺める。 灯りをつけていないため薄暗いが、カーテンのない窓から差し込む月明かりは思った以上に眩しい。 月が作り出す自分達の影は妙に黒々と不気味だった。何故、カーテンがつけられていないのだろう。 「そう。……棋院で確かめた」 「棋院に行ったのか?」 アキラは少し身を起こして、ヒカルの肩に手をかける。 ヒカルはアキラの胸に頬を乗せたまま、首だけを動かしてアキラを見上げた。そして、頷く。 その時初めて、アキラはヒカルの頬が僅かに腫れていることに気づいた。そっと伸ばした指先で頬に触れると、痛むのかヒカルは反射的に目を瞑る。 「これ……どうしたんだ?」 「……和谷に殴られた」 「和谷くんに?」 苦しげに歪めた目をもう一度きつく瞑り、ヒカルはアキラの胸に額を摺り寄せる。 「なんか……もう、訳わかんねぇ……」 |