――ボクにはキミが必要だった。 でも、言えなかった。 キミが手を伸ばしてくれる自信がなかった。 ボクのために生きて欲しいだなんて。――そんなこと、言えなかった。 キミとの出逢いは突然だった。 あの日、いつものように一人で棋譜並べをしていたボクの元に、春一番のような強烈な風そのままに現れたキミ。 碁会所は好きだった。小さい頃から病気がちだったボクは、学校でも友達が少なかったし。趣味が囲碁だなんて言ったらますます敬遠されて、放課後に遊びに誘われるなんてことのないボクが毎日通って行っても、みんな優しく迎えてくれたから。 ボクは感情表現が苦手で、嫌なものを嫌だとか、痛かったり哀しかったりすることを素直に伝えることがうまくできなかった。そんなボクを、碁会所の大人たちは分かってくれていたから。……ボクは碁会所が好きだった。 そんな数少ないボクのテリトリーの中に、ふいにやってきたキミ。 太陽のような眩しい前髪にボクは目を奪われた。 思えば、あの一瞬で全ては決まってしまったのかも知れない。 キミはボクを見つけてにっこり笑ったんだ。 もう覚えていないかもしれないね。『なんだ、子供いるじゃん』――キミの最初の言葉。 拙い手付きとは裏腹に、キミの棋力は確かだった。 ボクと言えば、父の言い付けで子供向けの囲碁大会にすら出たことがなかった。塔矢の名を背負うにはまだまだ未熟だったからだろう。その程度の棋力なものだから、キミの相手にもならなくて申し訳ないことをした。 でもキミはつまらなさそうな顔なんてしなかった。落胆するボクに『また打とうな』と声をかけてくれて。 ボクは心成しか頬を赤らめながら、黙って頷いていた。何度も頷いていた。 キミと、また打ちたい。――ボクの中に初めて、誰かと打ちたいという欲求が生まれていた。 それから、キミは言葉通りせっせと碁会所に通って来てくれた。 ボクを見つけて、一緒に打って――最初の頃は親指と人さし指で不器用に石を摘んでいたキミに、碁石の挟み方を教えてあげて。 徐々にサマになっていく打ち方と、相変わらずキレのある打ち筋。 ボクはキミにいつも指導碁を打ってもらっていたようなものだった。 そんなキミの碁が少しずつ変わって行ったのは、ボクがプロを目指していると知った頃からだったね。 あれほど完璧だったキミの碁が、時折酷く不思議な手を打つようになった。まるでプロのお手本のようだった少し古い定石も、時にデタラメに崩されて、それでもキミの表情は真剣で。 アラの目立つ、先読みの甘い一手に、ボクは首を傾げながらも、キミと打つのは楽しかった。 だって、キミは初めてボクのことを「父の息子」として見なかった友達だったから。 父には関係なく、「ボク」と打つために碁会所に来てくれる大切な友達だったから。 囲碁を通じて友達ができるだなんて、ボクはそれまで考えてみたこともなかった。 ボクの狭い世界の中でキミは何よりも光り輝いていた。 キミがボクの手をとって、広い世界へと連れ出してくれた。 キミと出逢わなければ、知ることも見ることもなかったものを、たくさんたくさん分けてくれたね。 緑に触れること。風の匂いを嗅ぐこと。季節の花の色を覚えること。キミはいつだってどんな些細なことでも素敵な遊び道具に変えてしまう、魔法のような力を持っていた。 どんどん、どんどん惹かれていった。その名の通り光に溢れる笑顔を振りまいて、無邪気でそそっかしいキミが眩しかった。 楽しくて楽しくて、キミの一番になりたくて。だって、ボクの中でキミはとっくに一番の存在になっていたから。キミにも振り向いて欲しかった。ボクを見て、優しく笑って欲しかった。 でもボクがキミともっと一緒にいたいと思う時、キミは決まって何もないはずの背後の空間を振り返って、ボクには見せたことのない安心した笑顔を浮かべていた。 何の怖れもない、安らかな微笑み―― その度にボクの胸は訳も分からず軋んだ音を立て、ボクはその都度諦めた。 キミの一番になること。……だってキミにはボクの知らない一番大切なものがある。 ――そこに何があるの? 一度も聞けなかった言葉。 聞けやしない、その存在に適うはずがない。 キミのあんな笑顔は、他の誰にも向けられることはなかったのだから。 どんどん、どんどん惹かれていく。 そうしてどんどん遠くなる。 ボクは何度も諦めた。 惹かれる度に諦めた。 諦めて、また少し期待して、やっぱり諦めて。 その繰り返しでキミと出逢って数年が経った。 ボクは楽しさに溺れることで、諦めた自分を慰めていた。 そうして後から気付いたんだ。……ボクはその楽しさだけに捕われて、キミのことを何一つ知ろうとはしなかった。 諦める度に目を逸らして、キミが持つ謎からも顔を背けていた。 気付けばキミはボクと同じくプロになっていて、着々と勝ちを手にしていた。 キミの碁はすっかり色を変えていた。 初めて出逢った時のような、神がかった強さではなかった。 でも、そのことを尋ねようとは思わなかった。……キミを失いたくなかった。不思議なことを不思議だと尋ねることが怖かった。反応の分からないものに答えを求めようとする勇気がなかった。 そして、キミが屈託のない笑顔でボクに告げた「いつか」という言葉を、何の努力もせずにひたすら待っていたせいでもあった。 ――いつかね。いつか。 だからボクは何も聞かず、キミも何も言わず、そうして時間だけが流れて――その時は突然訪れた。 キミが手合いを休んだその日から、キミは姿を消してしまった。 誰にも何も告げず、……ボクも知らないうちにキミは消えてしまった。 |