Maybe Tomorrow






 キミの幼馴染みの社から何度も連絡をもらった。
 キミが何故手合いに出て来ないのか。――何故電話にすら出ないのか。
 彼が知らないことを、ボクが知るはずもない。
 社はキミにとって大事な幼馴染みで、一番近いところにいた友人だったはずだ。
 その社にさえ何も告げずにいなくなってしまったキミの行方を、どうしてボクが知っているだろう。
 ボクにできることは、キミと同じように手合いを休んで待ち続けるだけ。
 キミに逢いたかった。逢って尋ねたかった。
 何故手合いに出ないのか。
 何故連絡もせずに姿を消したのか。
 でも、分からなかった。キミがいそうな場所も、キミを探す方法も、キミをどうやって追いかけて良いかも。
 たとえキミに逢えたとしても、ボクにそんなことを聞く権利なんてない。
 キミが何も言わずにいなくなったのは、ボクがその程度の存在だったからだ。
 距離的には社よりもずっと近くにいたのに、キミはボクを必要としていなかった。だから、ボクに何一つ知らせずに消えてしまったんだ。
 キミに逢いたかった。でも捜せなかった。
 キミがそれを望んでいなかったら、そう思うと怖くて立ち上がれなかった。
 思えば、ボクは一度もキミの顔を真正面から見つめたことがない。
 最初は気恥ずかしくて。今は、……分からなくて。
 どんな目でキミを見つめれば、キミが見つめ返してくれるのかが分からなくて。
 キミを真直ぐ見つめるべき人間は、ボクではないのだと拒絶されるのが怖くて。

 ――そこに何があるの?

 お前には関係ないと一蹴されるのが怖くて、遂に聞けなかったあの時と同じ。






 キミからの電話は唐突だった。まるで最初の出逢いのように。
 予期せぬ携帯への着信に、ボクは喉がカラカラになってうまく言葉が出て来なかったことを覚えている。

『……進藤?』
『……』

『……どう、したんだ……。みんな、心配してる……』
『……が』

『え……?』
『大切なものが、消えてなくなった』

『……大切なもの?』
『もう誰も、俺のことなんか必要じゃなくなる』

『進藤……なんだって? 何を……』
『俺なんか、いらない。……そうだろ?』

『進藤、何のことだ、進――』
 ツー、ツー、ツー……

 ボクはすっかり動転してしまった。
 久しぶりに聞いたキミの声は、酷く低くて暗く掠れていた。
 ――キミが失った大切なもの。
 ボクはキミと出逢って少し経った頃の、キミとの会話を思い出していた。








『え? 俺がなんで碁始めたかって? ――ひみつ!』

『ん〜……でも、お前なら……話してもいっかなあ……? いつかね。いつか。』

『そんな顔すんなよ〜。あ、じゃあこれだけ。』

『お蔵にね、ひみつがあるんだ。……それはね、ないしょ。』

『ないしょだよ……。とても、大切なものだから』


 俺の大切なものなんだ……






 ***






 逸る気持ちを押さえ付けて、社から場所を聞き出すのは困難だった。

『なんやて? ヒカルのじいさん家?』
 キミとの会話で覚えている限り、「お蔵」はキミのお祖父さんの家にあって。
 些細な会話だったけれど、キミはそこに大切なものがあると言っていた。
 何でもない会話だったはずだ。少なくともキミはとっくに忘れていただろう。
 でもボクはどうしても忘れられなかった、「大切なもの」と口にした時のキミの酷く幸せそうな柔らかい笑顔と、時折見せる軽く後ろを振り返る仕草。
 キミにそんな表情をさせるキミの「大切なもの」は、きっと何よりも大きな存在だったのだろう。――ボクなど及ぶはずもないほど。

 社から聞いたその説明は酷く曖昧なものだったけれど、キミの家を知っていたおかげでなんとか辿りつくことができた。
 ボクには妙な確信があったんだ。キミは恐らくここにいると。
 そして、キミがボクの手の届かない遠いところへ行こうとしている――あの電話は別れの電話だったのだと思うと、ボクは分際もわきまえずにキミを目指して蔵の中へ飛び込んでいった。


 キミは確かにそこにいた。
 随分と古ぼけた碁盤の前に座っていた。
 ボクに気付いて目を細めたキミには、ころころと笑う無邪気な面影は消えていて。
 げっそりと痩けた頬に、窪んで淀んだ瞳。随分様変わりしたキミにボクは息を呑んで、すぐに近付くことができなかった。
『……何しに来た?』
 キミは低い声でボクに尋ねた。
 ボクはごくりと口の中に溜まった唾液を呑み込むのが精一杯で、何も言えずにいると――キミはおもむろに小さな尖ったものを取り出してボクに見せた。
 薄暗い蔵の中にある小さな窓のささやかな光りが、その先端を照らしてきらきらと輝かせた。
 サバイバルナイフはキミの手にすっぽり収まる程度の大きさで、ボクは目を見開いてナイフが反射する光を追っていた。
『……血が。消えたんだ』
 キミはぽつりと呟き、碁盤を見下ろした。
『あいつも消えちまった。……血が必要なんだ。新しい血が』
『……!』
 キミが手首にナイフを当てようとした瞬間、ボクは産まれてから一番大きな声を出していた。
『やめろ!』
 キミが振り向く。
 ボクは昇りかけた階段の途中で間抜けに叫んで、震える足で蔵の二階へとよろよろ上がって行った。キミの近くへ。何かを失ったキミの傍へ。
 この手にキミが届く位置まで――
『来るな』
 キミの声が針のようにボクの身体を刺した。
『お前、……何しにここへ来た?』
 最初にボクを見た時と同じ質問を、キミはもう一度繰り返した。
 ボクは……、ボクはまた喉が引っ掛かって、うまく声が出せなかった。
 キミが心配で。キミが大切で。キミが遠いところへ行かないように、大切なものを失って傷付いたキミが消えてしまわないように。
 ――キミが必要だったから。
 ボクにはキミが必要だった。――誰よりも大切な存在だったから。
 でも、キミにとっての大切なものはボクではなかった。――キミはそれを失ってしまった。
 ボクは言えなかった。ボクじゃない、大切なものを失ったキミに、「キミが必要だ」とは言えなかった。
『みんな……心配している。棋院にも、何も連絡していないだろう……』
『……お小言、言いに来たんだ……。』
『小言だなんて。みんな、キミが』
『「みんな」、か……。』
 その時のキミは、くしゃと顔を歪めて泣き出す一歩手前のような複雑な表情で笑顔を作った。
 胸を掻きむしりたくなるような笑顔だった。
『大丈夫。……みんな、俺なんかいらないよ』
『進藤』
『俺じゃ駄目なんだ。俺じゃあ……。……お前だって』
『進藤!』
『お前だって、俺なんかいらないはずだ!』


 ――その時ボクが「キミが必要だ」と叫んでいたら、キミを止めることはできただろうか。
 でも、意気地なしのボクは最後まで言えなかった。
 キミに笑われるのが怖くて、言えなかった。
 キミの手首から小さな血飛沫が上がるのを、呆然と見つめながら――それでもボクは言えなかった。

 キミが手首にナイフを当てる寸前、ボクは見てしまったから。
 碁盤を見下ろすキミの瞳に、哀しくも切ない愛情が込められていたのを。
 だからボクは、喉まで出かかったその言葉を――飲み込んで、胸の内で握り潰した。
 吹き出した血に驚いて気を失ったキミに駆け寄った時も、青い顔のボクは堅く口唇を結んだままだった。