Maybe Tomorrow






 傷は出血の割に深くはなかったし、ボクのハンカチで押さえ込んでいれば程なくして止まりそうな程度だった。
 しかしボクは冷静になれなかった。
 キミが手首を切った。どこまで本気だったのかは分からないが、自分の手で身体を傷つけた。
 ……ボクの目の前で。
 動転しているのに頭の奥深くに落ち着いているボクがいて、「まずは手当てを」と当たり前のことを教えてくれている。
 ボクはキミの手首にハンカチを巻き付け、引き摺るようにして蔵を出た。
 不幸なことに、この家には誰も人がいなかった。開かない玄関の引き戸に焦れていたボクは、携帯電話が震えているのに気付いて慌てて取り出した。
 相手は社だった。先程のボクの様子がおかしかったから、気になってかけてきたのだろう。
 ボクは社へ助けを求めた。彼の力が必要だと思った。社なら、何の躊躇いもなく「ヒカルが必要だ」とキミに説いてくれるだろうから。
 ボクでは足りないのだ。キミの失った大切なものの代わりになるためには、ボクでは……


 そうして、咄嗟に思ったのだ。
 このことは誰にも知られてはいけない。
 泣き出す一歩手前のような複雑な笑顔。笑っているはずなのに酷く哀しい、ボクが今まで知らなかったキミの特別な笑顔――
 あの笑顔だけは、ボクのものだ、と。


 今のボクにできること。
 タクシーを呼んで、キミを自宅に運んで手当てすること。
 手首を切ったことが公に出ないよう、キミが回復したらすぐに棋士として復帰できるよう準備を整えること。
 キミが必要だ。――でもそれは、ボクのためだけじゃない。
 キミの笑顔を一人占めするために事を封印した、ボクにそんなことを言う資格などない。




『キミの碁は、たくさんの人に必要とされている。どうかその人たちのために、打って欲しい』


 その言葉を告げた途端。
 キミは全ての感情を表情から殺してしまった。







 ***







 キミは相変わらず手合いに出ようとはしなかった。
 ボクは足しげくキミの元へと通った。――キミが決してボクの目を見ることがなくなっても、ボクもまたキミの目を見つめられないまま、キミが一人実家を出て新しく住み始めたアパートへと通い続けた。
 すでにその頃、キミの素行の悪さは棋院中に知れ渡っていた。手合いもイベントも勝手に休み、未成年でありながら堂々と酒や煙草に手を出しているところを多くの人に目撃された。
 ボクはどんなに周囲に咎められようとも、キミのアパートを訪ねて行った。
 キミがドアを開けてくれることは滅多になかったけれど。それでも良かった。微かな繋がりから手を離すことができなかった。
 ボクが必死でしがみついている、キミとの間の今にも切れそうな細い糸。
 この糸がボクの全てだった。


 ある日、気まぐれにドアを開けてくれたキミは、窓から覗く大きな月を背中に背負って、底冷えする寒い部屋の床を睨んだままこう言った。
『俺に手合いに出て欲しいってんなら、代わりにお前は何をしてくれるんだよ』
 ボクはキミから顔を逸らしたまま答えた。
『キミの望むことなら、何でも』
 キミはしばらく動かなかった。
 お互い目を合わせないまま、薄暗い室内の気配だけで相手の様子を探り合う。
 端から見たらどれだけ馬鹿馬鹿しい光景だったか知れない。
 でもボクはこのひとときが大切だった。たとえ楽しいことを共有できなくなってしまっても、キミと一緒にいられる僅かな時間がボクにとっての全てだったから。
 だから、キミが、
『お前をよこせ』
 そう言った時も。
 キミが近頃女を知り始めたことに気付いていたボクは、キミの要求が「そう」なのだと信じて疑わなかった。
 躊躇わずに服を全て脱いだボクを見て、キミは怒りというより憎しみを強く表情に表したままボクの身体を硬いベッドへ引き倒した。
 何の後悔もしていない。身体の痛みは時が経てば消える。
 でも、一度疼いた心の痛みはそう簡単には消えやしない。

 一瞬だって躊躇わなかった。
 ボクの身体を差し出すことしか頭になかった。
 この腕を広げて、キミの身体を抱き締めるだなんて、キミはそんなこと望んでいないと、ボクにはそんな選択は許されていないと――そう思っていた。




 そんな頃だった。
 手合いにぽつぽつ出始めたキミを、脅して不正の勝ちを得ようとしている輩がいることに気付いたのは。
 彼らの話を聞いたのは偶然であり、きっと必然でもあったのだろう。
 ボクはあらゆるものに感謝した。
 ――これでまだ彼と繋がっていられる!――
 彼を守ると言う大きな名目ができたのだ。
 身代わりになることがこんなにも嬉しいと思えるなんて、我ながら気狂い染みている。
 キミの知らないところでボクはキミを守っている。
 なんて自分勝手で愚かな英雄気取り!
 ボクは独りよがりに浸り、彼らの嫌がらせがどれだけエスカレートしても、誰にも何も言わずに見えない繋がりを思ってほくそ笑んだ。
 そんなボクが面白くなくなったのだろうか、彼らは遂にキミを本格的に巻き込み始めて。
 キミが彼らにメディアを渡したあの現場に、ボクだけでなく和谷くんや伊角さんがいたのがまずかった。

 ――ただの暇潰しの玩具だよ。

 ボクが走り出したのはショックを受けたからじゃない。
 笑ってしまう顔を二人に見られる訳にはいかなかったからだ。
 キミの中に、僅かでもボクが存在している――それだけでボクには充分だった。
 なのに、キミは……
 何故、あの時ボクを追いかけて来たのだろう。
 驚いて逃げるボクの手を掴んで――何故一緒に階段から落ちることを選んだのだろう。




 キミを失いたくなかった。キミが必要だった。
 でもボクには手を伸ばす勇気がなかった。
 それなのに、キミは何故ボクに向かって手を伸ばしたのだろう。










『俺にもお前が必要だよ』



 あれは夢の中の幻なのだ。
 ボクが見た、都合の良いキミの幻……
 やけに暖かな、大きな手のひらと優しい微笑み……