Maybe Tomorrow






 アキラははっと目を開けた。
 腰にしがみついている芦原をそのままに、頭に流れて来た小さな声を反芻する。
「お蔵……?」
 思わず声に出したアキラは、その瞬間緒方の眉がぴくりと動いたことには気付かなかった。
 今のは何だったのだろう。――誰の声か? いつ聞いたものか? 全く覚えのない今の言葉が、やけに身体に染み渡るように響いて来たのは何故だろう?
 胸に広がる、嬉しくも切ないこの熱は何だと言うのだろう。
 アキラが聞いたことのない、このキーワードにはどんな不思議な力があると言うのだろう……
(――いや、聞いたのは――)
 きっと、「アキラ」だ……
(……お蔵……)
 アキラはごくりと唾を飲み込み、僅かな糸を手繰り寄せる気持ちで思考の隅々まで集中する。
 何か、欠片でもいい。ヒントになるような「アキラ」の記憶の断片がまだ残ってはいないだろうか。
 きっと「アキラ」なら知っているのだ。「ヒカル」が今何処にいるのかその場所を。
 記憶でなくともいい、何か手がかりが引っ掛かってはいないだろうか? この世界で今まで過ごして来た、短い日々の中に重要な見落としは……




『なんやて? ヒカルのじいさん家?』
『ああ、今すぐ知りたいんだ。知っているなら教えてくれ。頼む、急いでるんだ……』




 アキラの目が輝いた。
 ――見つけた。糸口。
 そうだ、こんな大事なことを忘れていた。「アキラ」が切羽詰まった様子で尋ねたという場所、まさに二人の関係が捩じれてしまったその日に訪れたその場所の存在を。
 アキラは芦原を振り解き、携帯を取り出して素早く社の番号を呼び出した。緒方以外呆気にとられた顔が見守る中、アキラは数コール後に聞こえて来た社に向かって余裕のない声を張り上げた。
「社! ボクだ、向こうの塔矢アキラだ!」
 社以外の人間にとっては酷く妙な言い回しに感じただろうが、この際構ってはいられない。
「教えて欲しい。……「彼」のお祖父さんの家に蔵のようなものはあるか?」
 電話の向こうの社はアキラの剣幕に面喰らっていたようだったが、やがて「ある」と返事を寄越した。
 アキラは舌打ちをし、混乱する頭を整理しようと目を閉じる。
 いなくなって連絡の取れないヒカル。頭に残る「アキラ」の記憶。かつて「ヒカル」が手首を切った時、「アキラ」が今のアキラのように血相を変えて社に尋ねたその場所――
 嫌な予感がこんな形で当たるだなんて、と目を開いたアキラは、再び社に質問をしようと表情を引き締める。社に辛い過去を思い出させるだろうその台詞を言うのはアキラもまた辛かったが、意を決して口を開いた。
「……社。彼のお祖父さんの家……ボクにも、教えて欲しい。」
 社が息を飲んだようだった。恐らく唐突な状況に怯んでいるのだろう社に、早く、とアキラが声を荒げかけたその時、ふと肩に大きな温もりを感じてアキラははっと顔を上げる。
 いつのまにか立ち上がっていた緒方が、アキラの肩に手を置いていた。
「アキラ。その場所、俺が知っている」
 アキラの目が大きく見開かれた。
 緒方は無に近い表情でじっとアキラを見下ろしている。
「……何故、緒方さんが……?」
 肩に感じる緒方の手のひらの熱に戸惑いながら、アキラはやっとのことでそれだけ口にした。
 耳に当てたままの携帯電話からは社がどうしたのかと尋ねる大声が響いている。
 緒方は眼鏡の奥から静かな瞳を細めて、何でもないことのように答えた。
「五日ほど前だな。恐らくお前が知りたがっている場所に、アイツを送っていった」
「進藤を? 緒方さんが?」
 思わずアキラは眉を寄せ、あからさまに不快を示す表情を作った。
 五日前と言えば、恐らく――まだアキラもヒカルもこちらの世界の二人に身体を支配される前のはず。
(そういえば……)
 この世界に来て二日目、ヒカルの部屋に泊まった後、身支度を整えようとしながらヒカルとこんな会話を交わしたことを思い出した。

『お前が帰ったら、俺ちょっと出かける』
『? 何処に行く気だ』
『じいちゃん家』

 その後和谷が押し掛けて来てうやむやになってしまったが、今思えばヒカルはあの時から祖父の家に何らかのヒントがあることに気付いていたのだ。何か心当たりがあったのだろう。
 しかし、実際に祖父の家に向かった話や、ましてや緒方に送ってもらった話など一言も聞いていない。何か隠している素振りも見られなかったが、何故それらのことを黙っていたのだろうか? それとも、その時はすでに「ヒカル」になっていたのだろうか?
 そんな疑問と言う名の不満がありありと顔に出たようで、緒方がアキラを見ながら鼻につくような苦笑いを見せた。
「そう噛み付くな。……急いでるんだろう? どうするんだ? 案内してやってもいいが」
 アキラは眉間の皺を更に深くし、手の中の携帯電話で喚いている社の説明と緒方の提案の二者択一を迫られ――より確実さをとるために、社の言葉をすまない、と遮った。
「こっちで何とかなりそうだ。また、状況次第で連絡する。すまなかった」
 まだ電話の向こうでアキラの決断について行けていない社が間抜けな声を漏らしている中、アキラはもう一度すまないと最後に告げて通話を切った。
 唐突に電話して、唐突に会話を終わらせてしまったのだから、きっと状況が掴めず気を悪くさせたかもしれない。それどころか、電話越しに伝わるアキラの様子に不安ばかりを募らせてしまったかもしれない。しかし、今は少しでも早くヒカルの居場所を確保したい。
 心配しているだろう社には申し訳ないが、より確実な手がかりを選ぶべく、通話の切れた携帯を握り締めたアキラは改めて緒方に向き直った。
「……では、お願いします。今すぐに」
 緒方はアキラの肩から手を離し、ついて来い、というように顎をしゃくってアキラに背を向けた。
 真直ぐ外に向かっていることを理解したアキラが後に続く。
 客間を出ようとする二人の後ろで、呆然としていた芦原がふいに夢から覚めたようにはっとした。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ緒方さん、アキラ! 二人で何処へ行くって? さっぱり事態が飲み込めないんですけど!」
 緒方はくるりと芦原を振り返り、軽く肩を竦めてみせた。
「別に飲み込まんでもいい。俺だってよくは理解しとらん」
「そんな無責任な! ……どこかに行くっていうなら、俺もついて行きますよ! アキラに何かあったらどうするんですか! 今だってフラフラしてるのに!」
 勢いよく立ち上がった芦原に続き、ずっと放心したままだった和谷もまた両手の拳を握り締めて立ち上がる。
「そうだよ、よく分かんねーけどお前、進藤探しに行くつもりなんだろ!? 俺はまだアイツを信用したわけじゃねえんだ、俺も一緒に行く!」
 二人の力強い提案にアキラはぎょっと顔を引き攣らせた。
 結構だ、と断ろうと両手のひらを彼らに向けかけたところで、最後に伊角までもがすっくと立ち上がる。
「和谷が行くなら俺も行こう。抑える人間が必要だろうから。それに、何か深刻みたいだから……俺も進藤のことは心配している」
 きっぱりとそう告げられて、アキラは言葉に詰まる。
 緒方がちらりとアキラに横目を寄越した。加えて芦原、和谷、伊角の視線を一心に受け、とうとうアキラは拒否のためにとりかけていたポーズを降参に変えた。
「……分かりました、ついて来ても構いません! ただし、騒いだり、余計なことをしたりしないでくださいよ」
 アキラの決断に緒方がぷっと堪え切れずに吹き出したようだった。
 きらきら輝く三人の目に見つめられ、アキラの顔が苦渋に歪む。
 厄介なことになってしまったが、これ以上無駄なやりとりで時間をとられる訳にはいかない。
「さあ、そうと決まったら早く! 芦原さんも、和谷くんも伊角さんもぼーっとしてないで! 緒方さん、全力で飛ばして下さい!」
 大声で喚きながら押し合いへし合い、五人も乗せられないと怒鳴る緒方を無視して車に突進し、なんとか助手席を勝ち取ったアキラは乱れた髪もそのままに指揮官よろしく号令をかけた。
「急いで蔵へ!」