Maybe Tomorrow






 ひやり。



 冷たい空気が首筋を撫でる。




 重い扉の向こう側は明かり取りの窓から差し込む小さな光がぼんやり中を照らすのみで、相変わらず薄暗く湿気がこもっている。
 この感覚を懐かしいと感傷に浸る前に、心臓を握り潰さんばかりの忌わしい記憶に耐えなければならなかった。
 扉を潜った場所からすぐには動けずにいたヒカルは、口唇を硬く閉めたまま立て掛けられている二階部分への階段を睨む。自然と眉間に皺を刻み、思わず息を止めていたのだろう、何かの弾みでヒカルはふっと荒く息を吐き出した。肌寒さを感じているはずなのに、額には不思議と小粒の汗が浮かんでいた。
 この場所に最後に足を踏み入れてから四年ぶりくらいになるのだろうか? あの頃と全く変わっていない黴の臭いと、外の世界から切り取られたような静けさ。かつては何とも思わなかったこの蔵の全てがヒカルの胸を締め付ける。
 何も考えずにいられた子供の頃は、この蔵は秘密基地のようで楽しい思い出しかなかったのに。
 運命を変えた出逢いを経て、楽しいだけじゃいられなくなった。
「……ッ」
 左手首が疼いて、ヒカルはぴくりと眉を震わせる。素早く右手で古い傷痕を押さえ付けたヒカルは、顎を上げて薄明かりに浮かび上がる二階部分を眺め、意を決したように足を踏み出した。
 木製の古い階段は足を乗せる度にギシギシと軋む。その一歩一歩が重く全身に響き、心臓の音もまた階段を上がるにつれて強く速く脈打ち始めた。
 乾いた口唇をひと舐めし、覚悟を決めて顔を覗かせた二階の奥。
 小窓が照らす光の下、きらきらと輝く埃の中にひっそりと佇む碁盤。
 静かなる数年ぶりの対面に、ヒカルはごくりと唾を飲み込んだ。







 ***








 聞こえるのですか?






 私の声が……




 聞こえるのですか――?












 蔵で出会った不思議な幽霊。
 変な格好をして、男のくせに髪が無茶苦茶長くて、でも凄くキレイな顔をしていた。
 囲碁が大好きで、もっともっと打ちたくて、それで未練が残ってこの世に留まってるらしい。
 初めは何の冗談だろうと思っていたけど、自分以外に誰にもこの綺麗な幽霊の姿は見えなかったから、本当なのだと信じざるを得なくなった。
 「佐為」と名乗った幽霊は、とにかく囲碁をやりたくて仕方がないみたいで、そのくせ幽霊の身体では打てやしないものだから、代わりに囲碁を打ってくれとうるさかった。
 あまりに騒ぐものだから、囲碁なんて全然興味はなかったけど、そういえば前に幼馴染の清春がハマってるとか言っていたような気がするし、まあ暇つぶし程度で始めてやってもいいなんて仏心が現れてしまった。
 とりあえず何処でもいいから碁が打てる場所を探して、碁会所なんてところがあることを知って、興味本位で訪れて――そこで彼に出逢ったのだ。
 澄んでいるのに何処か怯えた目をした不思議な髪型の少年。
 年は同じくらいだろうか? 大人ばかりで尻込みしていた自分にとって、その小さな存在がどれだけ柔らかく輝いて見えたか知れない。
『なんだ、子供いるじゃん!』
 思わず声を出した時、彼の頬が少し赤らんだ。
 佐為とは少し違うけれど、こいつも綺麗な顔をしているな――そんなふうに思ったことをよく覚えている。



『彼はなかなか筋が良い』
「そうなのか? 俺何やってんのか全然分かんなかったけど」
『ええ、今日の一局はまだまだですが、類いまれな素質の持ち主だと思いますよ。惜しむべくは自分の力に自信を持つことができていない。彼はきっと強い棋士になるでしょう』
「ふうん……」
『是非、また打って彼の力を伸ばしてあげたいですね』
 そう言ってにっこり笑った佐為はとても幽霊なんかには見えなかった。
 自分を挟んで、佐為とアキラが繰り広げた世界はさっぱり分からないモノクロの宇宙で。
 何だか自分だけおいてけぼりにされたような気になって、軽く口唇を尖らせて見せたのだ。




 ***




 その日以来、アキラを身近な対局相手として、随分せっせと碁会所に通ったことを覚えている。
 もちろん打つのは佐為で、ヒカルは言われた通りに石を置くだけ。目の前でアキラが佐為の打った一手一手に目を輝かせるのを、ほんの少し面白くなく感じるようになったのはいつ頃からだっただろう。
 佐為はアキラの碁をよく褒めた。もっと大胆に打って来ることができるよう、アキラのための指導碁をいつも楽しそうに打っていた。
『塔矢はまた少し強くなりましたね。今日のはなかなか良い碁でしたよ』
「そうなの? ……俺には分かんねえけど」
『ヒカルもやってみましょうよ! 分かったほうがきっと楽しいですよ。ヒカルも一緒に覚えて、塔矢と打てばいいんですよ』
 佐為の言葉には何ら他意はなかっただろうに、ヒカルは敏感に反応した。
 ――そうか、俺も覚えりゃアイツと打てるんだ。
 佐為の言う通りに石を置くだけとはいえ、これだけ何度も対局に突き合わされたおかげで、ぼんやりとしたルールの輪郭くらいは理解していた。
 それから、部屋で佐為に囲碁を教わる日々が始まった。紙で作った碁盤とオセロの石を使って、最初はほんの基礎から、やがてちょっとした対局ができるまで。
 囲碁をやり始めたと聞いた祖父が喜んで碁盤と碁石をプレゼントしてくれた。早速碁石を指に挟んでぱちりと打った時、前よりもずっとアキラに近付けたような気がして、ヒカルは誇らしく笑ったのだった。
『ヒカルもなかなか面白い手を打って来ますね』
『ほら、この手なんか良いですよ』
『この手が次に繋げられればもっと強くなりますね』
『すぐに塔矢にも追いつけますよ』
 多分、佐為は随分とお世辞が上手な教師だったのだろう。
 それでも褒められれば素直に嬉しくて、照れくさい素振りを見せながらもヒカルは喜んでいた。





「――え? プロ?」
 アキラの口から「プロ」という言葉を聞いてから、ヒカルの中での碁というものがまた少し形を変えた。
 偉大な父親を持つアキラは、父のようなプロになりたいのだとささやかに微笑んだ。
 ヒカルにとってはアキラの父親がどれだけ凄い人間なのかなんてどうでも良いことだったため、いまいちその意気込みがピンとは来なかったのだが、佐為に指導碁を打ってもらっている時のようにきらきらと輝く目を見ていると、きっとアキラはとても真剣にプロの道を目指しているのだろうということはよく伝わってきた。
 また、少し取り残されたような気持ちになった。
「……佐為」
『なんです? ヒカル』
「……俺もプロになれるかな」
『……、ヒカルが頑張れば、なれるかもしれませんね』
「……俺、アイツ一緒にプロになりたい……」
 ぽつりと呟くと、佐為は目を細めて相変わらずの綺麗な笑顔を見せてくれた。
『ヒカルは塔矢が好きなんですね』
「佐為……」
『きっとなれますよ、プロ。今度は、ヒカルが自分で塔矢と打ってごらんなさい。今の自分と塔矢の間にどれだけ差があるのか、自分で確かめてみるのですよ――』


 ――佐為がどれだけヒカルの心に気付いていて、そんなことを言ったのかは分からないけれど。
 あの淡い色のなんとも言えない優しい目は、何もかも分かっているのだとヒカルに語りかけているようで。
 ヒカルは佐為のその瞳がとても好きだったから、嬉しくなって頷いた。
 自分の力で、アキラと打つ。
 佐為ではなく、自分がアキラと打つのだ。
 その無邪気な心に罪の意識が芽生えるようになるまで、それほど時間はかからなかった。