ヒカルは離れた位置からじっと碁盤を見つめ、時折思い出したように瞬きする以外には身体をぴくりとも動かさなかった。 誰の気配もない静かな蔵。 かつてあの碁盤に宿っていた綺麗な顔の幽霊は、訳も分からず消えてしまってもう二度と現れはしない。 佐為が消えた理由は分からないけれど。 佐為を消したのが自分だということは分かる。 ヒカルは眉を顰め、目を伏せた。 佐為を奪った。 佐為の碁を愛する人から。 ……アキラから、佐為を奪ったのだ。 少しだけ深めに息をつくと、力の入っていた肩が若干下がった。手のひらにはしっとり汗をかいている。その不快な感覚に舌打ちしたヒカルは、無音の空間に響いたチッという音をきっかけに足を持ち上げた。 ゆっくりゆっくり、碁盤に近づいていく。 控えめな太陽の光に照らされて、物言わぬその姿をはっきりと視界に映る位置で見下ろした時、ヒカルは左手首をきつく握り締めずにはいられなくなっていた。 もうずっと昔に塞がった傷なのに。 表情を苦痛に歪めたまま、それでも一度深呼吸して気持ちを落ち着けたのか、ヒカルは碁盤の前でしゃがみこんだ。 埃の下に覗くこびりついた血痕。 「……?」 気のせいか、埃が少し払われているように見える。 指の跡が幾筋か残り、まるで血の痕を確かめたような。 「……!」 咄嗟に振り返って室内を見渡すが、誰かがいるはずもない。この蔵には人の気配が明らかになかった。 誰かが碁盤に触れた――即座に頭に浮かんだのはこの蔵の所有者である祖父の存在だが、あの騒動の後、祖父には碁盤に指一本触れるな、触れさせるなと念を押しておいた。その約束を破る理由があったとは考えにくい。 では誰が? ヒカルの胸に静かな嵐が吹き荒れる。 ――誰も許さない。 この場所に立ち入る事は、誰一人。 ここにはあらゆるものが詰まっている。 大切な思い出と、ささやかな憎しみと、今も左手に残る傷痕に繋がる深い哀しみが渦を巻いている。 その全てを抱えて良いのは自分だけだ。 そうして自嘲気味に口唇の端を吊り上げる。 自分が何のためにここに来たのか、その目的に対して酷く矛盾した感情だと思った。 それらを断ち切るためではなかったのか。 ヒカルは小さく息をつき、微かに眉間に皺を寄せたまま、細めた目で碁盤を見つめた。 他にこの場所を知るのはアキラだけだ。 ここで何があったか知っているのもアキラだけ。 そのアキラが、わざわざ碁盤を確かめに来る意味もないだろう。あれから四年も経っているのに、今頃になって。 ――キミの行動の理由を知りたい。 何故今頃になって、おかしなことを言い出したのだろう。 いや、彼はアキラであるのか? それすらも覚束ない。ここ数日、まるでこの身体でさえも自分のものではないような感覚が残っている気がするのだ。 あれがアキラではないとしたら一体誰なのか、アキラだとしたら何故あんなことを言い出したのか、考えようとすると頭が痛んで嫌な汗が浮かんでくる。 ならば考えるものか――あれが誰でも、この蔵で碁盤に触れたのが誰でも、もうどうでもいい。 誰だって構わない。 分かるのは、アキラの姿をしたあの男が、確かにこの身体に触れてくれたということ。 掴まれた手首には痛みよりも暖かさが記憶に残っている。 真直ぐに目を見つめて、強い力で引き戻そうとしてくれた。……戻る場所など何処にもなくとも。 『キミの中に、いるはずだ』 優しい幽霊はもういない。 ならば他に何がこの身にいるだろう? 教えて欲しい、あの言葉の意味を。 その力強さで、もっと引っ張って欲しい。 泥濘のような過去を断ち切りたい―― ヒカルは口唇を噛む。 ほんの少しだけ頭を擡げた意志と呼ぶには限り無く小さいものが、消えてしまわないうちにここまで来たのだ。 ヒカルは屈みこんだまま、そっと碁盤に触れてみようと手を伸ばしかけた。 しかしあと数センチといったところで、意気地なしの指は動きを止める。 佐為はきっと恨んでいるだろうと、確信に似た思い込みがずっと頭の奥にあった。 佐為が蒔いた種は、たくさんの人の花を咲かせるはずだったのに。アキラの碁、ネットで対局した名も知らない人々の碁、緒方も行洋も皆佐為の碁に惹かれて空へ手を伸ばした。 その芽を摘んだのは自分だ。 自分のためだけに佐為を封印し、彼らから素晴らしい打ち手を奪って、代わりとなるにはあまりに未熟な自らが打ち始めてから、きっとおかしくなったのだ。 佐為は唐突に消えた。 一言の別れも言わないで、ふと顔を上げた先にいるはずだったあの綺麗な姿は何処にも見当たらなくなっていた。 散々探したけど、佐為が見つかることはなく、碁盤にはっきり見えていたあの不気味なシミは跡形もなくなっていて、「いなくなった」のではない、「消えてしまった」のだと認めざるを得なくなった。 初めて事の重大さに気がついたのだ。 ――佐為を消してしまった!―― 泣いても叫んでもどうしようもない。消えてしまったものは決して帰っては来なかった。何日経っても、何週間経っても、ただの物体に成り下がったこの碁盤に優しい幽霊は戻らない。 まるで碁を打つ気がしなくなって、対局も何もかもサボり続けていたが、時々清春からメールが来る程度で誰が心配する訳でもないようだった。 アキラからの連絡は一度もなかった。 あれだけ一緒に碁を打っていたというのに、彼にとっては碁を打たない自分などどうでも良くなったのだろうか。 たとえ今向かい合ったとしても、もう二度とアキラに佐為と碁を打たせてやることはできないのだ。 その事実が余計に胸を締め付ける。 そうしてふと思い出した。 碁盤についていた血のシミは、別に佐為が流したものではない。 佐為が最初に宿った虎次郎の血が碁盤に何らかのまじないをかけていたのだとしたら、果たして自分の血はどうだろう? この身体にだって確かに佐為がいたのだ。ひょっとしたら何かが起こるきっかけになるかもしれない。 安直な考えだったが、しかし実際に試してみようと思うには勇気が足りなかった。 覚えているシミの形は血の量に換算すると相当なものだった。あれだけの血を流すだなんて、きっと痛くて怖い。無理だと確かに自分の中ではっきり叫ぶ声がするのに、何処か遠くからそれよりもっと冷めた声も聞こえる。 ――痛くても仕方ないよ。それだけのことをしないと佐為はきっと戻って来ないよ。 ――お前が出しゃばったから悪いんだ。誰もお前と碁を打ちたいわけじゃあないのにさ。 ――アキラだってきっとお前より佐為がいいって言うと思うよ―― 腹立たしい声を聞かないように努めるのに、日が経つにつれてどんどん心が挫けて行く。 アキラからの連絡は一度もないまま。 心配なんかしていないのかもしれない。……自分の存在など思い出してももらえないのかもしれない。 あんなに一緒にいたのに、近い存在だと感じていたのは自分だけだったのだ。 これだけ独りで時を過ごしても、アキラは来てくれない。 佐為のことなど知るはずのないアキラに、まるで佐為のいない自分など用無しだと言われているような気がして、弱い心は更に形を変えた。 だから、本当は切るつもりなんてなかったのだ。 引っ込みがつかなくなった悪戯心が、アキラの目が自分に向いていないと悟った瞬間、何もかもがどうでも良いと考えることを放棄してしまった。 ほんの少し刃を当てただけのはずの手首から、驚く程の血が吹き出した時も、ただ目を丸くしただけで何も考えられなくなっていた。 後に残ったのは空っぽの哀しみだけ。 |