Maybe Tomorrow






 ――それから、アキラはこれまで一切連絡をしてこなかったのが嘘のように自分の前に現れるようになって。
 口を開けば「手合いに出ろ」と、忌々しい、しかしアキラと繋がる最後の糸を引き合いに真顔を突き付ける。
 その度に胃の奥が捩じれるような不快感に苦しみながらも、応えられない悔しさと、期待の鉾先が自分に向けられていないことへの哀しさが、逆に気持ちを開き直らせていった。
 どれだけ望んだって、もう佐為は戻って来ない。
 無駄に流した血も結局は無意味で、古い碁盤を汚しただけだった。
 アキラが待っている碁は二度と帰らない。そうとは知らず、せっせと自分に説得するアキラは、「あの碁」がまだ自分の中にあるはずだと信じているのだ。

 ――ざまあみろ! 佐為は俺が消してやった!

 そんなふうに大笑いしたかと思えば、

 ――佐為はずっと打ちたがっていたのに、俺に潰されて消えてしまった。

 心臓を直に握り潰されるような痛みを感じたりして、

 ――佐為がいないとアイツと一緒にいられない。アイツが必要としているのは俺じゃない……

 酷く自分勝手な苦しみにのたうちまわったりもした。

 かつて佐為が取り憑いた秀策の碁をけなす棋士がいると聞いた時、胸の中の葛藤が遂に表に出た。
 佐為を消した自分が生きるには、佐為以上の力を認められなくてはならない。
 ここで自分の力を誇示することができれば、あるいは心を巣食う蜘蛛の糸のような罪悪感を切り離すことができるのでは――
 その甘い考えが、狂ったように碁盤にこの身を向かわせた。
 勝たなくては。
 勝たなくては、もう本当にこの世界の何処にも生きる場所がない。
 認めさせなければ、勝たなくては、佐為がいなくとも存在する意義はあるのだと信じるためにも……


 求めていたのは赦しだったのだろうか。
 甘い考えは崩れ、思い知らなければならなかった。
 佐為を越えられない。
 佐為の力は戻らない。
 誰一人、ここにいるのは「ヒカル」だという事実に見向きもしない。
 誰にも必要とされないただの抜け殻……


 そんな荒れ放題の心を抱えたまま、淋しさはとうに限界を越え、何でもいいから縋るものが欲しいと試すように告げた言葉。
『お前をよこせ』
 驚きもせずに、まるで関心がないように無造作に服を脱いだアキラを見て、頭の中の何かがぷつりと切れた。
 身体だけ投げて寄越された。
 佐為を消して得た代償がこれかと思うと、もう何一つ夢を見ることは許されないような気になって。
 ……口にするのもおぞましいような関係に甘んじた。








 黙って抱かれているのはそこに心がないからだと、そう思い続けて数年。
 何をしたって怯まないアキラから離れられずに醜く居座っているこの場所。
 決して深くはなかったはずの左手首の傷はくっきりと痕を残している。
 チリチリと焦げ付く胸はこのまま放って置いたら燃え尽きてしまうのだろうか、それも良いかもしれない、覇気のない目でぼんやり過ごし、暗くて冷たい部屋でただ闇を見つめる毎日。
 誰からも忌み嫌われ、汚れた心を覗き込むのは晴れた夜の無遠慮な月ひとつだけ。
 もっともっと、こうなったらとことんまで落ちてしまいたかった。
 今よりもっと寒くて淋しい世界で、目に映るもの全てを嘲笑っていればそれで良いと思っていた。
 咄嗟に手を伸ばしたのは僅かに残った本能だったのか、理性だったのか。
 逃げるアキラを追って、その手を確かに握り締めた瞬間――そうだ、あの頃から何かが変わり始めたのだ。
 都合の良い夢を見続けているだけかもしれないと、怠い身体に残る不思議な違和感に数日悩まされたが、「あの」アキラは夢の中の存在ではなかった。

『キミの中に、いるはずだ』

『キミを抱き締めるほうが余程合っている』

 いや、やはり夢なのかもしれない……しかしベッドに押し付けられた肩の痛みさえはっきりと思い出せるあれが夢だなんて、頭では思い込みたくても身体が納得しない。
 限界を迎えた心が悲鳴を上げて、妄想を広げただけだろうか?
 ならば、まさに夢のような感覚で耳に残るアキラの声は何だと言うのだろう。



『キミが……必要だ』



「……!」
 ヒカルは頭を抑えた。
 鈍いくせに、酷く不快な痛みだった。
 一体この身体に何が起こっているのだろう。
 何故、とうに諦めてしまったことにもう一度期待をかけているのだろう。
 今更どう足掻いたって、何も元には戻りはしないのに。
 戻りはしないのに、……戻りたくて仕方がない。
 ヒカルは口唇を噛み締め、痛みを跳ね飛ばすように強く頭を振り、意を決して両手を伸ばした。
 一瞬の躊躇を振り切って碁盤をしっかり両手で包むように掴むと、その無機質な木肌がヒカルの皮膚を刺したように、哀しい冷たさを感じた。構わずにヒカルは口を開く。
「……佐為」
 何年ぶりかに呟いた名前はずんと胸に重く沈む。
「俺……吹っ切りてえんだ」
 自分に暗示をかけるように、低い声でぽつぽつと声を出し始めると、少しずつ冷たく凍った指先に熱が点っていくような気がした。
 ごくりと舌に絡まる唾液を飲み込み、気持ちが揺るがないうちにとヒカルは徐々に早口になっていく。
「お前は怒るかもしれないけど。俺、この場所を「過去」にしたい。もう、嫌なんだ。消えたお前の影に怯えるの。いろんなことに後ろ向いて、全部諦めるの、もう辛い。でも、もう元には戻れねえから……せめて、お前を「過去」にしたいんだ。俺にそんな資格ないの分かってるけど、……ごめん」
 最後の謝罪だけは掠れた小声で力なく、少しだけ項垂れるように顎を引いたヒカルは、覚悟を決めたように碁盤を掴む手に力を込めた。
 持ち上げるのにそれほど苦はないはずだった。――が、がっしりと掴んだ両手によって宙に浮くはずだった碁盤は、まるで床に縫い付けられたようにぴくりとも動かない。
「……?」
 そんなはずは、と再び力づくで持ち上げようとするが、やはり碁盤は浮くどころか床との隙間さえ空かない。何か強い意志がこの場に留まろうと踏ん張っているようで、ヒカルは愕然と碁盤から手を離す。
「……そんな」
 まるでこの後ヒカルが何をするつもりなのか感じ取っているかのようだった。
 祖父の家には焼却炉がある。いつも尻ポケットに無造作に突っ込んでいたライターはどこかへ姿を消していたので、わざわざ途中立ち寄ったコンビニで粗末なライターを購入してきた。
 幸い祖父は留守で、無断で何かを焼却炉に放り込んで燃やしたところで咎める人間はいないと、安易にほっとしていたヒカルはどっかりとその場に座り込んだ。
「……嫌だってのかよ、お前……」
 静かな碁盤は何処から見てもただの木の塊で、かの人の魂が宿っているようには感じられない。
 それでも確かにこの碁盤は、蔵からヒカルに持ち出されることを拒んだ。
「俺だってこんなことしたくねえよ……」
 ヒカルはぐしゃりと前髪を握り潰し、頭を垂れてぎゅっと目を瞑った。
「でも、ダメなんだ……! 「お前」がここにいると俺は思い切れねえんだよ! 消したいんだ、跡形も無く! もう二度と、俺の目に映らないように……!」
 暗く黴臭い蔵の中、ヒカルの声だけが厚い壁に吸い込まれて消えていく。
 ヒカルは舌打ちして、ポケットから取り出した買ったばかりのライターを背後の壁に投げつけた。
 そうして冷たい木の床に尻をついたまま、碁盤の傍らで俯き続ける。
 ――何もかもなかったことにするなんて。
 そんな都合の良いこと、簡単にできるはずがないとは思っていたけれど。
 自分が躊躇うことはあれど、佐為が拒む可能性なんて考えもしなかった。
 佐為の存在を消し、その証さえも消そうとした自分を責めているような無言の不動。
 佐為の魂はもういないけれど、この碁盤には確かな佐為の意志が残っている……そんなふうに感じた。
 気を削がれて動く気力もなくなったヒカルは、ふいに焦げ臭い臭いが鼻につくことに気づいて顔を上げる。
 出所を探そうと回した首が後方を振り返って固まった。
「……え……?」
 古い額縁のようなものが幾枚も立て掛けられている壁の辺りから、薄闇の中確かに煙が出ている。
 咄嗟にヒカルは先ほど投げつけたライターの存在を頭に浮かべた。が、すぐに否定すべく首を振る。
 ――そんなはずはない。だってただ投げただけだ。たとえ壁にぶつかって多少擦れたとしても、火がつくほどの器用なぶつかりかたをするなんて――
 しかし、そう簡単には火が燃え移るように見えない額縁から確かに闇に栄えるオレンジ色の光を見た瞬間、その不自然すぎる火の大きさにヒカルは呆然と碁盤を振り返った。
「……お前……」
 独り言の呟きに混じって、パチパチと嫌な音さえ耳に届き始める。
「これが……お前の答えか……?」
 碁盤は応えない。
 火は驚異的な速さでぐるりと壁を走り、その中央でヒカルは目を見開いたまま首を横に振り続ける。
「お前が、……俺を消すのか? ……佐為!」
 炎の揺らめきがいっそう大きくなり、ヒカルは立ち上がろうにも足に力が入らないことを自覚した。
 腰が抜けてしまっている――目の前で確実に激しさを増す炎を相手に、どうすることもできずに座り込んだままヒカルはきつく口唇を噛み締めた。