Maybe Tomorrow






 助手席に座るアキラは忙しなく黒目を動かし、窓から見える景色をさきほどからずっと確認し続けている。
 覚えの無い道だった。そのはずだ、アキラは一度もヒカルの祖父の家に出向いたことはない。アキラが知らないその場所を緒方が知っているというのは癪だったが、腹を立てたところでどうしようもない。まずはヒカルを見つけ出すのが先だった。
 ヒカルは恐らく蔵にいる。直感はすでにアキラの中では決定事項として処理されようとしていた。そして、更に直感を信じるならヒカルは「ヒカル」のままだろう。直感というよりも、未だにヒカルから何の連絡もないことがその証拠のようなものだった。
 ハンドルを握る緒方は前方を向いたまま、特に迷うこともなくすいすいと車を走らせる。後部座席ではぎゅうぎゅうに詰め込まれた男三人がぎゃあぎゃあうるさく騒いでいるが、彼らを構う余裕は今のアキラにはなかった。
「もうすぐ着くぞ」
 ふいに緒方が独り言のように呟いた。アキラは緒方を振り返り、そして前方の景色を見る。
 赤いスポーツカーが酷く不似合いな、ありふれた住宅街に差し掛かっていた。ごくりと唾を飲み込むアキラの隣で、緒方がふっと鼻で笑ったような息を漏らす。
「随分気合が入っているな。何がそんなに心配なのかは知らんが……まあ、前にそこにアイツを送ってやった時のことを思えば、何となく分かる気はする」
 アキラは眉を顰めて緒方を振り返った。
「分かる気がするって……どういうことです。以前の彼がどんな様子だったと言うんですか」
「何の曇りもない目をしていたよ。まるで手合いをサボり始める前のアイツのようにな。何か決心してそこを訪れたんだろう。真剣な顔をしていた」
「……決心して……?」
「アイツにとって重要な何かがあったんだろうさ。お前はそれを知っているから今焦っているんじゃないのか? アイツが何をしでかすか、心配なんだろう?」
 アキラは軽く口内の肉を噛んで、歯切れ悪く答える。
「……そこになにがあるのかはボクは知りません。ただ……」
「ただ?」
「彼はそこにいるはずなんです」
 ――お蔵にね、ひみつがあるんだよ――
 この声はどこから出た記憶なのか。
 恐らく「アキラ」がかつてヒカルから聞いた言葉なのだろうが、アキラがその深い意味を読み取る事は叶わない。  ただ、この胸がやけに急くのは、ひょっとしたらアキラの気持ちだけではなく、「アキラ」の想いもまた影響しているのではないだろうか――アキラは自分の中に交わるもう一人の自分が、動けないその身に代わって助けを求めているような気がしていた。
 「ヒカルを見つけて」と……

『塔矢は何も聞くはずがないから』

『塔矢は俺に執着しない』

 そんなはずがない。
 この胸に溢れる想いは一体なんだというのだ。
 ヒカルのことを想うたびに底なしに湧き出てくる、淋しくて愛しくてたまらない気持ちはなんだというのだ。
 アキラもヒカルを愛している。その心に「アキラ」の心までが相乗しているようで、気をしっかり保っていないと想いの強さにこの身が押し潰されそうだ。
 大切で大切で、そのくせ愚かしさが隣り合わせに存在することを「アキラ」は自覚している。
 何故写真の中の彼の目が、あんなにうつろなガラス玉のようだったのか、アキラはようやく理解できるような気がしていた。
 彼は自分の弱さに赦しを求めたかったのではないだろうか。
 ヒカルを求めながら、手を伸ばせなかった自分への贖罪だとでも思っていたのではないだろうか。
 馬鹿なことをと、もし彼が目の前にいたら怒鳴ってやるのに、この身がそれでは叶わない。
 ヒカルを信じる。
 それだけでいい。
 ただそれだけが必要なことなのに。
「……どうした?」
 緒方が静かに問い掛ける。
 アキラは答えられなかった。
 意志に反して瞼の奥から熱が生まれ、音もなく溢れた雫が頬を伝ったからだ。
 それはまるで「アキラ」からの無言のメッセージのようで、アキラは口唇を噛んだまま緒方から顔を背けて流れる景色に視線を預けた。
 胸が酷く痛かった。





 ***





 火の回りがやけに速い。
 耐火性に優れているはずの蔵だというのに、明らかにこの火の大きさは不自然だった。
 ヒカルは咳き込みながら、自分を取り囲んでいる火ではなく、物言わぬ碁盤をじっと睨みつけていた。
「俺を……道連れにするのかよ……」
 皮膚に触れる熱気は本物だった。まるで幻覚を見ているようでありながら、暑さで身体から吹き出る汗は幻でもなんでもない。
 ふわりと煙が身体に巻きつくように流れてきて、ヒカルは思わず顔を背けて咽る。
 胸が苦しい。少量の煙を吸い込んだせいだけではないかもしれない。腰から下は力が抜け、もう立ち上がる気力も湧かない。
 ――佐為はやっぱり恨んでた。
 この熱が全てだ。佐為はずっと、恨み続けて消えていったのだ。これは佐為の恨みの炎。
 本当は消えたくなかったのに、ヒカルが佐為の存在場所を奪ってしまった。
 彼から囲碁を取り上げた。

『私も打ちたいです、ヒカル』

 そうだ。
 俺は、佐為から囲碁を取り上げたんだ。
 そして、アイツからも佐為を取り上げた。
 自分一人のためだけに。

 一緒に打つようになってから、アキラの力はぐんぐん伸びていると嬉しそうに佐為は笑った。
 アキラもまた、ヒカルを通して佐為と打つのをとても楽しそうにしていた。
 その間に割って入りたかったのだ。
 あれは嫉妬だ。ただの醜い嫉妬だ。
 自分の力が及ばないことに嫉妬して、アキラから佐為を奪い、佐為から囲碁を奪ったのだ。
 そうして佐為は消えてしまった。
 どれだけ探しても、あの優しい瞳は戻って来なかった。
 最後にどんな顔をしていたかさえ分からず、一言の言葉も残さないで、胸に痛みだけ残して消えてしまった。

 ――俺が消した!

 赦されるはずがない。
 佐為の存在をなかったことにして、自分一人だけのうのうと生きるだなんてそんな身勝手なこと。
 佐為が赦すはずがない。
 あの力強さに腕を引いて欲しいだなんて。
 暗くて寒い場所から引きずり出して欲しいだなんて。

 佐為の消えた抜け殻なんか誰も必要としない。
 アキラだって、「俺の囲碁」が必要なんだと言っていた。
 アイツが欲しいのは俺じゃない。
 俺の中にかつてあった、佐為の碁だ。
 俺じゃない……


『キミの碁は必要とされている』

『どうかその人たちのためにも打って欲しい』


 ただ、振り向いて欲しかった。
 こっちを見て欲しかった、それだけだったのに。
 取り返しがつかない、消えた優しい幽霊。
 捩れてしまった大切な人との関係。
 もう元には戻らない。
 赦してはもらえない。
 手首を傷つけたあの時みたいに、アキラがやってくることはないのだ。
 最後の足掻きとして惨めにも自ら電話をした、あの声はもう二度と届かない。


『キミを抱きしめるほうがよほどあっている』

『キミが必要だ』



 嘘だ、嘘だ、嘘だ……



 嘘ではないというのなら、ここまで来て。

 俺の罪を赦して。

 逢いたい。逢いたい。逢いたい。

 このまま焼かれて消えてしまう前に、もう一度逢いたい。


「塔矢」


 「俺」が必要だと言って。


「……とうや」


 俺を抱きしめて――


「……塔矢……!」






 ***






 キッと半ば乱暴に停車した車から飛び降りたアキラは、その先に見えた光景に目を疑った。
「あれは……?」
 続いて車を降りてきた芦原、伊角、和谷、そしてエンジンを止めて最後にドアを閉めた緒方もアキラの見ている先に顔を向けてその色を変える。
 蔵から煙が出ている。
 煙だけではない。高い位置に取り付けられている小窓が割れて、そこから赤い揺らめきが見え隠れしている。
「燃えてる……!?」
 アキラは門につかみかかった。留守なのか、鍵がかかっている。
 もう一度蔵を見て、ヒカルの存在を確信したアキラは、胸の高さの門に手をかけ身を躍らせた。
 多少バランスを崩しながらも門を乗り越えて、アキラは蔵を目指して走り出す。
「おい、アキラ!」
「塔矢!」
 背中に声がかかるが、構ってはいられない。
 真っ直ぐに蔵へと向かい、アキラはどっしり聳える蔵を前にして立ち止まった。
 ――変だ。
 咄嗟にそう思った。
 眼前の蔵は古いもののようだが造りがしっかりしていて、そう簡単に火がつくような構造には見えない。
 まさか中から火をつけたのだろうか? ……ヒカルが?
 こうして立っているだけでも肌に熱気が伝わって来て、蔵の内部が相当な高温であることは容易に想像できる。
 ――この中にヒカルがいる。
 アキラの背中を冷たいものが滑り落ちた。
 思わず飛び込もうと地を蹴ったアキラは、腕を強く後ろから引かれて仰け反った。
 振り返ると、追いついてきた緒方がアキラの腕を掴んでいた。その後ろから同じく門を乗り越えてきた伊角と和谷が走ってくるのが見える。芦原は今まさに門を越えようと、地面に転がり落ちていた。
「離してください!」
「離したらお前は飛び込むつもりだろう? よく見ろ、あの火は不自然だ!」
「不自然だろうがなんだろうがそんなことは関係ない! 彼が中にいる、理由はそれで充分だ!」
 緒方の指が微かに怯んだように感じられた。その一瞬の力の緩みを見逃さず、アキラは鋭く手を振り解き、追いつかれまいと身を翻す。
「アキラ!」
 重い蔵の扉に手をかけ、手前へなぎ倒すように力強く引いた。途端、噴き出してきた強烈な熱気と煙がアキラに襲い掛かる。
「……!」
 躊躇は刹那にも満たなかった。
 アキラは制止の声も聞かず、身を低くして熱が渦巻く蔵の中へと飛び込んだ。