Maybe Tomorrow





 ヒカルの話は思いのほか長かった。

 見知らぬ病室で目覚めたヒカルの傍には誰もいなかった。
 全身が微かに痛むのは、車に撥ねられたからだと思い込み、アキラを探しにベッドを抜け出したその時、
『進藤っ!』
 病室の入口に突然現れた和谷は、何かを話す間もないほど突然拳を突き出してきたのだ。
 床に尻をつき、頬を押さえて呆然と和谷を見上げるヒカルに、和谷はこう告げた。
『お前のせいで、塔矢は、塔矢は――!』
 ヒカルは痛みを忘れて真っ青になった。――まさかアキラの身に何かあったのだろうか。
 慌てて起き上がり、和谷のジャケットに掴みかかる。
『塔矢は? 塔矢はどこにいるんだ、教えてくれ!』
『うるせえっ、お前どのツラ下げてあいつに会う気だよ! お前なんかがいなければ、塔矢は――!』
『なんのことだよ? 塔矢に何かあったのか?』
『しらばっくれんじゃねぇっ! お前、塔矢にしたことを忘れたのかっ!』
 激しくヒカルの腕を振り払った和谷の、瞳にはっきりと光る憎悪の色を認めた時、ヒカルは「違う」と直感したのだ。
 ――これは自分の知っている和谷ではない。
『出ていけ、出ていけっ! 二度と塔矢の前に姿現すな!』
 そのまま和谷に追いたてられ、逃げるように病室を飛び出して、何がなんだか分からないまま病院を出た。
 そして途方に暮れた。アキラの居場所も教えてもらえず、しかしあの剣幕の和谷に何かを聞いても無駄だろうと悟った。
 しばらく歩いて、先ほどの場所が棋院からそれほど遠くない病院だったと気づく。自分がどこにいるかは把握したが、それからどうしてよいか分からず、無意識に探ったポケットに、財布と鍵、それから見つけた携帯電話へ救いを求めて画面を開いた。
 ところが、携帯電話の電話帳にはアキラの名前がどこにもない。それどころか、今までたくさん登録していたはずの友人たちの名前もことごとくなかった。数箇所の事務的な電話番号だけが表示される携帯電話を握り締め、ヒカルは行き場を失った。
 まとまらない頭で出口を探すように、タクシーを拾ってアキラと暮らすマンションへ向かうが、そこでヒカルは更に愕然とする。――マンションがない。
 部屋がない、というレベルではない。マンションそのものが、あったはずの場所に見当たらないのだ。
 慌ててポケットの鍵を取り出す。――古ぼけた、安っぽい鍵には見覚えがない。どこの鍵なのか、そこまで考える余裕はなかった。ただ、かつてのマンションの鍵ではないということだけは理解できた。
 三十階建てのグレイの外壁、何かの影に隠れたり、見落とすはずがない。マンションは、確かに忽然と消えていた。
 ここで、ヒカルはこれは夢ではないかと思い始めた。タチの悪い夢を見ているのだと。アキラのように頬をつねってみたりもしたが、今目覚めている現実から更に目が覚めることはなかった。
 ヒカルは仕方なく実家へと足を向けた。他に行く場所が思いつかなかったからだ。
 とにかく痛む身体を休めて、疲れた頭も休めて、落ち着いてからアキラを探しに行こう。そう自分に言い聞かせ、何の疑いもなく実家のチャイムを鳴らしたのだが。
 顔を出した母親は、ヒカルを見るなり扉を閉めた。
 立ち尽くすヒカルの耳に鍵をかけられる音がはっきりと響いて、そこでヒカルは自分が締め出されたことに初めて気づく。
『お母さん!? なんで? 俺だよ、入れて』
『ここはもうあんたの家じゃないんでしょ。自分でそう言って飛び出してったんじゃない。頼んで産んでもらったわけじゃないって』
『何の話だよ! ねえ、頼むからここ開けて、お母さん、』
『お母さんね、もうあんたの噂話に怯えて暮らすのまっぴらなの。あんたはお母さんの子じゃないって思うことにしたの。もうここはあんたの家じゃないんだから、帰りなさい。もう来ないで。帰りなさい。』
 帰りなさい。
 ――どこに……?



 そこまで語った後のヒカルのうつろな目に気づき、アキラは冷えたヒカルの肩を抱き寄せる。
 ヒカルはそっと目を閉じ、アキラの体温を感じるように肩に頬擦りした。
「それでさ、仕方なくて……棋院に行ったんだ。棋院なら、俺らの住所とか分かるだろ? でもさ、事務室に入ったら、なんかみんな……すげぇ、汚いもん見るような目で俺のこと見て……」
 ヒカルはアキラの肩に顔を埋め、そうして震えていた。アキラはヒカルを抱く腕に力を込める。
「そこで俺の今の家を調べて、それがここだって分かって……。半信半疑だったけど、鍵がハマっちゃったんだよ。俺の持ってた見たことない鍵と。俺、ここに住んでるみたいなんだ」
「進藤」
「棋院で誰かが、「よくあんなことがあった後で平気な顔を出せるな」って言ったのが聞こえた。……俺、何かしたのかな。俺、何したんだろう」
 腕の中で震えるヒカルの背中を優しく撫でながら、アキラはこれまでのことを思い起こしていた。
 覚えのない境遇。そして、ヒカルの受けた心の傷は自分の比ではないようだ。
 アキラは仮説を認めようと、そう思った。自分一人のことなら、この世界を受け入れることを必死で拒否したかもしれない。
 しかし今はヒカルも一緒だ。ヒカルもまた、アキラのように混乱して苦しんでいる。ヒカルを守らなければならない、そのために今できることを考える。
「進藤、落ち着いて聞いてくれ」
 アキラはそっとヒカルの頬に手を伸ばし、滑らせた指先で顎を持ち上げた。
 アキラを見上げたヒカルの瞳は赤く濡れていた。