Maybe Tomorrow






 アキラは全身を焦がすような熱気に顔を顰め、それでも声を張り上げた。
「進藤!」
 蔵の中は薄暗い上に煙が立ち込めて視界が悪い。頭上で揺らめくオレンジ色の光、あそこが火元だろうか。どこかに二階部分に上がる階段があるはずだと、咳き込みながら手探りで足を進める。
「進藤! いたら返事をしろ!」
 声を上げるたびに煙が肺に忍び込み、アキラはハンカチを取り出す暇も惜しんで袖を口に押し付けた。
 緒方の言うとおり、この火は不自然だ。しかしそのことに疑問を感じている段階はとっくに通り過ぎた。
 そもそもこの世界に自分がいる、それに勝る不思議などあるものか――アキラは伸ばした手が硬い木肌に当たったのを感じ、それが階段であることを指先で読み取って駆け上がろうとした。
 その瞬間、鋭い痛みが頭の奥を突き抜ける。
「……ッ!」
 思わず頭を押さえたアキラは、ぎゅっと閉じた瞼の裏に一瞬にして広がった光景に息を呑んだ。


 階段を上ったその先に、ヒカルがいる。
 碁盤を前にして小さな刃物を手に、うつろな目でアキラを見ていた。

 助けたい、助けたい、助けたい。

 ――ボクのために生きてくれなくていいから。
 ボクのために生きてなんて言わないから。
 お願いだから、逝かないで――


 アキラは目を見開いた。
 視界は再び煙に包まれ、今見た景色は跡形もなく消えている。
 頭の奥に鈍痛は残るが、耐えられない痛みではない。
 つうとこめかみを汗が滑り落ち、アキラはごくりと口の中に溜まった唾液を飲み込んで、意を決して階段に足をかけた。
 初めて来たはずの場所なのに、何故だか懐かしさと、そして哀しみを感じる。
 口元を押さえながら階段を上りきると、二階部分を包むように揺れている炎の存在に愕然とした。
(なんだ、この火は……)
 これだけ内部を焼いていながら、何故焼け落ちて一階へ崩れ落ちないのか疑問に思うほどの火の勢いだった。
 アキラは二階部分にそうっと足を下ろしたが、床が落ちるような脆さは感じられない。両足で立ち、腕を振って視界を遮る煙を払おうとするが、あまり効果はないようだった。
 火の勢いが酷く、うかつに前に進めない。
「進藤!」
 呼びかけに返事もない。
 アキラは舌打ちしながら、じりじりと足先を前方に進めていくが、火と煙に遮られて最早階段がどちらの方向にあったかも覚束なくなっている。
 本当にヒカルがこの先にいるのか分からなくなってきた。
 煙で何も見えない。身体は火が乗り移ったように熱い。汗が目に入り、口の中がカラカラに乾いて喉が痛む。
 もしヒカルがいなかったら?
 とっくにこの蔵を逃げ出して、違うところへ避難していたら?
(いや、そんなはずはない)
 ヒカルはここにいる。
 この不自然な燃え方がその証拠ではないか。
 「ヒカルがここにいるから」、この蔵は燃えているのだ。
 迷う必要など何もない――
 ふと、ささやかな声がどこからか響いてくる。


『お願い』

『彼を助けて』

『お願い……』


 ――これは、ボクの声だ――


 アキラがそう認識した瞬間、ふわりと風が吹いた。
 視界を覆っていた煙が掻き分けられるように左右に散り、その向こうに――床にくずおれているヒカルの姿を認めて、アキラは叫んだ。
「進藤!!」
 びくりと、揺れた身体が一瞬の間を置いて、そうして顔を持ち上げる。
 ヒカルの黒く煤けた顔がアキラを見つけてぐしゃっと歪んだ。
 胸を締め付けるような表情だった。
 口唇が、「とうや」と確かに動いたのをアキラは見た――そのままヒカルは目を閉じ、気を失ったようにがくりと首を落としてしまった。
「進藤っ!」
 アキラの叫びは悲鳴に近かった。
 先ほど崩れやしないかと恐れていた様子が嘘のように、勢いよく床を蹴ってヒカルの元へと駆け寄る
 倒れたままのヒカルを抱き起こし、軽く揺さぶった。
「進藤、……進藤!」
 力なく仰向けに首を垂らしたヒカルの頭が揺れる。
 閉ざされていた瞼がぴくりと動き、眠りから覚めるように薄く睫毛の隙間から瞳が覗いて、乾いた口唇から深く細い息が漏れ出した。
「……進藤……!」
 アキラはほっと息をつきながら、ヒカルの頭を優しく支えて起こしてやる。
 ヒカルは瞼を震わせるように小刻みな瞬きを繰り返し、ようやく開いた目で四方を確認してから、ようやく自分を抱いているアキラを見た。
「……ボクが分かるか?」
「……塔矢……?」
「そうだよ……、無事で良かった……」
 アキラはきゅっとヒカルの身体を抱きしめて、煤けた頬に自分の頬をすり寄せた。
 この感覚はアキラの良く知るヒカルだ。間違いない。アキラが思わず腕に力を込めると、腕の中でヒカルが少し苦しそうに身じろぎする。
「塔矢、苦しい」
「ああ、ごめん……」
「ここ、どこ……? ……って、なんだよこれ! 燃えてんじゃん!」
 ヒカルはぐいっと腕を突っ張ってアキラの中から逃れ、自分が今置かれている現状に愕然として辺りを見渡している。そして、思い出したように咳き込み始めた。
 先ほど魔法のように開けた視界が、また煙によって遮られようとしていた。アキラは咄嗟に手を伸ばし、ヒカルの腕を掴む。見失ったら最後だと思った。
「おい、なんだよこれ。なんでこんな煙……ここ、どこだ?」
「……分からないのか?」
「分かんねーよ、俺、気づいたの今お前に起こされてからだ。なんでこんなことになってんだ?」
 アキラは口を手で覆いながら咳混じりのヒカルの声を聞き、そうして先ほどのヒカルの顔を思い出した。
 アキラがヒカルを見つけた瞬間の、泣き出しそうなあの顔。
 声は聞こえなかったが、確かにアキラの名を呼んだ。口唇の形は今もはっきりと思い出せる。
(……ああ、「キミ」はやっぱり……)
 「ボク」を呼んでいたのか――

「……や、塔矢!」
 ヒカルの怒鳴り声にアキラははっとする。
「ヤバイぞ、前見えねえ! どっから出られるんだ、ここ!?」
 アキラは頭を振って、今は何よりこの場所を脱出することが先決だと身構えた。
 無事にヒカルは見つかったのだ。このまま焼け死んでしまうだなんてシャレにならない。
「ここは二階部分だ。下に降りなければ」
「二階ぃ!? おい、ここどこなんだよ!」
「キミのお祖父さんの蔵だ。たぶん、もう一人のキミがここに――」
「……お蔵?」
 ヒカルが目を見開き、そうしてきょろきょろと辺りを見渡し始めた。かと思うと突然身を屈めて、手探りで何かを探している。
「何してるんだ、進藤! 早くここから……」
「分かってる、でも、碁盤が……!」
「碁盤?」
 ふいにアキラの脳裏に先ほどの映像が蘇る。
 碁盤を前にナイフを手にしていたヒカル。――碁盤とは、あれのことだろうか……?
「……あった!」
 ヒカルの手が何かに触れたようで、思わず身を乗り出したのか、煙に包まれて一瞬姿が分からなくなった。
「進藤!」
 思わず声を上げるが、煙の向こうに僅かに揺らめく影が見えただけで、ヒカルの返事が聞こえない。
 薄暗い蔵の中、こもった熱はすでに我慢しきれないほど上昇し、このままでは焼け死ぬというより蒸し焼きになりそうだった。
 早く出なければならないのに、すぐそこにいるはずのヒカルを見失って、アキラは全身汗だくで青ざめながらヒカルを呼ぶ。
「進藤、返事をしろ!」
 声が聞こえない。
 すぐ傍にいるはずだ。
 でも、煙で前が見えない。
「……進藤!」