Maybe Tomorrow





「進藤。……キミは何もしていない」
「塔矢」
「キミは。そう、キミは何もしていない。……だが、今のキミではないもう一人のキミが何かをしたんだ。……恐らく、もう一人のボクに」
「……もう、一人……?」
 ヒカルが外国語を聞いているような顔でぼんやり尋ねた。
 アキラは頷き、自分自身もまた「もう一人」という言葉を反芻する。
「そうだ、もう一人だ。そうでなければあまりにおかしい。ボクら、何かの拍子で今まで知ってる世界とは違う世界に来てしまったらしい」
 なんてことだろう。およそ普段の自分なら笑い飛ばすようなことを自ら告げているなんて。――アキラは苦笑しようとしたが、それは多分に自嘲を含んでいて、そして、遂に笑えなかった。
 ヒカルもまた、笑わなかった。
 寧ろ、そう考えなくては頭がおかしくなってしまう。現実離れの考えは、二人の精神を休めるための唯一の逃げ道だったのかもしれない。
「落ち着こう、進藤。落ち着いて、これからどうすべきか考えよう。でないと、ボクらはいつまでも――」
 ――帰れない。
 口にできなかった。
 「帰る」という言葉にこれほど違和感を感じたことはかつてない。
 今いる自分たちのこの場所が夢でも何でもないとしたら、帰る方法なんてどうやって見つけろというのだろう。
 この世界もまた、一瞬一瞬が現実として確かに動いているというのに。
「……そうだな」
 しかしヒカルはアキラの不安を支えるように、きっぱりと応えた。
「……うん、俺もう大丈夫。ちょっと辛かったけど、大丈夫。お前がいるから」
「進藤」
「塔矢がいて、よかった。だから大丈夫。塔矢」
 薄く開いた口唇を僅かに突き出す仕草を見せたヒカルに、アキラは優しく口付けた。
 ――それはボクの台詞だ。ボクだって、キミがいなければ――
 長いキスの後、再び抱き合った二人は、これからどうするかの相談をぽつぽつと始める。
 アキラもまた、ヒカルの離れていた間に起こった出来事を話して聞かせた。ヒカルの表情がどんどん珍妙に変わり、アキラが三段だと説明したところで「三段!」と声を上げたので、自分と同じタイミングでアキラは可笑しくなった。
「いいなあお前ばっかり、お前超愛されてんじゃん」
 いつものふざけ調子ですねるヒカルを見て、アキラは心底ほっとする。
 大好きな人たちから拒絶され、ヒカルは相当に傷ついていたに違いないのだ。
「まるで自立してない子供みたいな扱われ方だぞ。ボクは彼らの愛情に疑問を持つよ」
「それでも、俺みたいにいろんなとこから追い出されたりしてないんじゃん。いいなあ、俺、こんなところで暮らすのかあ」
 組んだ指を後頭部に当て、ヒカルは投げやりに仰け反った。
「進藤……」
 思わず身を乗り出しかけたアキラが次の言葉を続ける前に、
「やめとけ」
 ヒカルはアキラを制止する。
 アキラははっとしてヒカルを見た。ヒカルは視線だけをちらりとアキラに向けて、
「ここに転がりこむのはやめとけ」
 ときっぱり告げた。
 アキラはしばし絶句して、それから肩の力を抜く。
「……よく、ボクがそう言い出そうとしたって分かったね」
「伊達に何年もお前とつきあってねぇよ」
「そうか。……そうだな、やはりまずいか」
「当たり前だろ。お前、自分で言ったんだぞ、落ち着けって。俺はお前に何かしたんだろ、そんなヤツと一緒にいて、過保護な周りが何も言わないはずがない」
 ヒカルは視線を天井に向け、やや厳しい表情で薄闇の中の木目を睨んでいる。
「俺ら、今は一緒にいないほうがいいよ」
「進藤……」
 アキラはヒカルの髪に額を寄せて、こつん、とその肌を合わせた。
 ヒカルには適わない。
 先ほどまでの捨てられた子犬のような目を捨て、ヒカルはすでに明日を見つめている。この立ち直りの強さで、彼は何度も自分自身のピンチを救ってきた。時にアキラの危機さえも。
「でも、一人じゃない。普段は一緒にいられなくても、俺らは一人じゃないから、……なんとかなるよ、きっと」
「……ああ、そうだな」
 漠然とした不安は消えるはずがない。
 しかし目の前の事実に立ち向かう覚悟はできた。
 そう、一人ではない。二人でならどんな場所でも越えていけるはずだ。
 今のこの世界が虚構なのか、かつての場所がそうだったのかは分からないが、大切なのは二人が一緒にいるということ。
 それだけで、ただの人間である自分たちは何だってできるような気がしてくる。
 二人はもう一度キスを交わした。確かな存在をもう一度確かめるように。
 キスは熱く、甘かった。




 脱ぎ捨てた服を身につけ、アキラは時計を見る。
 午前三時。携帯に何の連絡も入っていないところを見ると、恐らく抜け出したことには気づかれていないのだろう。
 身支度を整えるアキラを、粗末なベッドに腰掛けたヒカルがじっと見ている。
 こんな場所にヒカルを一人置いていくことは酷くアキラを躊躇わせた。しかし、連れていく訳にもいかない。
「ホント、俺って何したんだろうなあ」
 人事のように呟くヒカルをアキラは振り返り、何だろうね、と微笑した。
 些細な出来事だといい。ほんの少しの誤解で、この世界の自分たちが縺れてしまっただけなら。
 しかしそんな淡い期待は、昼間見た和谷や伊角の様子に掻き消されそうだった。ヒカルもまた、同じようなことを考えていたのだろう。
「とにかく、しばらくは様子を見よう。あまり目立った行動をしないように、分かったことがあったら報告しあう」
「うん」
「携帯に登録したボクの番号は、ボクだと分からないようにしておいたほうがいい。ボクも何か理由があってキミの番号を隠していたんだろう。」
「そうだな」
「やりとりはなるべくメールでしよう。それならボクらが連絡をとっていると周りは気づきにくいだろうから」
「分かった」
「あまり頻繁には会えないかもしれないけど、……でも、会いに来るよ」
「ああ、見つからないようにな」
 アキラの言葉に淡々と返事を返すヒカルを、アキラは苦しげに細めた目で見つめた。ヒカルが照れたように苦笑いする。
「馬鹿、そんな目で見んな」
「……すまない」
「帰したくなくなるだろ」
 たまらずにアキラが腕を伸ばすと、ヒカルは呆気なく飛び込んでくる。
 このドアからアキラが出て行けば、ヒカルは本当に一人だ。きつくアキラを抱き締め返してくるヒカルの腕を、このまま掴んで二人で逃げ出せたら。
 アキラは僅かに瞼を開き、そして閉じた。
 ――何処に逃げるというのだろう。
 二人はゆっくりと身体を離し、今日何度目か分からないキスを交わす。
 見つめ合う瞳に不安は揺らぐものの、迷いはなかった。
「……行くよ」
「ああ。気をつけて」
 強く頷いたヒカルに微笑んで、アキラは玄関へ向かった。ドアに手をかけ、再度振り返ったヒカルの儚い微笑が目に映る。
 部屋の外に足を踏み出し、そのドアが閉じられる寸前、隙間に消えかけたヒカルの顔がぐしゃっと歪んだのをアキラは見た。
 ドアが閉まる。
 閉じたドアに額を当て、アキラはしばらくそうしていた。
 このドアの向こうできっとヒカルは泣いている。
 自分たちが何をしたというのだろう。突然こんな世界に放り出されて、ここで何をしろというのだろう。
「……一緒に帰ろう。必ず。」
 呟きがドアの向こうに届いたかは分からない。
 しかし、ヒカルが決めた覚悟にアキラも背を向ける訳にはいかない。
 アキラは歩き始めた。もう一人の自分たちが残した世界と戦うために。