古より




「マッシュ!」
 飛び込んで来たマッシュを認め、部屋の端に佇むティナがホッとした表情を見せる。その手に何か本のようなものを抱えていることにマッシュが目を留めた時、続いて部屋に入って来たエドガーがいつもより強い口調でティナに近づきながら語りかけた。
「駄目じゃないか、ティナ。私たちから離れては……何かあったのか」
「ごめんなさいエドガー、何だか呼ばれたような気がして、つい」
「呼ばれた……? ティナ、何を持っている?」
 訝しげに目を細めたエドガーの視線がティナが胸に抱えるものを捉えた。燻んだブラウンの革張りが重々しい、厚みのある本の表紙には何か模様らしきものが見える。
 ティナの元へ足早に辿り着き、マッシュは改めて部屋の中をぐるりと見渡した。すっかり古びてカーテンも絨毯も色が褪せてしまっているが、かつては豪奢な居室だったのだろう。崩れた調度品はどれも手の込んだ細工であることが見て取れる。
 ティナが前に立つ本棚もまたフレームの彫刻が美しいものだった。ぎっしりと本が詰まる棚の中に一冊分の隙間があった。恐らくティナが手にしている本があった場所だろう。
「その本は?」
 エドガーの問いに、ティナは二人に向かって表紙を見せた。そこには青く澄んだ宝石が埋め込まれ、城門に掲げられていた紋章が刻まれていた。
「部屋に入った時、この本が光っていたの……。手に取ったら光は消えてしまったけれど。でも、読めないの」
「読めない?」
 エドガーは眉を寄せ、ティナから本を受け取る。そしてぱらりとめくって軽く瞬きし、神妙に目を伏せた。
「古代文字だな。丁度千年ほど前に使われていた文字だ」
「兄貴、読めるのか?」
「完璧ではないが、多少なら」
 パラパラとページをめくりながら時折数行を視線で追ったエドガーは、軽く目を見開いて「日記か」と呟いた。
 読めはしないがマッシュとティナも両脇から覗き込む。手書きの掠れた不思議な文字が並んでいるのを興味深げに見つめる二人に、エドガーが解説をしてくれた。
「この城の王女の日記のようだ。城での何気ない日常から、だんだんと魔大戦の影響で内容がきな臭くなっている」
 そう言ってめくったページに書かれた文字から先は白紙になっていた。最後の日記を読んでいるエドガーの表情が強張る。その変化に聡く気づいたマッシュが問い質そうとした時、エドガーはティナに顔を向けて静かに目を細めてみせた。
「最後の日記は、君が読むべきものだろう……。」
 そう告げて、エドガーは日記に書かれている内容をゆっくりと話し始める。

 ……私はやはり、オーディン様のことを愛している……
 許されぬことなの……
 だが人の心をしばることはできぬはず
 ましてや、あの気高い心をお持ちのかたを想うこの心……
 誰もとがめはできぬはず……
 この戦いが終ったとき……
 必ず……この想いをうちあけよう……

 エドガーが日記を閉じても、ティナは見開いた目の瞬きを忘れて微かに唇を戦慄かせたまま動こうとはしなかった。
 エドガーは黙って本を棚に戻し、ティナに気遣うような視線を投げてから、大広間に繋がる扉に顔を向けて息を吐く。
「これではっきりしたな。さっきの石像は間違いなく幻獣オーディン……千年前の闘いで魔導士に石化されたものだろう。お伽話は真実だったという訳か」
 未だ動かないティナを心配そうに横目で見つつ、マッシュも頷いたのち首を傾げる。
「でもなんでこの城がフィガロと繋がったんだ? 嫌な気配も消えてないし……」
 室内を見渡し、不気味な気配の出所を探るようにマッシュは目を走らせた。この部屋もまた一段と空気が重い。魔物が飛び出してきてもおかしくない澱んだ気が漂う部屋は、いるだけで精神が疲弊していることに気づく。
 そんな気配を全く感じていない様子のエドガーは、軽く肩を竦めてドアを顎先で示した。
「さっぱり分からんな。大広間に戻ってもう一度オーディンの石像を調べてみるか」
「うん」
 マッシュの頷きを確認したエドガーは扉に向かって歩き出したが、ティナは本棚の前から動かない。マッシュが促すようにティナの肩に触れかけた時、ティナがごく小さな声で独り言のように呟いた。
「人と、幻獣の恋……」
 その思い詰めた様子でありながら何処か夢見がちな声に、マッシュは何と話しかけたら良いか分からなくなった。ともかく兄に追いつかねばとティナの肩をそっと叩いた時だった。
 部屋の一角で何かが引き摺られる大きな音が響き始めた。弾かれるように顔を上げたマッシュとティナが、本棚の対面の床が大きく動き始めて地下に伸びる階段が現れる様を呆然と眺める。
「何だ今の音は!?」
 大広間に戻ったはずのエドガーが再び部屋に飛び込んできた。先程はなかった階段を視界に認めてハッとしたエドガーは、背後の大広間を振り返って信じられないといった調子で首を振る。
「玉座の前の床に奇妙な文様があってな。軽く触れただけのつもりだったんだが……隠し階段のスイッチだったのか」
 エドガーの言葉に反応しようと努めるが、マッシュは階段を鋭く睨んだまま動けずにいた。隣のティナもまた、青ざめた厳しい表情で同じ方向を見据えている。
「……そこからだ」
 マッシュの低い呟きにエドガーが眉を顰めた。
「そこから、嫌な気配が湧いて出て来てる。……下に、何かいる」
 サッと顔色を変えたエドガーは、ティナにも視線を向け、彼女もまた険しい目つきで小さく首を縦に振ったことを確かめたようだった。
 マッシュはエドガーに目配せし、じりじりと階段へ近づいて行く。その後にエドガー、ティナが続き、三人は目で合図し合いながらゆっくりと地下に降りるステップに足をかけた。
 踏み抜きそうなボロボロの板に慎重に足を下ろし、一段一段階段を降りて行く。地下の床が近づくにつれ、瘴気のような重苦しい空気が全身を包むように立ち込めてくる。不気味な気配に息を呑みつつ、臨戦態勢を取ったマッシュは注意深くその部屋に降り立った。
 先ほどの大広間よりは小振りな、しかし何処と無く雰囲気が似た広い空間だった。整然と並ぶ主人なき鎧兜の脇を通り抜けたマッシュが視線を巡らせかけた時、後ろからティナが声を上げる。
「マッシュ、あそこ……!」
 一度ティナを振り返ったマッシュは彼女の指差す方向に素早く顔を向け、無言で目を見開いた。
 部屋の奥、数段の階段を上がった高座に佇む人影──それがオーディンに同じく動くことのない石像であると気づいた瞬間、ざわりと背中に悪寒が走って肌を粟立たせたマッシュが、その原因の出所を素早く睨みつけて声を張り上げた。
「いるぞ! そこだっ……!」
 振り向いたその場所は先程まで確かに何もいない空間であったはずが、突如現れた巨大な影が今や悍ましい咆哮と共に三人と対峙している。
 蛇のような長い胴体から尻尾を緩くとぐろに巻き、青くぬらぬらと光る鱗に覆われた竜の魔物が、耳まで裂けた口をかぱりと開けてその中央で深緋の舌を踊らせていた。
 擡げた頭は天上に届く高さで、見上げる三人は即座に戦闘態勢を取る。ガラス玉のような色のない瞳がギョロリと睨む様は、到底平和的に話し合いなどできる雰囲気ではなかった。
「来るぞ……!」
 エドガーが低く吐き捨てた直後、再びの耳を劈く咆哮を合図に青い竜が身を畝らせた。
 三人が構えた瞬間、竜の背後に水柱が立ち上がり、波となって部屋の空間全てを飲み込む勢いで襲いかかってきた。
「!!」
 押し寄せる水の壁は避けようがない──防御態勢を取るも水に飲まれたマッシュが空気を求めてもがいたのは一瞬、咄嗟に瞑った瞳を開けば部屋の様子は変わりなく床に水溜まりひとつ残っていない。
 しかし眼前に蠢く竜の長い身体は間違いなく存在し、全身に重怠い痛みが走る。胸を押さえて低い態勢を取ったマッシュの後ろで、エドガーが吐き捨てるように呟いた。
「ダメージつきの幻術か……。厄介な相手だ」
 マッシュは振り返り、エドガーとティナの無事を確認して小さく息を吐いた。しかし二人とも先程の波を食らったらしく、肩を上下させている。
 二人を庇うように数歩下がったマッシュの傍で、エドガーがマッシュの名を呼びかけた。竜から目線を外さないようエドガーに応えるべく顔を動かしたマッシュの耳に、カチャリと機械を構える音が届く。
 察してサッと身を躱したマッシュの脇をすり抜け、エドガーが放ったボウガンの矢が竜目掛けて飛んで行った。しかし矢は竜の身体をすり抜け、背後の壁に突き刺さる。
 驚きに目を剥くマッシュとは対照的に、落ち着いた様子でエドガーが構えていたボウガンを下ろした。
「やはりな。あの竜そのものが幻術か」
「なんだって……?」
「実体がないからこちらの攻撃は当たらんが、向こうからのダメージは受けるということだな」
「じゃあ逃げ回れってのかよ!」
「さあて、何か有効な手立てはないか……」
 二人の会話を遮るように、鞭のようにしならせた竜の尾が鋭く割り込んでくる。咄嗟に飛び退いたマッシュは退避からの着地で踏ん張った脚に力を込め、反射的に両の掌底を合わせてオーラキャノンを撃ち放った。
 無駄な抵抗かと思われた反撃は、マッシュの予測に反して竜の背を擦り鼠色の靄を巻き上げた。
 竜が細長い身体をくねらせて悲痛に叫ぶ。手応えがあったことに目を光らせて拳を握ったマッシュは、エドガーに目配せして部屋の中央へと躍り出た。
「おっし! 俺が相手だ! こっちに来やがれ!」
 左の手のひらに右拳を叩きつけたマッシュへ、竜が頭をゆるゆると向ける。甲高い鳴き声で威嚇した竜が再び尻尾をとぐろ状に巻き、上体を起こして高い位置からマッシュを見下ろした。マッシュは目を逸らさずに必殺技の構えを取る。
 その様子を油断のない表情で見守るエドガーの腕に触れ、ティナが部屋の奥を指差した。
「エドガー、あの石像……もしかしたらあの日記の王女じゃ……」
「何だって?」
 エドガーが顔を向けて目を凝らすと、石像は確かにドレスを着た女性の姿である。驚きで眉を持ち上げたエドガーの耳に、マッシュの気合いの入った掛け声が飛び込んで来た。
「ハッ……!」
 それと同時に迸る閃光と強烈な爆風がエドガーとティナの視界を真っ白に塞ぎ、二人は腕で顔を庇う。
 鋭く風を叩きつける真空波を放ったマッシュは、攻撃を受けた竜が身悶えながら悲鳴を上げる姿を確認し、とどめの一撃を打つために体勢を整えようとした。
 途端、苦しむように暴れる竜の尾が大きく振り回され、加速した先端がマッシュの脇腹に直撃する。
「ぐっ……!」
 弾かれた身体が地に伏せる前に右手を付いて堪えるが、身を起こすより早くマッシュに目掛けて竜が直立に立ちはだかり、勝ち誇ったような雄叫びを上げた。
 マッシュが思わず腕を振り上げ防御の姿勢を取った瞬間、凛とした声と共に白い光が室内を眩く照らす。
「ホーリー!」
 素早い詠唱の後に放たれた聖なる球体が竜の背を撃ち、長い胴体はぐねぐねと踊るように仰け反った。竜の背後に手を掲げたティナの姿を見たマッシュはニヤリと笑い、改めて構えを取る。
「サンキュー、ティナ!」
 そして大きく開いた両の手のひらを竜に向け、腰を落とし足を踏ん張って溜め込んだ気合いを突き出した。
「はあっ!」
 手のひらから放出された光の柱が、標的を捉えた瞬間に竜の輪郭全てを包み込むまで膨張する。影を奪った白い世界の中で、竜の断末魔の叫びが轟いた。