古より




 静けさが戻った室内の中央、肩で息をするマッシュの前から竜の姿は掻き消えたが、その場所から燻るように立ち込めていた靄が晴れた後に、鈍く発光する一筋の白い剣が浮かんでいた。
 眉月のように弧を描いた剣身には不思議なくびれがあり、柄を合わせればマッシュの身長ほどもありそうな大きさだった。見たこともない大剣が突然現れたことに呆然とし、マッシュはぽかんと瞬きを繰り返す。
 同時に戦闘の緊張が解けてかくりと力が抜け、思わず膝をついたマッシュの元へエドガーとティナが駆け寄ってきた。
「大丈夫か、マッシュ」
 そこまで身体に疲労は感じていなかったが、差し出されたエドガーの手を遠慮なく取ったマッシュはやれやれと立ち上がる。
「ああ、ティナのお陰で助かった」
「咄嗟に唱えてしまったけど、魔法が効いて良かった……! 」
 安堵の笑顔を見せるティナに微笑んだマッシュは、すぐに真剣な目をして空間に浮かぶ大剣を見据える。
 まるで何かを訴えかけるようだ──剣が纏う淡い光に感じるものがあったマッシュはごくりと喉を鳴らした。エドガーもマッシュに同じく剣に顔を向け、難しく眉を寄せて顎に手を添えた。
「かなり大振りの剣だな。あの竜に封印されていたのだろうか」
「触っても、大丈夫かな」
 マッシュの疑問にエドガーは肩を竦めるが、止める素振りは見せない。マッシュに判断を任せるというより投げたのだろうなと、苦笑したマッシュは思い切って光る剣に手を伸ばした。
 柄を握り締めるが抵抗するような衝撃もなく、マッシュが触れたと同時にじわじわ光が消えていった。何も起こらない、とマッシュが気を抜いたのも束の間、完全に光が消えた剣は重力に逆らうことを止めたのか、地に沈むような重さとなりマッシュの腕を引く。
「うわっ……」
 慌てて両手で柄を握り、渾身の力を込めて剣を何とか落とさずに済んだマッシュは、あまりの重さに絶句してエドガーに向かって首を横に振ってみせた。
「ダメだよこれ、重過ぎる。とても振れたもんじゃないぜ」
「そんなにか? どれ、貸してみろ」
 エドガーが差し出す手に剣を渡すべきか迷い、しかし身を持って知るべきかと恐る恐る兄の手に柄を乗せた。ところがエドガーはそれを片手でひょいと受け取り、頭上に軽々と掲げてみせる。自分より腕力で劣るはずの兄の信じ難い光景に、マッシュはぽかんと閉口した。
「確かに重量はあるが、振れないことはないぞ。お前、揶揄ったな」
「い、いや、そんなはずない、片手でなんて無理な重さだった!」
「担ごうとしているんじゃないだろうな?」
「俺が兄貴にそんなことするかよ」
 呆れた口調で言い放ったマッシュは、ふとティナが傍にいないことに気づいて視線を巡らせた。部屋の最奥に置かれた物言わぬ石像の前で佇むティナを見つけ、エドガーに目配せする。
 マッシュとエドガーがティナの元まで歩み寄ると、ティナは石像の瞳をじっと見つめて唇を引き締めていた。
 マッシュも石像に目をやり、古めかしいドレスを着た女性の動くことのない悲しげな表情を前に、重苦しい気持ちを隠せずに眉を寄せた。
「日記を書いた王女、だろうな……。オーディンと共に石化されていたのか……」
 エドガーの呟きに小さく頷き、マッシュは黙って石像と化した王女を瞠り続けた。
 当然ながら見たことのない女性であるというのに、何故か仄かな懐かしさを感じる。苦痛の中で時を止めた眼差しはただでさえ胸を打ち、何か忘れていたものを呼び起こさせるようだった。
 そう、この感覚は何処かで、とマッシュが青い目をふわりと広げた時、ティナが眉をピクリと揺らしてそっと石像に囁きかける。
「……あの声は、貴女……? 貴女が私たちを呼んだの……?」
 ティナの呟きにマッシュとエドガーは思わずその横顔を見た。ティナは問い質すように王女の鉛色の瞳を見つめていた。石像の口は開かず、無言の時は酷く長く感じた。
 不意にティナが何かを決心したのか、拳を握って一度胸に当て、その手を解いて王女に向ける。エドガーがオーディンに手を伸ばした時のように、マッシュの脳裏に「触らないで」という夢の声が閃き、ティナを止めるべきかと身を乗り出しかけた。
 しかしあの声はティナにも届いていたはず──マッシュの目には、ティナが全てを理解して手を伸ばしているように見えた。
 ティナの手のひらが石像に触れる寸前、炎に似た光が手の中でぼんやりと灯り、じわじわと大きく広がってやがて石像を包み込む。その光が淡く薄れていくにつれ、鉛色だった頬は夜明けの如く白んで中央に赤みが差し、硬く凍りついていた髪は柔らかく弾んで金色の艶を取り戻して、何の色も映さなかった瞳に澄んだ青の輝きが蘇っていった。
 微かな光も消える頃、呆然と立ち尽くす三人の前ではフリルが揺れるアンティークなドレスに身を包んだ麗しい王女が生気を取り戻し、小さな紅色の唇から震える吐息を零していた。
「……あ……、わたくし、は……、……あなた方は……?」
 か細くもはっきりとした声で王女が呟く。
 眩しそうに何度も瞬きを繰り返しつつ、突如目の前に現れた見知らぬ男女の姿に戸惑っているのか、ぎこちなく手を胸に当てて気持ちを落ち着けようとしていた。
 ふと、王女の目線がエドガーの手に向けられ、ハッと見開かれる。その手に握る剣を見て明らかに顔色を変えた王女は、震える指で胸元のリボンを握り締めた。
「それは、斬鉄剣……! あの竜は、魔導の力がなければ倒すことはできないはず……、あなた方は一体……」
 そう呟いてエドガー、マッシュ、ティナの顔を順に見た王女が、改めて自分の身体をゆっくりと見下ろし息を呑んだ。
「わたくしの、石化の呪いも……魔力を持つ人間が触れなければ解かれることはない……、あなた方が、助けてくださったのですね……」
 ティナは小さく頷き、見る人に安心感を与えるような柔らかい笑みを口元に湛える。
「貴女の声に、呼ばれて来たの……。千年先の世界から」
「千、年……? わたくしは、千年も眠り続けていたと……?」
 驚愕に目を見開いた王女は、次の瞬間ハッとしてエドガーを再び見やり、その手の剣を凝視した。
「な、何故あなたはその剣を持つことができるのですか? 斬鉄剣はオーディン様でしか振ることはおろか持ち上げることも……、そうだわ、オーディン様は……!」
 混乱で頬を両手で覆い青ざめた王女の肩に、ティナが心配そうに手を置いた。エドガーは戸惑いを隠せない表情でマッシュと顔を見合わせ、剣を見下ろす。しかし努めて落ち着こうとしているのか、エドガーは小さな咳払いをしてから穏やかに目を細め、やや余所行きの声で語りかけた。
「石化が解かれたばかりで混乱するのも無理はない。私は魔大戦が終結した千年後の世界で砂漠に城を構える王です。ここにいる私の弟と、幻獣の血を引くティナが貴女の声を夢で聞いたと言っている。私の城と貴女のこの城が地下洞窟で繋がったのは、偶然ではないのかもしれない……」
 一度言葉を区切ったエドガーの目と、その目をじっと見つめる王女の瞳の色はよく似た青色をしていた。
「幻獣の血を……?」
「ええ」
 独り言に等しい王女の問いかけにエドガーは頷き、王女に顔を向けられたティナが遠慮がちに微笑む。信じ難いのか王女の表情は強張ったが、その頬の紅潮ぶりと目の輝きは何かの希望を見たかのようだった。
「オーディン殿は隣の大広間で石化されたままだ。貴女にかけられた呪いが解かれたように、彼を助けることができるのなら……」
 エドガーの言葉を聞いた王女の眉尻から緊張が解け、ホッとしたように下がる。そして再び顔つきを引き締めて、ゆっくりと説明を始めた。
「魔力を持たない人間が石化した幻獣に触れると、魔石と呼ばれる石に変わってしまうのです……。魔石になってしまえば二度とは元の姿に戻ることができません。未だオーディン様が石化されたままと聞いて安堵致しました……魔力しか効かない竜を倒し、魔導士に封印された斬鉄剣を取り戻してくださったあなた方なら、あの方を救うことができるかもしれない」
「成程、魔力か。マッシュ、さっきお前が止めてくれたのは正解だったようだな」
 王女の言葉を受けてマッシュを振り返ったエドガーは、自嘲気味に笑って肩を竦める。苦笑いするマッシュの前で再び表情を国王然と正したエドガーは、王女に向かって剣を持たない側の手を差し出した。
「ならば行きましょう。彼を千年の眠りから呼び起こすために」
 王女は決意の微笑みを見せ、エドガーの手のひらにそっと右手を乗せた。手を引かれながら覚束ない足取りで千年ぶりの一歩を踏み出した王女は、しっかりとした目つきで大広間へ繋がるドアに視線を向けた。
 王女と王女を先導するエドガーに続き、マッシュとティナも足を進める。王女の後ろ姿を眺めながら、うなじに揺れる青いリボンが何だか兄に似ているな、などと考えていたマッシュに、ティナがこっそり囁きかけた。
「ねえ、王女様って、マッシュやエドガーと同じ髪と目の色なのね」
「え? ああ、確かに……」
 答えながら部屋と大広間を隔てるドアを潜った時、マッシュは奇妙な違和感を覚えて辺りに目を瞠らせた。
 何かが、先程までと違う気がする。あの竜を倒して以来、ずっと感じていた嫌な気配は消えているが、それとは別の新たな胸騒ぎに顔を顰めていると、ティナが不思議そうにマッシュを振り返った。
「マッシュ、どうかした?」
「あ、いや……、何でもない」
 ティナは気づいていないのだろうか。マッシュ自身も変化が何であるのかは分かっていないのだが、この城に入り込んでから感じていた奇妙な雰囲気が、更なる違和感に塗り潰されたような、そんな空気だった。
 大広間に戻ると、すでにエドガーと王女は石像と化したオーディンの前に佇んでいた。先を行くティナの後を追いマッシュも足早に近づくと、感極まった表情で王女が口を覆い潤ませた目でオーディンを見上げていた。
「……オーディン様……」
 震える唇で名前を紡ぐ様があまりにひた向きで、マッシュは間違いなくこの王女が日記を書いた本人なのだと実感する。
 先程王女の呪いを解いた時のように、オーディンの前に歩み出たティナが手を掲げ、確認するように王女を見た。王女は願いを込めて両手を組み合わせ、ティナに向かって深く頷く。
 ティナがゆっくりと伸ばした手のひらが、冷たい石肌に触れた。王女に同じく赤い光がティナの手の中から広がって行く。徐々に大きくなるそれがオーディンの石像全てを包み込むかと思われたその時、光はふわりと靄になって掻き消えた。
「え……!?」
 その場にいる全員が息を飲んだ。オーディンはこれまでの姿と変わらずに時を止めたまま、鉛色のその身に色が戻ることもなかった。
「そんな……、どうして……?」
 ティナが呆然と石像を見上げて立ち尽くす。期待に満ちていた王女の瞳が哀しみに染まる様を見て、マッシュも歯がゆさに唇を噛んだ。
 ふと、エドガーが怪訝な眼差しでやや下向きに自分を見ていることに気づき、マッシュは首を傾げる。兄の視線を追って自分の腹の辺り、腰に添えられた手を見下ろして、マッシュがあっと口を開けた。
 右の手のひらの内側が仄かに赤く光っている。驚いて持ち上げた手は熱くも痛くもなかったが、間近で見ると確かな光が鈍く滲み出ていた。
 目をやれば、ティナの手のひらも同じように光を残したままだった。マッシュは同じく驚きに目を丸くしているティナと王女の顔を順に見て、最後にマッシュに向かって王女が懇願するように組んだ両手を捧げた。
「オーディン様に掛けられた呪いはわたくしよりも強いはず……! お一人では無理でも、お二人の魔力を合わせることができるのなら……!」
 その言葉に手のひらを見つめたマッシュはティナを伺い、深く頷いた彼女に小さく笑い返して、揃って石像に手のひらを当てた。
 再び炎のように湧き上がる光が先程よりも勢いよく二人の手のひらから広がり出し、石像を覆い隠して燃えるように揺らめいた。