奇蹟 3




 ──お気持ちは分かりますが、すでに四ヶ月を超えていては……

 今し方聞かされた老医師の言葉を何度も頭で反芻し、出ない答えに苛立ちを募らせたマッシュは廊下の壁に拳を叩きつけた。
 痩せこけたエドガーを助ける最良の方法が見つからない。いっそ子供を諦めるしか、と兄に内緒で相談をしたが、今からでは逆に身体に負担がかかり過ぎると医師は表情を硬くした。
 エドガーには持ちかけることができなかった。無意識なのか、腹を抱えて蹲るように眠ることが増えたエドガーを見ていると、子供を諦めようと口にするのが憚られたのだ。
 しかしこのまま子供が育ったとして、無事に産まれる保証もないではないか。エドガーは男性で、本来なら子供などできるはずのなかった身体なのだ──悩むばかりで結局何も出来ず、苦しむ兄をどう救えばいいか結論が出ない。
 ふと、弾かれたように顔を上げたマッシュが慌てて部屋に戻る。エドガーの声が聞こえた気がした。ドアを開けるとベッドに横たわっているはずのエドガーが身体を起こしているのが見えて、マッシュは体調を心配し急いでベッド脇に駆け寄った。
 また気分が悪くなったのかと背中に手を添えるマッシュに対し、エドガーは呆けたような表情でぽつりと呟いた。
「……動いた」
「……えっ……?」
 何のことを言っているのか分からず聞き返すと、エドガーは瞬きを忘れた目でぼんやりとマッシュを振り返り、もう一度繰り返した。
「……動いたんだ。今……」
 エドガーが手を添えた腹を見てマッシュは目を見開いた。
 じっと見つめてくるエドガーに促された気がして、マッシュも腹に恐々手を当ててみる。手のひらに感覚を集中させるがよく分からない。どうしたら良いのか分からずしばらくそのままでいると、ふいにエドガーが「ほら」と声を上げた。
「動いただろ、今」
「う、うーん……? ごめん、分かんなかった」
 真剣な顔で詰め寄る兄に心底申し訳なさそうに答えたマッシュだったが、動いたと言い張るエドガーの表情がいつになく生気を感じるものになっていることには気づいた。
 ここしばらく気力も何もないぐったりした姿ばかりを見てきたため、久しくこんな風に強い口調で話すことすらなかったと、マッシュは懐かしくもこれまでとは違う兄の様子に目を瞠る。
 エドガーはじっと自分の腹を見つめ、頬が削げてはいるが曇りのない目を軽く細めて、小さいながらもはっきりした声で告げた。
「……マッシュ。お前、父親になる覚悟はできたか」
 思いがけない言葉が出てきてマッシュがぎくりと顔を強張らせる。──父親。分かってはいたが、改めて言葉に出されたのはこれが初めてだった。
 正直なところ、エドガーの苦しみを和らげたいという思いばかりで、その原因である胎児に対して特別な感情を持つ余裕は全くなかった。エドガーの腹の子がもしもこの世に産まれたら、自分は父親になってしまうという事実を無意識に考えないようにしていたのかもしれない。
 顔を上げ、揺らぐマッシュをしっかり見据えたエドガーは、かつてのように光を宿した眼差しに戻っていた。
「……俺は、産むぞ。お前にも、覚悟を決めてもらう……マッシュ」
 マッシュの喉がごくりと音を立てる。
 マッシュよりも先に親になることを決意したエドガーの表情は、張り詰めてはいたが迷いは見られなかった。



 五ヶ月を過ぎた頃からエドガーの体調はみるみる回復し、吐くことはほぼなくなった。すっかり痩せこけた体はまだ戻ってはいないが、腹周りが心成しかふっくらとしてきたためにこれまでとは着衣を改めざるを得なかった。
 神官のようにふんわりした上衣を纏い、鏡の前でくるくる回って前と後ろを見比べながらおかしくないかと尋ねるエドガーに、マッシュはただ微笑んで首を横に振る。見慣れない格好ではあるが品のある刺繍がよく似合っているし、何よりもエドガーが起き上がれるようになったことが嬉しくて、マッシュは他愛のない会話を楽しむことができる喜びを噛み締めていた。
 老医師の診立てでは子供は順調と思われ、安定期と呼ばれる時期に入ったので無理をしなければ体調は問題ないだろうとのことだった。
 しかしそうなると、いよいよ今後のことを本格的に考えなくてはならなくなる。マッシュは協力者を増やすことの検討と、その人選について考え始めていた。
 公務にも復帰を果たしたエドガーだったが、病み上がりと理由をつけてマッシュが傍に控えることが必然だと周囲に認識をさせた。嘔吐はなくなったが貧血気味なのは変わらず、ふいの目眩でふらつく兄を支えるのはマッシュの役目だった。体調について詮索してくる輩も多く、また面倒な爺やたちが数多の女性の肖像画を手に押しかけてきたが、彼らの追求からエドガーを守るのもまたマッシュの仕事となった。
 外では常に気を張り、二人だけの部屋に戻った時にエドガーはようやく寛いだ表情を見せる。そして実に穏やかな目で自分の腹を見下ろし、時にそっと撫でて微笑みかけていた。
 そんなエドガーの様子はこれまでマッシュが見知っていたどの兄のそれとも違う雰囲気で、マッシュは戸惑いながらも初めて見る姿を愛しさを込めた眼差しで見守る。
 ふとエドガーに手招きされ、呼びつけられたマッシュは指示されるままエドガーを真似て、僅かに膨らんだ腹に手を当てた。その瞬間、ぼこんと手のひらに不思議な振動があった。以前とははっきり違う感触にマッシュは驚いて目を見開き、エドガーと腹とを何度も交互に見る。エドガーは笑い、美しく目を細めた。
「パパにご挨拶だとさ」
 思いがけずパパと呼ばれて心臓がどきんと跳ねたマッシュは、次いでひとりでに赤くなった頬を隠すために鼻を擦るフリをした。
 確かに動いた。エドガーの腹の中に本当に子供がいる。……血を分けた自分の子供がここにいる。
 戸惑いか照れ臭さか、マッシュは緩んでしまう口元を隠すためにそのまま手で鼻から下を覆った。




 ***




 脚立の上で腕を伸ばし、天井まで届く本棚の一番上、目当ての書物の背表紙に手が触れた瞬間、背後から「あー!」という頓狂な声が響いてきてエドガーがギョッとする。思わずバランスを崩しかけて本棚に掴まったエドガーを、走ってきたマッシュが後ろから支えた。
 腰を抱き竦めるマッシュを振り返って見下ろし、エドガーは怒鳴る。
「あ……ぶないだろう! 落ちるかと思ったぞ!」
「兄貴こそ、一人でいる時にこんな高いところ上がらないでくれ! 俺に言ってくれよ!」
 マッシュもまた必死の形相で言い返し、エドガーは呆れてため息をついた。
「これくらい大丈夫だ。体調だって落ち着いているんだし……」
「それでも万が一何かあったらどうするんだよ。頼むよ、今はもう兄貴一人の体じゃないんだから……」
 泣き出しそうな顔で懇願されてはエドガーも降参するしかない。マッシュの手を借りながらゆっくり脚立を降り、あの本を取ってくれとマッシュに指示する。マッシュは脚立を数段登って手を伸ばし、呆気なく分厚い背表紙の本を棚から抜いてエドガーに手渡そうとして、やめた。
「俺が運ぶよ。この本重いから」
「お前なあ」
「ダメ、重いもの持ったら。あと欲しいものは? 俺がやるから言って」
 真剣な目で告げるマッシュにまたため息をついたエドガーだったが、大人しく従うことにして目当ての他の本を指差す。マッシュは言われた通りにひょいひょいと本を抜き、それらのタイトルを確認して軽く眉を上げた。
「まあ、一応勉強しようと思ってな」
 マッシュに尋ねられる前に自ら説明したエドガーは、改めてマッシュが抱える数冊の本を見下ろす。妊娠・出産に関わるタイトルが並び、中には医学書に近いものも含まれている。内容が全て理解できるかは読んでみなければ分からないが、気になったものは一通り掻き集めた。
「当然だが、男性の妊娠に関する書物は見当たらんな」
「あ、兄貴、もう少し小さい声で……!」
 先程大きな声で騒いだのはマッシュの癖に、とエドガーは苦笑し、司書はここから離れた図書室の入り口付近にいるから大丈夫だとマッシュの肩に触れる。
「分からないことが多すぎるからな。先生に言われるまで酒も駄目とは知らなかった。それに自分の身体に起こっていることも知っておきたい。暇があるならお前も読んでおくといいぞ」
「う、うん……」
 手にした本と睨めっこをしているマッシュの目は真剣で、半ば冗談のつもりだったエドガーの言葉もしっかり受けてこれらの本を読むのだろうと思うと、エドガーの顔が自然と綻ぶ。
 マッシュは誠実で生真面目で、過保護なくらい自分ともうひとりの身体を気遣ってくれる。その真摯な態度を疑ったことはないし、真っ直ぐに愛してくれている気持ちに偽りはないだろう。
 しかし、マッシュはあまりに優し過ぎて。
 悪阻で体調を崩して以来、マッシュが壊れ物を扱うような態度でエドガーに接することに、エドガーが物足りなさを感じているのもまた事実だった。



 六ヶ月を迎え、エドガーの腹の膨らみも目視で分かるようになってきていた。なるべくふんわりとした衣服でごまかしてはいるが、聡い者は体型の変化に勘付くかもしれないと懸念するほどには大きくなっていた。
 実際に茶を運んできた女官が「エドガー様、少しふっくらされましたわね」と何の気なしに口にしたのを聞いて、マッシュは背筋が凍った。エドガーは動じることなく、病気で痩せた分が戻り過ぎてしまったなと笑って誤魔化したが、傍で聞いていたマッシュは気が気ではなかった。それ以来、エドガーの執務中の茶の支度は全てマッシュが行っている。
 まさか腹に子供がいるなどと思いつく者も少ないとは思うが、万が一誰かに気づかれたらどうすべきか。エドガーが城を出歩く時にはマッシュも必要以上に緊張を感じるようになっていた。
 エドガーはエドガーで腹周りを気にしながら動くためか若干疲れやすくなっているようで、部屋に戻ってソファに凭れるといつもお決まりの溜息を漏らしている。微笑んだマッシュはノンカフェインのお茶を淹れてエドガーの前のテーブルに滑らせ、その隣に腰掛けた。
 浅く座ったエドガーが背凭れに背中を預けたため、大きくなりつつある腹の丸みが強調される。すでに過去に履いていた下衣は全て入らず、ウエストサイズの調節が効く大きめのものを身につけているが、老医師からまだまだ大きくなると聞かされたマッシュは物珍しそうに膨らみを眺めるのだった。
「最近よく動くんだ。夜中に蹴られると眠れなくて困る」
 困ると言いながらもどことなく嬉しそうな顔をしているエドガーを見つめ、やはり兄は少し変わったなとマッシュは目尻を下げる。どこがとはっきりとは言えないが、表情が柔らかくなった。醸し出す空気が穏やかになった。
「なんだかんだで六ヶ月か。悪阻の時は本気で死ぬかと思ったが……落ち着いて本当に良かった。世の女性は大変だな」
 男性の身でありながら同じ苦しみを体験したというのに、どこか他人事のように呟くエドガーの隣でマッシュは複雑に眉を寄せる。
 落ち着いてくれて良かったと思う気持ちはマッシュも同じだった。もう二度とあんな風に苦しむエドガーを見たくはない。そう老医師に零した時、実際のお産の凄まじさを覚悟するように言われて身震いしたのはエドガーには内緒だった。
 そうなのだ、お腹の中に新しい命が在り成長し続ける以上、いつかは外に出てくる時が来る。
 老医師の話では、エドガーの身体には本来男性にあるはずのない器官が存在しているのだという。すなわち女性で言う子宮に当たるものなのだが、他の部分は間違いなく男性体のため、それがどのように経過していくのか、正常な出産にこぎ着けるかどうかは未知数とのことで、こうして穏やかに時を過ごしている間もマッシュの中に巣食う一抹の不安は消えることはなかった。
 健康な女性ですら命懸けになる出産に、男性の身体で果たしてうまく臨めるのか。他でもない自分たちの母は出産が原因でこの世を去っている。
 もしも、と最悪のパターンを想像しては気分が重くなり、それでもすぐに自分がしっかりしなければと弱い心を奮い立たせ、エドガーに献身的に尽くす──その繰り返しだった。
 エドガーはと言えば、休んでいた分を取り返すように公務に励んでおり、自分の身体について不安を呟くことはもうなくなっていた。悪阻が酷かった時期のただ一度だけ、マッシュに零した弱音が最後で、今は身体が重かろうと立ち眩みが酷かろうと不平を言わずに体調に気を遣っている。
 栄養のバランスを考えて食事をとり、無理をせず睡眠時間も確保して、ストレスが溜まると手を休めてマッシュを呼び、他愛のない会話を持ちかけて気分転換を図っているようだった。それは今まで何でも一人で抱え込む性質だったエドガーの行動としては驚くべき変化だった。
 兄は本当に覚悟を決めたのだ。エドガーの行動からそのことを思い知らされる度、まだ同じ場所に立てていない自分をマッシュはもどかしく思っていた。
 ふと、エドガーがことりと頭をマッシュの肩に乗せた。眠くなったのだろうかとマッシュがエドガーの背中に腕を回して暖めるように肩を抱くと、エドガーがぼそりと呟く。
「……お前、その。溜まってないのか」
 何のことを言われているのか分からずマッシュがきょとんとしていると、エドガーはおもむろにマッシュの太腿に手を添えた。その動きで意図を察したマッシュは、カッと顔を赤く染めて思わずエドガーから距離を取る。
 その態度にエドガーも頬を赤らめながらムッとした表情を見せ、広がった距離をぐいっと縮めてきた。怒らせるのは本意ではないマッシュが慌てて取り繕う。
「あ、兄貴はそんなこと気にしなくていいんだよ」
「いいって言ったって……、もう、何ヶ月も」
「大丈夫! 自分で、できるから!」
「しかし、もう落ち着いているし……、手とか、……口でも」
 気恥ずかしそうにちらりと横目を流してくるエドガーの色づいた空気を受けて、首まで真っ赤になったマッシュは両手でエドガーの肩を掴み、再び距離を取るように遠去けて「大丈夫」と念を押した。
「兄貴は、身体のことだけ考えて。俺のことはいいから。自分と、お腹の子供のことだけ考えてくれればそれでいいから」
 マッシュとしては腹にもう一人の命を抱えるエドガーに対して真摯でいたいだけだったのだが、その意思に反してエドガーははっきりと傷ついた顔をした。マッシュの胸がギクリと嫌な音を立てる。
 エドガーは淋しそうに視線を落とし、そして青い目をうろつかせながら、小さな声でぽつりと尋ねてきた。
「……お前……、浮気、したりしないよな?」
 予想外の問いに目を剥いたマッシュは、必要以上に首を横に振った。するはずがない。子供の頃からエドガー一筋で生きてきたのだ。他の人間など目に入るはずもない。
「するわけないだろ!」
 少し口調がキツくなり、エドガーがまた額に影を落とす。兄の様子がおかしいことに気づいたマッシュは、いつの間にか力の入っていた手を緩めてエドガーの体を抱き寄せ、その背中に優しく触れた。
「俺は、兄貴の身体が心配なんだ……本当に、それだけなんだよ」
 エドガーは引き寄せられるままマッシュの胸に頭を預け、長い沈黙の後に消え入りそうな声で呟いた。
「……でも、お前。最近、キスもしてくれないだろう……?」
 その言葉にマッシュがハッとする。
「もう俺に、興味がなくなったのかと……」
「ち、違う!」
 慌ててエドガーの顔を覗き込んだマッシュは、エドガーの青い目に鮮明に表れた不安を感じ取って自分の失態に気づいた。
 悪阻の時期にあまりに苦しむエドガーを目にしてキスどころではなくなり、その後もタイミングを逃してできないままでいた。こんな風に身体を密着させている時にもっと触れたいキスをしたいと思うことは何度もあったが、腹に子供がいるエドガーにそんな不埒な真似をしてはと心のどこかでストップをかけていたのは事実だった。
 もう一人の命を抱えている身体というのがマッシュにとっては未知の存在で、必要以上のスキンシップを避けていたのも本当だった。どう接して良いのか迷っていたというのが正しいかもしれない。触れただけで何かが起こるはずはなくとも、抱き締めたら腹を潰してしまうのでは、と想像したのは一度や二度ではない。
 それがエドガーを不安にさせていたのなら本末転倒である。折角エドガーが以前のように動けるようになったのだから、もっと触れ合うべきだった。プライドの高い兄にあんなことを言わせた上、傷つけてしまったことをマッシュは悔いた。
 思い詰めた青い瞳を正面から見つめ返し、マッシュはエドガーの前髪を優しく掻き上げて、まずその額に小さなキスを落とした。愛を込めて、わだかまりを溶くように。
「今までもこれからも、ずっと兄貴だけを見てるよ。……不安にさせてごめん。愛してるよ」
 そして薄っすら開いたエドガーの唇に深く口付ける。久しぶりの唇の柔らかさにマッシュ自身も心が解けていくようだった。もっと早くこうすれば良かったのだと、そっと唇が離れた後に見たエドガーの表情が安堵に緩んだのを確認してマッシュは目を細める。
 照れ臭そうに微笑んだエドガーがたまらなく愛しくなって、マッシュはもう一度心からのキスを贈った。