一挙一動にため息を挟むことが増えたエドガーは、明らかに大きく膨らんだ腹を押さえながら執務室のチェアに深く背中を凭れさせる。 七ヶ月に入り、さすがに重みを感じるようになった腹をごまかすことが難しくなり、また体調不良を理由に執務室に篭ることが増えた。会議や他国からの使者との面会をマッシュに任せ、書類の処理だけは何とかこなしているが、いつまでもこのまま通すことはできない。 出産までの決して短くない時間をどう繕っていくか。人目を避け続けるのも限界がある。どうにかしなければ、とまた溜息をついた時、腹の中からポコポコとノックが響いた。 思わず顔を綻ばせたエドガーは、叩かれた部分を優しく指先で叩き返す。するとまた同じ箇所からトントンとノックがあり、エドガーが小さく声を出して笑う。 その瞬間執務室の扉ががちゃりと開き、弾かれたように顔を上げたエドガーは、現れたマッシュの姿にふっと肩の力を抜く。 「なんだ、マッシュか」 「そりゃそうだろ。俺しか入れないようにしてるんだから」 マッシュは扉を閉めてから念のために鍵もかけてエドガーの傍までやってくると、手にしていた書類の束を机の端にどんと置いた。 「またたくさん持ってきたなあ」 「兄貴じゃないと通せないのが多くてさ。もう少し減らしたかったんだけど、ごめんな」 申し訳なさそうに眉を下げて告げるマッシュに首を横に振ってみせて、エドガーはそれはさておきと自分の腹を指差した。 「動いてるぞ、今。お前が来るのが分かったのかな」 「どれ?」 マッシュはエドガーの隣で膝をつき、膨らんだ腹にそっと耳を当てて手を添える。青い目をきょろきょろと動かしながら腹からの反応を待っていたマッシュは、ふと瞬きをして笑った。 「顔を蹴られた」 嬉しそうに言うマッシュにエドガーも微笑み、優しく腹を撫でるマッシュを優しい眼差しで見つめた。 身体を起こしたマッシュは、そういえば、と前置きし、王家に仕える騎士のうちの一人の名を挙げた。 「結婚するんだってさ。今日報告をもらった。兄貴に直接伝えられなくて申し訳ないって」 「へえあの堅物が。いつの間にいい人を見つけていたんだ」 「それがなんでも相手に子供ができちゃったらしくて、騎士の身でありながら面目無いって顔真っ赤にしててさ、相手の親御さんにも申し訳が立たないって──」 マッシュはそこまで説明してからはたと何かに気づき、気まずげに目を泳がせた。エドガーが苦笑する。 「まあ、俺たちも同じようなものだな」 「う……ん」 「まさかデキるとは思わなかったが」 「……ごめん」 「どうして謝る」 「だって、……何も考えてなかったから」 エドガーは吹き出し、頭を垂れて佇むマッシュの腕にそっと触れた。 「当然だろ、デキるはずがなかったんだから」 「……でも」 「そんな顔するな。最初こそ戸惑ったが、……今は後悔していない。お前が相手でなきゃ耐えられなかったし、お前が相手だからこそ覚悟ができた。だから、謝らないでくれ」 優しい声で諭すように囁くエドガーを見下ろしたマッシュは、黙って頷いた。そして腰を屈めてエドガーの頭を抱き、髪にそっとキスをして、唇を摘むように口付けた。 エドガーはマッシュの胸に頭を擦り寄せ、独り言のようにぽつりと呟く。 「……報告、か。俺たちも、そろそろしなければならんな」 その言葉の意味を理解したマッシュは、神妙な面持ちでうん、と低く答えた。 *** ソファに並んで座るエドガーとマッシュの二人を前に、青を通り越して白くなった顔色の神官長フランセスカが絶句して数分経った。 緊張でしっとり手のひらに汗を掻いているマッシュの隣で、実に淡々と妊娠に至る経緯をフランセスカに報告したエドガーは堂々としており、大きくなった腹も隠すことなく見せていた。 まさにフランセスカはエドガーの腹を凝視し尽くしてから、視線を落として額に指先を当て、眉を寄せて厳しい表情で考え込む。その挙動をマッシュがハラハラしながら見守るのとは裏腹に、エドガーは落ち着いた様子で口を開いた。 「……という訳で、神官長、いや、ばあや。ばあやの力を借りたい。私とマッシュと先生だけではそろそろ難しくなってきた……さすがにフィガロ国王のこの姿を人前に晒すわけにはいかないのでね」 「……エドガー」 フランセスカが敬称をつけずにエドガーの名を呼んだ。それは彼女が神官長の立場ではなく、二人の乳母として対峙していることを示していた。 そしてマッシュにも目を向け、マッシュ、と子供の頃と同様に名前を呼ぶ。 「あなたたちは……、いつから……」 そこまで言って次の言葉が出てこないのか、フランセスカはまた押し黙る。 エドガーは軽く目を伏せ、静かに口を開いた。 「その質問に答えることでばあやの協力を得られるのなら、何だって答えよう。しかしばあや、私が今欲しいのは確約だ、それが先だ」 「ああ、待ちなさい、エドガー……、頭が混乱して……なんてこと……。ステュワート様とクリステールに申し訳が……」 父と母の名前が出た途端、それまでぴくとも動かなかったエドガーの眉が顰められた。 「……父上と母上には不肖の息子ですまなく思っているよ。不義を犯した罰は地獄に落ちてからいくらでも受けよう……しかし子供に罪はない。私も人の親となるのだから腹を括らねばならないんだ。そして私たちには時間がない」 語気をやや強めたエドガーにフランセスカは観念したようにため息をつき、小さく頷いた。 「……分かりました。協力することを約束しましょう……でも、聞きたいことがたくさんあります」 「ありがとう、ばあや。勿論何だって聞いてくれ。私も聞きたいことがたくさんあるんだ……何しろミルクの作り方もさっぱり分からないからね」 にっこり微笑んだエドガーにフランセスカは呆れたようにようやく小さく笑い、二人のやりとりに口を挟むことができずにおろおろしていたマッシュに目を向け、感慨深げに目を細めた。 「……貴方達の子供をこの手に抱くのが夢のひとつではあったけれど。まさか、こんな形で叶うことになるとは……想像もしませんでした」 マッシュは気まずげに肩を竦め、頭をがりがりと掻いてからふっと大きく息を吐き、フランセスカに頭を下げる。 「びっくりしたと思うけど、……俺の子供でもあるんだ。兄貴を、頼むよ。ばあや」 フランセスカは背中を丸めたマッシュの大きな体を眺めながら、ただ黙って頷いた。 フランセスカが部屋から立ち去った後、どっと汗が噴き出したマッシュはソファの背凭れにどっかり背中を預けて天を仰いだ。 はあ、と情けなく息を漏らすマッシュに苦笑したエドガーは、おつかれ、と声をかけた。 「なんとか納得……はしていないだろうが、ともかく協力はしてもらえることになったな」 「兄貴、よく落ち着いて話せたな……俺、ばあやの顔見てたら頭真っ白になっちまったよ」 「ばあやに言った通りさ、腹を括るしかないだろう? 時間がないのも本当だしな」 そう言って膨らんだ腹をそっと見下ろすエドガーを横目で伺い、照れ臭そうに鼻の下を指先で軽く擦ったマッシュは、ふいにごそごそと尻ポケットから小さな箱を取り出して、大きな手の中で覆い隠す。 何をしているのかとエドガーが覗き込もうとした時、マッシュは身体ごとエドガーを向いて真っ直ぐにその瞳を見つめ、意を決したように口を開く。 「……この前、伝えたろ。部下の結婚の報告」 「あ、ああ」 いつになく畏まった様子のマッシュに戸惑いながらもエドガーが頷くと、マッシュは軽く深呼吸をして、再び真摯な眼差しでエドガーを見つめながら続けた。 「俺も、ちゃんとしなきゃって思って。……順序は逆になっちゃったけど、兄貴も、……お腹の子供も、俺が絶対に幸せにするから。だから、」 手の中の小箱をエドガーに差し出し、顔を真っ赤にしたマッシュが決死の思いで告白する。 「俺と、結婚してください」 目を丸くしたエドガーは数秒間動きを止め、事態を理解するためにしばし時間を使って、それから差し出された小箱をそっと手に取ると、蓋を開いて中に収められたシンプルなプラチナのリングをまじまじと見つめた。 それから更に動きを停止したエドガーは、ほんの少し震えた唇からふっと息を漏らし、それが引き金になって笑い出す。 「……お前、俺たち男同士だぞ」 「うん」 「しかも兄弟」 「……うん」 笑い続けるエドガーをやや寂しそうに眺めていたマッシュの目の前に、突然笑うのをやめたエドガーがにゅっと顔を突き出して、首に腕を絡め気恥ずかしそうに頬を染めて目映いほどに微笑んでみせた。 「幸せに、してくれ」 そして驚きで半開きになったマッシュの唇に自らの唇を押し当て、うっとりと目を閉じる。受け入れられたことに胸を満たされたマッシュは、そんなエドガーの艶やかな髪に指を差し込んで、もう片方の腕で優しくエドガーを抱き締めた。 唇が離れた後、エドガーの左薬指にマッシュによって辿々しく指輪がはめられ、それを嬉しそうに眺めるエドガーをマッシュもまた愛しげに見つめるのだった。 *** 「……じゃあ、また様子見に来るから」 「ああ。こっちのことは心配するな。すまんが、城を頼んだぞ。身体に気をつけてな」 向かい合って先ほどからかれこれ三十分は同じやりとりを繰り返しているエドガーとマッシュから少し離れた場所で、二人を待つセッツァーが苛々と足先で土を蹴りながら時間を潰していた。 最初は同じように別れのやりとりが終わるのを待っていたフィガロ城の神官長フランセスカも、気づけば姿が見えない。すでに屋敷に入ってしまったようだった。セッツァーもこの二人に見切りをつけてさっさと飛空艇に戻りたいのだが、今回の仕事がマッシュを飛空艇でフィガロ城に送り届けることなので彼が来ないことには飛び立つこともできない。 ここはコーリンゲンに程近いフィガロ王家の別荘。すでに八ヶ月を迎えたエドガーはフィガロ城で他人に身体を見られず過ごすことが難しくなり、フランセスカと共に出産までこの別荘で生活をする段取りになっていた。 当然対外的には病床の国王が長期療養を目的として城を離れるということになっており、不在中の職務はマッシュが担うと公表されている。臣下や国民がざわつくのは避けられないだろうが、エドガーの妊娠を発表するよりはずっとマシだろうとの本人の言葉にはセッツァーも頷かざるを得なかった。 セッツァーが事の次第を聞かされたのはつい先日、ふらりとフィガロ城に立ち寄ってファルコンのメンテナンス部品を少し分けてもらおうなんて考えたのが運の尽きで、探していたんだと目を輝かせるマッシュに連れて行かれたエドガーの私室でとんでもないものを見せられた。 にこやかにセッツァーを迎えるエドガーの腹がどう見ても不自然に膨らんでおり、その割に本人の身体全体が急激に肥えたという感じはなく、腹のみが突き出ている状態にセッツァーは思わず妊婦か、と突っ込みを入れた。ところがエドガーはそれに対して平然と「そうなんだ」と答え、理解がついていかないセッツァーに淡々と事の経緯を説明し始めた。 嘘でも冗談でもなく大きくなった腹に子供がいると聞かされたセッツァーは、同時にフィガロ王国の超極秘国家機密に巻き込まれたことも悟らなくてはいけなかった。今や世界の第一人者であるエドガーが、弟と通じているばかりか男性の身で身籠もったなどということが世間に知られたらどうなるか──想像するだけで冷や汗が出る案件に、すでに共犯として引っ張り込まれたことを自覚するまで時間はそれほどかからなかった。 彼ら兄弟の要求は飛空艇での送迎だった。まずは静養先にエドガーたちを連れて行くこと、そして数週に一度のペースでマッシュと医師が通う手伝いをすること。無茶を言うなと突っぱねたが、送迎に関わる燃料やメンテナンス費用は全てエドガーが私費で負担、無事出産した暁にはその後のファルコンの整備も全面的にバックアップすると言われ、仕方なく了承することにした。 確かにマッシュが通うためだけにフィガロ城の潜航を繰り返すのは得策ではない。城の人間にエドガーの姿を見られる確率も高くなるだろう。 何よりエドガーに「仲間だろう」と良心につけ込む嫌らしい頼み方をされた時、彼らしい台詞であるのに彼らしからぬ柔らかな表情で請われたことに少なからず驚いていた。瓦礫の塔に向かった時のピリピリした空気がさっぱり消え、穏やかで満たされた目をするエドガーはセッツァーがこれまで見た事のないものだった。 何が彼を変えたのかなど、考えるまでもない。今もこうしてマッシュとのしばしの別れを惜しむエドガーは、過去に重量のある機械を担いで魔物を薙ぎ払っていた一国の王と同じ人物には見えなかった。 「身体第一にしてくれよ。何かあったらすぐ伝書鳩飛ばして」 「分かってるよ、ばあやもいるし大丈夫だ」 「俺もなるべく通うようにするから。週一……いや週二……」 「そんなに艇を出すとは言ってねぇぞ」 さすがに痺れを切らしたセッツァーが二人の真横に立って横槍を入れると、エドガーとマッシュが同時にこちらを見て目を据わらせた。空気を読めという顔をされるが、もう散々待ってやったとセッツァーは強気に出る。 「マッシュ、そろそろ行くぞ。お前、身重のこいつをいつまで外に突っ立たせとく気だ」 その言葉にあ、と声を上げたマッシュが頭を掻き、エドガーの肩に手を置いて名残惜しそうに眉を寄せた。 「……じゃあ、行くよ。元気で」 「ああ。……愛してるよ、マッシュ」 咄嗟に顔を逸らしたお陰で二人の口づけをなんとか見ずに済んだが、体中に走る悪寒は止められず、なお粘ろうとするマッシュの腕を無理やり引っ張って飛空艇に押し込んだセッツァーはすっかり汗だくになっていた。 乗り込んでしまえばこっちのものとすぐに離陸を開始し、甲板から身を乗り出してエドガーに声をかけ続けるマッシュを後ろから蹴り落としたい衝動に駆られながら、セッツァーは溜息混じりに操舵を握る。地上のエドガーが豆粒になりやがて見えなくなっても、マッシュはしばらく空の下を覗き込んで甲板から離れなかった。 「どうすんだ、お前」 ファルコン号の甲板の縁に凭れながらぼんやり雲を横切る様を眺めていたマッシュは、問いかけが自分に向けられたものだとすぐには思い至らなかった。しかしこの場にいるのは自分とセッツァーの二人のみで、そのことに気づいたマッシュは首を傾げて答える。 「どうするって、何が」 「何がじゃねえだろ。……子供、どうすんだよ」 話し方に愛想はないが、声色に滲む優しさで心配されていることを察したマッシュは、軽く首を横に振って告げた。 「無事に産まれてから考える」 「産まれてからってなあ、それじゃ遅えだろ」 「正直今はそこまで頭が回らない。……無事に産まれる保証がない」 セッツァーが押し黙った。マッシュは軽く溜息をつき、仲間内で唯一自分と兄の関係を知る友に改めて頭を下げた。 「セッツァーがいなかったらこの計画も成り立たない。しばらく付き合わせて悪いけど……よろしく頼む。本当に、ありがとう」 フンと鼻で笑ったセッツァーは、高くつくからな、と言い捨ててマッシュから目を逸らし、先ほどのマッシュと同じく追い越した雲をぼんやりと目で追う。 マッシュもまた縁に背中を預けたまま天を仰ぎ、首から下げたチェーンの先にぶら下がる小さなリングを指先で弄りながら、しばらく会えなくなる愛しい人を思い浮かべて息を吐いた。 「ようやく行きましたか」 フランセスカの声に空から目を離して振り返ったエドガーは、見ての通りと肩を竦めてみせた。呆れた表情で屋敷から出てきたフランセスカは、手にしていたストールをエドガーの肩にかける。 「立ちっぱなしは良くありませんよ。お腹に負担がかかります」 「すまないなばあや。長く離れるのは久しぶりだったものだから」 「少し協力してくれるご友人に気遣いをなさい。さあ中へ、お茶を淹れましょう」 促されて足を進めると、成る程確かに下腹が突っ張るような感覚があってエドガーは少し怯む。無理はいけないと自分に言い聞かせ、そろそろと歩きながら屋敷の中へと滑り込んだ。 フランセスカに下腹の違和感を伝えると横になりなさいと怒られて、手持ち無沙汰のままソファに横たわる。指を揃えた左手の甲を目の前にかざし、薬指に光る指輪をぼんやり見つめていると、トレイに茶を乗せたフランセスカが戻ってきた。 「もう少し身体を労わらないと」 卓上にカップを置きながら説教をするフランセスカの言葉に唇を軽く尖らせたエドガーは、だって、と前置きして言い訳を始めた。 「分からないことばかりだ。こんなに腹が重くて、足も怠くて、背中も腰も全部痛いなんて思わなかったよ……悪阻がないだけ今は相当マシだがね」 「貴方の母上も悪阻が重かったわ」 ふいに母の名前が出たことに眉を持ち上げたエドガーがフランセスカに顔を向けると、フランセスカは軽く目を細めて遠くを見るような眼差しでエドガーを眺めていた。 「さっきも、いつまでも中に入りたがらないで。……修道院にいらしていたステュワート様が、クリステールの手を握っていつまでも離さなかったことを思い出しました……なかなかお帰りになろうとしなかった……クリステールも、見えなくなってもステュワート様の背中を見送っていたものです」 エドガーに恐らくは母の面影を見ているフランセスカを前に、エドガーは軽く眉を垂らして薄っすら微笑んだ。 「……なら、二人の血を受け継ぐ私たちが同じことをしても仕方がないだろう?」 「ええ、親子であることを思い知らされましたよ」 「すまないな、ばあや……。父と母だけでなくばあやも哀しませてしまった」 「もうおよしなさい。貴方はお腹の子供とご自分の身体のことだけを考えて」 口調は厳しいが暖かさのこもったフランセスカの言葉を受けて目を伏せたエドガーは、ゆっくりと頷いて左手薬指のリングに唇を当てた。 |