奇蹟 5




 重くなった腹を突き出すように、浅く腰掛けた椅子の背凭れに肩甲骨で体重を預け切ったエドガーは、手持ち無沙汰に足先を前後に動かしながら溜息混じりに呟いた。
「……マッシュはまだ来ないのか」
 独り言のつもりだったが運悪く背後をフランセスカが横切り、三日前に来たばかりでしょうと嫌味を零される。
 薄っすら顔を赤らめて、気まずくサイドテーブルに置かれたカップを手に取った。退屈だった。マッシュは医師を伴い二週間に一度のペースで会いに来てくれるものの、あれこれ話して何となく時間を過ごせば一泊の逢瀬はあっという間に終わってしまう。
 その上ここ最近、少し外をうろついたりするだけで腹が突っ張ったように苦しくなり、それを医師に告げると早産になったら大変だからとにかく安静にしろと強い口調で指示された。おかげで別荘に移ってからろくに出歩けずに、室内に押し込められて横になるか座っているかのどちらかで、腹が硬く感じる時は座ることすら許されず、ひたすら寝ていろと言われてただただ時間が過ぎるのをぼんやり待っていた。これでは悪阻の時と変わらない。身体自体は元気であるから尚の事手持ち無沙汰だった。
 おまけに胎動がここに来て激しくなり、元気であることが分かるのは良いのだが、昼夜問わず腹の中で暴れ回るのに若干の痛みを伴うようになって来た。内側から蹴り上げられる何とも言えない苦痛、肋骨をゆっくりへし折られるのではと思うほど足癖が悪く、外側からはどうすることもできずに耐えるのみ。虐めてくれるなと時々腹を優しく叩いてみるが、元気な蹴りが返ってくることがあって理解してはもらえていないようだった。
 それでもマッシュが来てくれた時は退屈が吹き飛び、顔を合わせるだけで嬉しいし、やれ、これが辛いあれがキツイと甘えれば何でも望む通りにしてくれて、三日前に訪れた時も不満を言わず浮腫んだエドガーの脚をマッサージしたり一人で履くのが難しくなった靴下を履かせたり、食事やお茶をせっせと運び細やかな介抱をして甲斐甲斐しく尽くす様に、フランセスカがすっかり呆れていた。
 夜は同じベッドで横になり、エドガーが眠くなるまで話を聞いてくれた。出歩くことがほとんどないので同じ話を繰り返すことになるのだが、うんうんと優しく相槌を打ち、腕枕としてエドガーの頭を支える手で髪も撫でてくれて、不思議とマッシュが傍にいる夜は腹の子供も大人しく、母子共に穏やかな眠りにつくことができた。
 終始そんな調子なので、送迎を担当させられているセッツァーなど飛空艇から降りて来ようともしないし、二人でいる間はフランセスカもあまり近寄って来ない。しかしこれまで人目を忍んでばかりだったエドガーにとって、他人の前でも大っぴらにマッシュにくっついていられることが新鮮で、それは思った以上に悪くない感覚だった。
 ふと、向かいに座るフランセスカが編み物をしていることに気づいた。数日前から見られる光景で、それが小さな靴下であったり帽子であったりしていることも知っていた。
 聞きたいことがたくさんあると言ったフランセスカだったが、あれからエドガーやマッシュを質問責めにすることもなく、基本的には黙って二人を見守ってくれている。
 ただ一度、マッシュがいない時に後悔はないのかと問われた時、エドガーは「ない」とはっきり答えた。恐らくはあれが彼女の臍を固める最後の後押しだったのだろうと思い返す。
 エドガーの身体を気遣い、王の仕事を任されたマッシュを思い遣り、こうして産まれてくる子を迎える準備をしてくれる。親に等しい存在であるフランセスカに話したのは間違いではなかったという気持ちと、兄弟で関係を持ってしまった事実を知らせなければならなかったことへの罪悪感は、同じ強さを持って胸から消えることはないのだろう。
 エドガーは背凭れに手を置いてゆっくりと預けていた背中を浮かし、正面のフランセスカの手元に少しだけ顔を近づける。
「……今度は何を?」
「お包みですよ。砂漠の夜は冷えますから」
「へえ……私もやってみようかな、編み物」
「貴方が?」
 眉を持ち上げて意外そうな声を上げるフランセスカに、心外だとエドガーが首を横に振ってみせた。
「私の手先が器用なのは知っているだろう?」
「それは存じておりますが、……雪でも降るのではないかしら」
「涼しくなって丁度いいじゃないか。……さあ、私にも教えてくれ、ばあや」
 にこやかな笑みを見せながら、エドガーは頭の中で三日前の診察にて医師と交わした会話を思い起こす。
 正確さには欠けるが、身体や子供の様子から見てすでに九ヶ月を迎え、早ければあと三週間ほどで子供の成長は完了する。つまり、いつ出産になってもおかしくない時期が近づいている。
 ──その時、母体と子供が両方無事であるとは限らない。





 はあ、ふう、と溜息混じりに首を回したり腕を伸ばしたりしながら難しい顔で机に向かい、ペンを動かしたかと思えばぱっと離したその手で頭をがりがりと掻いて、また手にしたペンで少し長めの記述をし、ようやく完成した一枚の書類をそっと脇に避ける。
 反対側に積まれた未処理の書類の山を横目で睨んではまた溜息をつき、休んでいる暇はないと頭をぶんぶん振ってまたペンを持ったマッシュは、眉間に皺を寄せたまま書類を頭からじっくりと読み、兄と瓜二つの字で王の名前をサインした。
 エドガー不在のフィガロ城ではマッシュが国王代理として全権を任されているが、だからと言って全ての書類にほいほいサインをしては後々大変なことになる。兄からの助言を頻繁に得られない今、自分で考えて答えを出すことの難しさに連日頭を使い、そこから煙が出そうな日々を過ごしていた。
 こんなことを即位してからずっとやり続けてきたエドガーはやはり偉大であると、恐らくは彼の半分も働けていない現状にまた溜息が漏れる。勿論マッシュが政務に不慣れであることはエドガーも周りの臣下も重々承知しており、エドガーがこなしていた全ての仕事を与えられている訳ではない。
 国王不在で一年以上も持ち堪えた城である、優秀な臣下たちは兄の代わりを担うというプレッシャーも含めてマッシュへの最大限のサポートをしてくれていた。だからこそできるだけのことはしたいとマッシュも気負うのだが、予想以上に捗らない書類の束が積み上がっていく。
 マッシュは肩を押さえながらゆっくりと首を回した。これまで無縁だった肩凝りというものがどんなものか分かった気がする。早朝トレーニングこそ何とか続けているが、明らかに鍛錬不足で身体は鈍って血の巡りが悪い気がした。
 加えて王の代理であるから普段のような薄着ではいられず、首の詰まったかっちりとした服を着込んでいるせいか、その窮屈さで疲労が倍になっているように感じていた。エドガーも普段から肩が凝るだの頭痛がするだのよく零しているが、こんなことをしていれば当然だろう──世界を相手にサインひとつで駆け引きを行うのだ。
 なんとか二週間に一度はエドガーの顔を見に別荘に向かうことができているが、本当はもっと頻度を増やしたかった。会う度に兄の腹ははち切れそうに大きくなっていて、もう産まれてくるのではと狼狽えては医師やフランセスカに笑われてしまう。
 エドガーもまた美しく笑い、重そうな腹を抱えてマッシュに寄り添いああして欲しいこうして欲しいと甘えてくる。兄が素直に欲求をぶつけてくるのはこれまでになかったことで、それがたまらなくいじらしくて頼まれたらどんなことでもしてやりたくなって、うろちょろと動いていたらまたフランセスカに呆れられた。
 最後に会ったのは三日前。腹を中から蹴られて痛いと零していたエドガーは、普段何もすることがなくて退屈だとうんざりしていて、なんと編み物を始めたのだと編みかけの小さな靴下を得意げに見せてくれた。そして悪戯っぽい顔で冗談めかして「淋しい」と告げた。
 本音を誤魔化そうとしたエドガーをきつく抱き締めてやりたかったが、腹を潰す訳にはいかないのでやんわりとしか力を込められないのがもどかしかった。
 本当はずっと傍にいてやりたい。しかしエドガーの姿は人前には晒せず、城を完全に放置するのも許されない。
 だからマッシュは離れている間は自分のできることを全力で担い、エドガーに会う時は彼のためだけに尽くそうと決めていた。
 またひとつ書類にエドガーの名前を書き終えた時、執務室のドアがノックされてマッシュが返事をする。
 現れた女官が用件を述べると、マッシュの顔色がサッと青ざめた。


 人払いを済ませた客室で、マッシュに深々とお辞儀する老医師に頭を上げるよう伝えたマッシュは、医師を促して革張りのソファに向かい合って腰掛けた。
 ──陛下の御病状についてお話があると──
 女官の言葉を受けて駆けつけたマッシュは三日前のエドガーの様子を思い出す。特におかしなところは見られなかった。医師も順調だと言っていたではないか。
 何かエドガーの身体に問題でも見つかったのかと詰め寄ると、老医師はマッシュの剣幕に驚きながらも説明を始めた。
「御子様は順調です。このまま行けばあと一ヶ月ほどで御出産になるかと」
 マッシュが瞬きをする。何か悪い言葉が出てくるのではと身構えていた分「順調」の言葉に拍子抜けしたが、それだけで医師が自分を呼び出すはずがない。
 するとマッシュが思った通り、更なる追求の前に医師の表情が渋くなり、実は、と前置きして三日前にエドガーと対話した内容を打ち明け始めた。
「……御出産も近づいているため、医者としてエドガー様のご意思を確認しなければなりませんでした。すなわち、万が一の事態には母体と御子様どちらを優先させるかということを」
 マッシュが目を見開く。医師は苦々しく眉を寄せ、エドガーが迷うことなく答えたというその台詞を教えてくれた。

『子供です。考えるまでもない。子供を優先してください。覚悟はできています』

 ざわっと粟立った背中に寒気を感じながら、マッシュは言葉を失って少しの間医師に返答ができなかった。
 万が一の事態──考えたくはないその時がもしも来たら、判断するのがマッシュであれば間違いなくエドガーを選ぶ。しかし数ヶ月もの長い間、体調不良に苦しみながら命を分け合うように慈しんできた存在を腹に抱え続けたエドガーは。
 愛おしそうに腹に触れて微笑む姿を見る度、エドガーは自分より先に親として生きているのだと思い知らされてきた。身体の中に命があるのを実感しているのだから気持ちに差ができるのは仕方がないだろう。
 だけど、だからと言って。「その時」に子供を助けてエドガーから手を離すだなんてこと──
 呆然としているマッシュに、老医師はやや掠れた低い声でぼそりと零した。
「……やはり、マシアス様にはお話しではなかったのですね」
 医師がわざわざ時間を作って自分に話しに来た意味を理解し、マッシュは唇の端を噛み締める。
「……そういう話は、したことがなかった……」
「エドガー様は、貴方様がいらっしゃるから、と。御自身にもしものことがあっても、マシアス様が国も御子様も支えてくれると御考えのようです」
 マッシュは表情を歪めて項垂れた。冗談で言ったのではあるまい──兄はとうに覚悟を決めているのだと突きつけられ、その決断を受け入れられない自分を改めることもできない。
「先生、なんとか……、絶対に二人とも無事に助けられる方法があるなら、」
「残念ですがお産に関して絶対はありません……。健康な女性でさえ出産で命を落とすことは珍しくない。エドガー様のように元々女性ではない方が出産されて無事に済むかどうか、全く保証はないのです」
「でも、俺は……兄貴よりも子供を選ぶなんて、できない」
 ようやく絞り出した声が模った言葉はあまりに弱々しく、エドガーに比べて説得力も何もないだろうことは分かっていた。
 エドガーを愛している。その愛する人が身体の中に自分と分け合った命を宿している。今存在する命とまだ見ぬ命。どうしても目の前の人を守りたくなるのは親になる人間として失格なのだろうか。
「その時になってみないとどうなるかは分かりません。 私も全力を尽くしますが……マシアス様にはエドガー様のご意思を伝えておかねばと」
「……、あと、一ヶ月?」
「順調にいけば」
「……」
 マッシュは眉を寄せたまま目を細め、膝の上で組んだ指を握り締めた。
 エドガーに逢いたくてたまらなかった。





 洗濯物を取り込みに行ったフランセスカが予想より早く中に入って来たと思ったら「飛空艇が」と口にして、エドガーもソファに横たえていた身体を起こして窓際に近寄った。見上げた窓越しの空にこちらに向かってくると思われる小さな点。間違いなくセッツァーの飛空艇であると確信し、次の予定までまだ一週間以上もあるはずなのにどうしたことかと首を傾げる。
 もしや手に負えない仕事でも舞い込んできただろうか? その予想は着陸した飛空艇から降りてきたマッシュの表情で外れだとすぐに分かった。
 思い詰めたような影のある顔。これは医師から話を聞いたなとピンときて、フランセスカに目配せをする。すぐに察したフランセスカは茶の支度のみを済ませて奥の間に引っ込んだ。
 エドガーはマッシュが来る前と同様にソファに身体を横たえ、肘掛に背中を預けて少しだけ上半身を起こした。そして立ったままのマッシュを見上げて穏やかに口を開く。
「どうした、今日は。急用でもできたか」
 素知らぬふりで尋ねるが、マッシュは表情を崩すことなく低く返してきた。
「話があって来たんだ」
「それは構わんが、城の仕事は問題ないか? セッツァーもこき使うと臍を曲げるぞ。急ぎの用でないなら伝書鳩でも」
「兄貴」
 マッシュが床に膝をつき、エドガーの左手を取った。大きな手で包むように、薬指に光る指輪ごと手を握り締められて、自分を見つめる眼差しの真剣さと滲み出る切なさにエドガーは観念する。
「……聞いたのか。先生から」
 マッシュが黙って頷く。
「先生を責めてはいないだろうな?」
「……そのつもりだけど」
「つもりとはなんだ」
 苦笑いを見せるとマッシュが困ったように眉を下げる。しかしすぐにまた真面目な顔に戻り、少しだけエドガーとの距離を詰めて口を開いた。
「……俺、兄貴と子供を天秤にかけられない」
 絞り出すようなマッシュの声を受け止め、エドガーが優しく目を細める。
「もしものことがあったら……考えたくないけど、もしその時が来たら、俺はきっと兄貴を選んじまう。冷静に判断できる自信がない……」
「マッシュ」
 自分の手を握るマッシュの手の上に、更にもう片方の手を重ねたエドガーが落ち着いた声色で呼びかけた。
「魔石は砕けてしまった。きっとこの不思議な力はこれきりだろう……俺とお前の血を引いた子供が産まれるチャンスは一度しかない」
「だからって……!」
 食ってかかるように顔を上げたマッシュをエドガーは目で制する。
「まあ聞け。こんなことあり得るはずがなかった……俺と、お前の子供だぞ? 本来は宿ることもなかったんだ。絶対に。でもこの子は来てくれた。お前の血を引いた俺の子を、俺はどうしてもこの腕に抱きたい……この子に世界を見せたい」
 エドガーの強い口調にマッシュが押し黙る。エドガーは表情は穏やかだったが瞳には強い意志を燈らせて、マッシュに口を挟ませなかった。
 マッシュが言葉を失いエドガーを見つめ、それから視線を落としてエドガーの腹を見る。じっとその中で眠っている命を凝視するマッシュに、エドガーは優しく語りかけた。
「それに、な。父親がお前だから、俺は子供を優先してくれと頼んだんだ」
 マッシュが泣き出す前の子供のように顔を顰める。
「お前は優しくて強い。真っ直ぐに曇りのない愛情で産まれてくる子供を護ってくれるだろう。そして、俺がどれだけお前とこの子を愛しているか……お前なら、余すところなくこの子に伝えてくれるだろう?」
「……でも」
「そしてお前が国を思う気持ちもよく分かっている。お前なら、子供もフィガロも安心して任せられる。……俺の分まで」
「兄貴」
 首を横に振りながら情けなく歪めた眉を垂らすマッシュにエドガーは優しく微笑み、重ねた手でそっとマッシュの甲を撫でる。
「何かあると決まった訳じゃない。万が一の話だ……そう簡単にくたばらんぞ、俺は」
 戯けたような口調でエドガーがウィンクしてみせるが、まだマッシュの表情は晴れない。エドガーは改めてマッシュの手を強く握り締め、不安に揺らぐ同じ色の瞳を覗き込むように顔を近づけた。
「マッシュ。大丈夫だ。俺だってこの子に逢いたいんだ。散々腹を蹴飛ばす足癖の悪い子は一体どんな顔をしてるのかってな」
 そうして力強い眼差しで笑いかけるエドガーを前にして、ようやくマッシュも微かに笑い返した。
「……俺、選びたくないからな」
「ああ。俺だって選ばせたくはない」
「もういっぺん、大丈夫だって言ってくれ」
「……大丈夫だ、マッシュ」
 真っ直ぐに見つめ合い、マッシュはそっとエドガーの手を解いて、その手でエドガーの肩を抱き頭を引き寄せた。
 マッシュに身体を預けてその暖かさを心地良く受けたエドガーは、胸の中で自分に対しても大丈夫、ともう一度念を押した。
 もしもの時が来ると決まった訳ではない。これまでだって辛くとも乗り越えて来られた──腹の中で日々成長を続ける新しい命と同じ世界を生きるために、覚悟は決めたが生を諦めたつもりはない。
 精一杯足掻き、それでも駄目な時にはマッシュがいてくれる。託す相手がいることの頼もしさに胸は熱を抱いて震え、また少し心が強くなる。エドガーは目を閉じ、自分の胸に語りかけた。

 ──大丈夫。大丈夫だ。顔を見て話したいことがたくさんある。
 この世界の美しさ、人を愛することの素晴らしさ……自分の全てを賭けてこの子に教えたい。
 そしてマッシュの隣でこの子を抱き締め、産まれて来てくれてありがとうと伝えたいのだから……