奇蹟 6




 一抹の不安が消えることはなかったが、それでも心穏やかに過ごした数週間。マッシュはあれ以来弱音を吐くことはなく、セッツァーを説き伏せて週に一度は会いに来て、訪れている間はエドガーから片時も離れなかった。
 老医師は二人に子供の成長が順調であることを告げ、いよいよ来週にはいつ産まれてもおかしくない時期に突入すると説明した。よって不測の事態に備えるために、来週から老医師もこの別荘で待機することを申し出てくれて、エドガーとマッシュは一も二もなく了承する。
 ではまた来週と別れを惜しみながら離陸する飛空艇を見送る最中、少し下腹部に嫌な張りを感じたエドガーはいつものことかと騒ぎ立てはしなかった。
 実際飛空艇が見えなくなって、室内に戻り横になっていたら消えてしまう違和感ではあったのだ。


 フランセスカが午後のティータイムにとポットとカップを乗せたトレイを手にエドガーが休む部屋に入った時、エドガーは上半身を起こして神妙な顔つきで時計を睨んでいた。
「エドガー?」
 様子がおかしいことに気づいたフランセスカは手早くトレイをテーブルに置き、エドガーに近寄る。エドガーは険しい表情で深く細い息を吐き、間違いないな、と独り言のように呟いた。
「……ばあや、陣痛が来てる」
 エドガーの言葉にフランセスカがサッと青ざめた。
「十分くらいの間隔で規則的に痛みが来ている……これは陣痛だろう?」
「そんな……ああ、なんてタイミングの悪い……」
 飛空艇が去ってから三時間は過ぎた。そろそろフィガロ城に着く頃だろう。今から伝書鳩を飛ばして更に数時間、手紙を受け取ってすぐ飛空艇がこちらに引き返したとしても、出産の進み具合によっては医師の到着が間に合わない可能性が出てくる。
 エドガーはまたひとつ大きく溜息をつき、傍らのフランセスカに力なく笑いかける。
「仕方がない、自分でやれるだけはやろう……先生からある程度の段取りは聞いている。ばあや、支度を手伝ってくれ」
「……分かりました。エドガー。気をしっかりお待ちなさいね。私もできる限り貴方を支えます」
 フランセスカが握り締めたエドガーの手は小刻みに震えていた。エドガーはフランセスカを見つめ、無理やりに作った笑顔で何度も頷く。
 最後に測った時間からまた十分──エドガーの形の良い眉が顰められ、その表情が苦痛で歪む。腹を庇うように丸められた背中を撫でながら、フランセスカはその役職の名の下に神に祈りを捧げた。
 しかし祈るだけでは何も事態が好転しないことを、彼女は身を持って知っている立場でもあった。



 十分経ち、そこから一分足らずの短い苦痛に耐える、その繰り返し。痛みの波が引けば体を動かすのに支障はないものの、時間が経つにつれ苦痛は大きくなりその間隔も狭まってきていることにエドガーは気づいていた。
 ちらりと時計を見る。陣痛ではと疑い始めてから五時間以上は経った。老医師からは初産の場合出産まで丸一日かかることも珍しくはないと説明を受けてはいるが、果たしてそれが男性の自分にも当てはまるのか、誰にも分かるはずはない。
 そして医師は、来週から正常な出産の周期に入ると告げてフィガロに戻っていった。つまり、このタイミングの陣痛はまだ時期としては僅かとはいえ早いということだ。何か異常が起こったのか、子供は大丈夫なのか。こんなことなら少しの張りでも過敏に反応して飛空艇を呼び止めていればよかった──自分のミスを責め、すぐに今更無意味だと気持ちを奮い立たせ、しかしまた苦痛の時間が来ると不安で胸が潰れそうになり、明らかに混乱している自分をエドガーはうまくコントロールできずにいる。
 落ち着こうと努めるのだが、指先の震えは止まらなかった。出産の知識をつけたとはいえそれは全て書物に書かれた文字の存在で、いざ自分の身体にその瞬間が訪れることを思うと頭が真っ白になってしまいそうになる。とても冷静になどなれなかった。
 フランセスカは普段診察に使っている部屋を素早く整え、時折弱さを覗かせるエドガーを懸命に励ました。辛い時間が続くことになるが、初期の陣痛が長引けば長引くほど医師が間に合う可能性が高くなる、きっと間に合う──フランセスカの言葉に頷きはするのだが、すでに痛みが襲ってきている間は額に脂汗が滲むほどで、これが長く続くと言うのはとても喜ばしい状況とは思えなかった。
 気を抜けば指先どころか全身が震え、絞り出したなけなしの勇気を削り取られるような感覚がエドガーを縛りつける。これが恐怖か、とあえて魔物の正体を受け入れることで不安を和らげようと試みるのだが、子供のこと、自分の身体のことを考えてしまうと震えは止めようもなく、大きすぎる敵にどう対抗して良いか分からずただただ時をやり過ごしていた。
「エドガー、大丈夫ですよ。不安になるのは当たり前です。でもその時が来たら覚悟を決めざるを得なくなる。貴方のお母上もそうして貴方達を世に送り出したのだから」
 苦痛の狭間に訪れる束の間の休息を楽しむ余裕もなく、渡されたお茶をただの水分補給として口に含んだエドガーは、ふいに語り出したフランセスカの言葉にようやくまともに反応した。
「……母上も……」
「そうですよ。今の貴方よりずっと若く、小さな体でした」
 エドガーは小さく息を呑み、絵画でしか記憶のない母の姿を思い浮かべる。
 まだ十六の少女が二人の皇子を産むということがどれほどの重責であったか、エドガーは今身を以て実感している。城の医師がサポートし万全の体制で迎えたお産であったはずだが、それでも母は短すぎる生涯を閉じた。母の無念を想像すると背中がヒヤリと冷える。体格も体力も自分とは比較にならないだろうことを考慮しても、尚纏わりつく不安がまた増長する。
 表情が強張ったエドガーを見て、フランセスカは控え目に微笑んだ。
「でも、クリステールは、貴方達も……お腹の子たちも出て来ようと頑張っているからと、一緒に頑張るんだと言って必死に役目を果たしたのです」
 エドガーはハッとして思わず自分の腹を見下ろした。
「狭い産道を通る赤ん坊の苦痛は母親に勝るとも劣らないとか……。貴方達のためにクリステールは立派に耐え抜きました。貴方達の顔を見たクリステールの嬉しそうな顔と言ったら……今でも忘れられない。エドガー、貴方には母上の加護があるはず。大丈夫ですよ」
「……ばあや」
 フランセスカの微笑みにエドガーは思わず鼻の奥がジンと痺れたような熱を感じ、何度も瞬きしてその熱を散らそうとごまかした。そして腹に触れ、愛おしげに軽く撫で、小さく頷く。
「ありがとう、ばあや……。私も、この子と一緒に頑張れそうだ」
「ええ、一緒に……、……?」
 ふとフランセスカが顔を上げて振り返る。視線の先は窓の外、エドガーも釣られて同じ方向を向くが、目よりも先に耳がフランセスカを反応させた音を捉えた。
 遠くから響いてくる聞き慣れた音。エドガーはフランセスカが窓を見た理由を理解した。思わず立ち上がり、フランセスカに支えられながら窓に近寄って──広がる青空の中、肉眼でも見える距離に確かにこちらに向かってくる飛空艇を認めて目を見開き、フランセスカと顔を見合わせる。
 伝書鳩は確かに飛ばしたが、それにしても着くのが早すぎる。何故、と驚いている間にみるみる近づいてきた飛空艇はいつもの場所に離陸し、中からマッシュが走って屋敷に向かってくるのが見えた。その光景を前にエドガーの足からは力が抜け、思わず床にへたり込む。時を同じくして痛みが再開しそのまま腹を押さえた。
「兄貴!」
 自分を探すマッシュの声が聞こえてくる──返事をしようとしたがうまく声が出ず、エドガーは請うようにフランセスカを見た。
「マッシュ、こちらです!」
 エドガーに寄り添うフランセスカが声を上げると、どたどたと慌ただしい足音とともに息を切らせたマッシュが乱暴に扉を開けて部屋に飛び込んできた。そして座り込むエドガーを見つけて顔色を変えて駆け寄ってくる。
「兄貴、大丈夫か!」
 マッシュに抱き起こされ、その太い腕に頭を乗せたエドガーは安堵の溜息をついた。
 続いてマッシュの後から走ってきたらしいセッツァーと老医師が現れ、二人が状況に気づいてハッとした顔を見せた。老医師は即座にエドガーに近寄ってその手首を取り脈を確認する。
「陣痛が始まっているみたいで」
 フランセスカの口入れに、医師は壁に掛けられた時計を見上げて尋ねた。
「いつからですか」
「……少なくとも、五時間以上、は」
 ようやく声の出たエドガーが答え、そして大きく息を吐いてマッシュにしがみついた。ぎゅっと肩を強く抱かれて不安が解れていくのを感じたエドガーは、そのまま目を瞑って痛みをやり過ごす。
 その様子を一歩後ろから見守っていたセッツァーが、感心したように溜息を零して口を開いた。
「すげえな……当たりかよ。双子の勘ってヤツか」
 その言葉の意味が分からずエドガーが顔を上げると、セッツァーは肩を竦めてマッシュを指差した。
「こいつがもうすぐフィガロに着くって頃に騒ぎ出したんだよ。嫌な予感がする、兄貴に何かあった、ってな。またずるずる長引くから今度にしろっつったんだが、あんまり騒ぐからな……引き返してきた」
「絶対何かあったと思った……昔からそうだったろ? 兄貴に何かある時は俺も凄く嫌な感じになる。戻ってきて良かった……兄貴、よく頑張ったな」
 マッシュは心配そうに、しかし優しさを湛えた笑みでエドガーの顔を覗き込み、エドガーもまた弱々しくはあったが微笑み返した。
「とにかくお産の進み具合を確認しましょう。診察します」
 老医師の言葉に頷いたマッシュはそのままエドガーを抱き上げ、エドガーもまた完全に身体をマッシュに預けた。──マッシュが来てくれた。マッシュが傍にいてくれる。
 力強い腕の中で、あれほど心を支配していた恐怖が胸の中で小さく萎んでいくのを実感し、エドガーはその安心感から思わず零れそうになった涙を必死で堪えた。



 何度か医師の診察を挟み、当初は十分近くあった痛みまでの間隔がじわじわと短くなって、今やエドガーは五分おきには苦痛で顔を歪ませベッドの上で歯を食い縛っていた。
 個人差が大きいとは言え、平均的な初産婦に比べてお産の進みが早めであるとの医師の言葉に、もしあの時引き返して来なかったらと最悪のパターンを想像したマッシュはゾッとし、今もまた痛みに苦しむ兄の背中や腰をひたすら撫でさする。
 この痛みが最大まで強くならなければ子供が産まれて来ないと聞かされたマッシュは気が遠くなりかけ、すでにこれだけ苦しんでいるエドガーが更に苦しむ姿を見なければならないことに愕然としたが、それが辛いのは自分ではなくエドガーなのだと気持ちを奮い立たせた。
 ふとエドガーが横になっていた体を起こしてふうと大きく息をついた。マッシュが支えようとしたのを軽く上げた手で制し、汗で貼り付いた前髪を掻き上げる。
「大丈夫か?」
 マッシュの問いかけにエドガーは薄く笑い、ただ黙って頷いた。それからサイドテーブルに置かれた一口サイズのカットフルーツを溜息をつきながら口に押し込む。長丁場で体力勝負になるから無理にでも食べなさいとフランセスカが用意したものだ。エドガーに食欲があるようには見えなかったが、子供のために義務として咀嚼し飲み込んでいるのだろう。二口分を摘んだエドガーはまた深く息を吐く。
「兄貴……」
 なんと声をかければ勇気づけられるのか分からず、マッシュはただエドガーの手を握った。エドガーは顔を上げ、疲れた表情で微かに笑う。
「……大丈夫だ。お前が、来てくれたから」
 エドガーはマッシュの指を握り返し、マッシュの肩にトンと頭を乗せた。起きたり横たわったりを繰り返しているため結った髪は乱れているが、金糸のような長い髪が胸に垂れ落ちる様が綺麗だと思わずマッシュは見惚れ、そんな場合じゃないと首を横に振る。
「なあ、マッシュ」
 エドガーの呼びかけにマッシュは若干上ずった声で何だい、と答えた。エドガーがマッシュの指を握り締める手に力を込める。
「お前はいつだって俺のやることを黙って見守ってくれたな。子供の頃からそうだった……。でもここぞという時は必ず声に出して応援してくれた。そうしたら俺はいつも以上の力を発揮できた。アントリオンを倒した時だって……だから」
 エドガーは頭をマッシュの肩に乗せたまま顎を上げてマッシュを見上げ、懇願するような目で笑った。
「頑張れって、言ってくれ」
 力強い口調ではあったが、青い瞳が不安に揺らいでいるのはマッシュにも見て取れた。いつも困難を前にしても怖気付くことのない兄が、自分だけの力では乗り切れないことを主張している。
 マッシュは僅かに眉を下げ、それからエドガーの肩を強く抱いて言った。
「……頑張れ、兄貴」
「ああ」
 辛い思いをしているエドガーに、無責任に頑張れなどと声をかけるのを躊躇していたことを見透かされたのだろうか──マッシュはもう一度小声で頑張れ、と呟き、エドガーの乱れた髪を整えるように撫でた。
 その時再びエドガーが背中を丸め、また襲って来たらしい痛みを堪える体勢を取る。マッシュは慌ててエドガーを横たわらせ、腰をさすってくれ、と頼まれるがままに懸命にさするのだが、エドガーは黙って首を横に振った。求められていることが分からず狼狽えている時、
「それじゃダメですよ」
 頭上の声を見上げればトレイを手にしたフランセスカが立っていた。
 フランセスカはトレイをサイドテーブルに置くと、マッシュの手を取ってエドガーの腰のやや下に誘導し、拳を作るよう指示する。
「そこ、強く押してあげなさい」
「え、ここ? 拳で?」
「いいから早く、貴方は力が有り余っているでしょう」
 フランセスカにぴしゃりと言い放たれたマッシュが半信半疑の顔で、エドガーの腰に拳を当ててぐっと力を込める。するとエドガーの苦悶の眉間からふっと皺が消え、心地良さそうに表情が和らいだ。
 フランセスカは頷き、トレイに乗せていた冷たく濡らしたタオルでエドガーの額や首筋の汗を拭い始めた。
「しばらくそうしててあげなさい。おろおろして情けない。貴方がどんと構えないでどうするのです。エドガーに不安が移ります、落ち着きなく狼狽えてはいけません」
 フランセスカの厳しい口調に、面目無いとマッシュが頭を垂らす。確かにフランセスカの言う通りだが、この状況で落ち着いていられるほどにマッシュの心は鋼ではない。
 大きな背中を丸めてエドガーの腰を押すマッシュの隣で、フランセスカは溜息をついた。
「全く、身体ばかり大きくなって。……あの日のステュワート様そっくりだこと」
 マッシュの顔が赤くなる。苦痛の中でエドガーも思わずふわりと微笑み、それから腹に手を当てて祈るように目を閉じた。