奇蹟 7




 飛空艇が引き返してきた頃にはまだ高い位置にあった太陽はとっくに沈み、最初は陣痛の合間に話したり動くことができていたエドガーも今や息も絶え絶えに小さく唸り声を上げるのみで、時折腹に力を入れる素振りを見せては医師に止められることが増えていた。
 もう少し我慢してと言われてから相当に時間が経っているように感じるが、素人のマッシュが口を挟めるはずもなくただエドガーを励ますことしかできない。あとどのくらい続くんだとぽつりと零したマッシュに、
「……クリステールは丸二日苦しんでいたわね」
 エドガーの耳には入らない場所でフランセスカが曇った表情で呟き、マッシュは祈るように手を組んで嘆息するしかなかった。
 時計の針は更に進み間も無く日付が変わろうという頃、それまで懸命に声を押し殺していたエドガーが悲鳴じみた呻きを漏らし始め、下腹部を確認した老医師が目を光らせて頷いた。
「エドガー様。次に痛みの大きな波が来たら全力で息んでください」
「息……む……?」
 すでに朦朧とした顔で聞き返すエドガーに医師は再び頷く。
「もう我慢しなくて良いのです。御子様はすぐそこまで降りて来られている」
 医師の言葉を耳にしたフランセスカはマッシュとは反対側のベッドサイドに回り、エドガーの手を握り締めて耳元に囁きかけた。
「エドガー、私の手を握り潰しても構いません。あと一息ですからね」
 エドガーは言われている意味が分かっているのかいないのか、苦悶に眉を寄せたままただ小刻みに首を縦に振った。
 フランセスカは次いでマッシュを見やり、鋭い視線で目配せする。状況について行けずにいたマッシュは慌ててもう片方のエドガーの手を取り、緊張のせいかすっかり冷たくなっている指を包んだ。
「兄貴、……頑張れ。もうちょっとだ」
 その呼びかけにエドガーはマッシュの方へ僅かに顔を向け、また小さく首を動かす。それが点頭と判断できないうちに再びエドガーの顔が歪み、頬に力が入って歯を食い縛ったのが分かった。
「エドガー様、息んで!」
「うっ……」
 エドガーの顔が見る見る朱に染まり、マッシュの手に爪がめり込むほどに力を込めて数秒、やがて口から叫び声が漏れると同時にふっと指から気力が抜けていき、エドガーは何度も首を横に振った。
「どう、力を入れていいか、分からない」
 喘ぎながらの訴えに医師は簡潔に言い放つ。
「声を上げてはなりません。力が抜けてしまう。痛みが来るまではしっかり呼吸して。子供に酸素を送らなければ。痛みが来たら下腹に力を込めて押し出すのです。できるだけ長く!」
 エドガーはすでに頷くこともできずにただ酸素を取り込もうと口を開け、強張った表情で血走った青い目だけを忙しなく動かしていた。迫り来る激痛の波に怯えているような、初めて見る兄の痛みへの戸惑いにマッシュは何と声をかけたら良いか分からず、ただ青白い指を握ることしかできない。
 再び訪れたそのタイミングでエドガーが堪え切れず悲鳴を上げる。
「声を出さないで!」
 医師の怒号のような指示にエドガーは無理矢理に口を閉じ、噛み合わせた歯が削れたかと錯覚するような耳障りな歯軋りに加えて苦痛の唸り声が漏れる。
 全身に力を込めるがままにきつく目を瞑ったエドガーから、またふっと力が抜けた。その途端、横からフランセスカが怒鳴る。
「エドガー、目を開けなさいっ!」
 ハッとして目を見開いたエドガーは何度か瞬きして荒く息を吐き、泣き出す寸前のように眉を寄せたその額から流れた汗がこめかみを通り過ぎていった。気を失いかかったのだとマッシュが理解するまで多少の時間を要した。
 痛みのピークで力を入れなければならないと恐らく頭では分かっているのだろうが、身体は自然と自分を庇い力を込めるどころか苦痛を散らそうとしてしまう。何度もエドガーは叫び声を抑え切れずに息みのタイミングを逃し、その度に明らかに体力が奪われて集中力も欠けていく様を見守るのみのマッシュはもどかしく唇を噛む。
 息みの許可が出てから一時間以上の時間が経過した頃、ついにエドガーの口からもう無理だ、と泣き言が零れた。
「しっかりなさい、エドガー! 貴方だけでなくお腹の子供も頑張ってるのよ!」
「エドガー様、もう一踏ん張りです! 頭は見えておりますぞ!」
 フランセスカと老医師の檄が飛び、混乱した表情のエドガーがまるで助けを求めるようにマッシュを見る。マッシュは躊躇い、自分の無力さに苛立ちながらも、この想像もできない苦しみからエドガーを解放する方法はただひとつしかないことを理解していた。
「……兄貴。頑張れ……!」
 押し殺した声で祈るように懇願したマッシュを目にしたエドガーは、繰り返していた浅く短い呼吸を一度区切って思い切り息を吸い込んだ。そしてマッシュとフランセスカの手を爪を食い込ませながら握り締め、鬼気迫る形相でまさに力を振り絞るように息みの体勢を取る。
 噛み合わせた歯の隙間からまた獣じみた唸り声が響き、傍で見守る三人も同じように息を止めて体に力を込める。これまでならすでに諦めて力を抜いていた頃になってもエドガーは耐えた。漏れた声が噛み締めた歯をこじ開けて絶叫に変わった瞬間、目を見開いた医師が「力を抜いて!」と怒鳴る。
「浅く呼吸して、力を入れないで! そう、焦らないで、そうです……!」
 エドガーの顔は苦痛のままだったが、もう力を入れなくて良いという指示にほんの僅かの安堵もその目に垣間見えた。
 ぐったりとしたエドガーの両脇でマッシュとフランセスカが固唾を飲んで見守る中、医師が差し伸べた手の中にずるりと血に塗れた小さな身体が産み落とされた。抱えられて数秒後、ほわ、と動物の鳴き声のような産声が室内に響き渡り、マッシュとフランセスカは目を見開いて顔を見合わせ、そしてエドガーを見て喜びに唇を震わせた。
「兄貴……兄貴! よく頑張ったよ、よく頑張った!」
「ああ、エドガー! 産まれましたよ、聞こえますか! 本当に……よく頑張りました……!」
 マッシュとフランセスカの声にゆったりした瞬きだけで反応したエドガーは、それまで息みで真っ赤になっていた顔から血の気が引いたような青い頬で、マッシュに握られている指を弱々しく動かした。
「顔……、見たい……、見せ、て……」
 何度も叫んだせいかガラガラに掠れた声での願いに、医師がまだ血だらけの体で頼りなく泣いている赤ん坊をエドガーに見える位置に差し出した。血でべっとりと張り付いてはいたが、医師が気を利かせて掻き分けたささやかな頭髪は紛れもなく金色で、ほにゃほにゃと泣くその顔は皺だらけで面立ちがはっきりしなくとも、慈愛を込めた眼差しを一心に注ぐエドガーの両眼は潤んで青い表面が震えていた。
 マッシュも目を細めてこの世に生を受けたばかりの我が子を見つめ、男の子だ、と呟く。その言葉を拾ったエドガーもまた微笑した。そしてごく小さな消え入りそうな声でマッシュの名を呼んだ。
 マッシュが声を拾おうと顔を近づけた時、青ざめるのを通り越して真っ白に近い顔色になっているエドガーに気づいて胸がざわりと騒ぐ。
 エドガーは霞でもかかっているかのようなぼんやりとした瞳で力なく笑い、その反動で眦からころりと雫が零れ落ちた。
「マッシュ……、後、頼む、な」
 途切れ途切れにそれだけ口を動かしたエドガーは、そのまま静かに目を閉じた。そうしてピクリとも動かなくなったのを認めたマッシュは全身が総毛立つような寒気を感じ、思わずエドガーの肩を掴む。
「……あにき」
 呼びかけに反応はない。乾き切ったエドガーの唇が紫色に変色しているのを見たマッシュが愕然と目を見開く。
「兄貴!!」
 その声に老医師も、医師から柔らかなタオル越しに赤ん坊を受け取っていたフランセスカも振り向く。医師が即座に駆け寄りエドガーの手首を掴んだ。それから慌ただしく持参していた鞄をひっくり返し、あれこれと器具を取り出しながら出血が多すぎる、と吐き捨てた。
 マッシュは元は白だったと言われなければ分からないほど真っ赤に染まったベッドの下半分を見て、そして生気のないエドガーを見やり、がくがくと震える指でエドガーの肩を掴んで揺すった。何度呼ぼうともエドガーが言葉を返すことも、ましてや目を開くことすらなく、マッシュは今にも泣き出しそうな顔で首を横に振る。
 医師が器具のひとつを床に叩きつけた。
「準備が足らん! こんな急でなければ……!」
 苛立ちを隠さない医師を振り返ったマッシュは、震える声で先生、と呼びかける。
「なあ、俺の血……やれないかな……、俺なら、有り余ってるんだよ……、なあ、先生」
 マッシュの懇願に苦々しく顔を顰めた医師だったが、その表情がふっと何かに気づいたように晴れた。そしてマッシュをもう一度見て、「それだ」と呟く。
「手荒いですが……できなくはない。しかも貴方はエドガー様の双子の弟……これ以上ない適合者だ」
「……できるのか……?」
 医師は再び広げた器具を漁り、その中からチューブを手にしてフランセスカに向かい怒鳴るように問いかける。
「神官長様! 漏斗のようなものはありませんか、できれば金属製がいい! 急いで消毒を!」
 フランセスカが赤ん坊を抱いたまま飛び上がって狼狽えた。マッシュは奪い取るようにフランセスカから赤ん坊を受け取り、離れた部屋で全てが終わるのを待っているセッツァーを大声で呼ぶ。
 やがて飛んできたセッツァーが事態を飲み込めないまま赤ん坊を預かり、フランセスカが大急ぎで用意した漏斗に医師がチューブを取り付けその先端をエドガーの腕の血管に差し込んだ。簡易的な輸血用具と共にベッドの傍らに立たされたマッシュは、躊躇いなく漏斗に向けて腕を差し出す。
「マシアス様、血液の凝固を防ぐためある程度の勢いをつけて血を流し込まねばなりません。貴方のお身体の負担になる前に止血は行いますが、」
「いいから早くやれっ!」
 説明を遮り鬼の形相で怒鳴ったマッシュを前に、老医師もまた覚悟を決めたように頷いて、失礼、と一声かけた後に鋭いメスでマッシュの肘の動脈を切りつけた。眉ひとつ動かさないマッシュの肘から鉄砲水のように鮮血が噴き出し、漏斗に吸い込まれていく。
 セッツァーの腕の中で思い出したように泣いては口をぱくぱくと動かす赤ん坊と、耳障りな音を立てる時計の針だけが、張り詰めた空気の中で動きを許される存在となっていた。





 ***





 不思議な音がする。これまで聞いたことのない音だった。柔らかく心地の良いこの響きは、音というより声なのだと少しずつ覚醒しつつある頭で理解し始める。
「まいったな、起きたか?」
 独り言のように呟く低い声は聞き慣れた愛しい人のもので、自然と口元が緩んだ。
 ほわほわと響く奇妙な声が泣き声なのだと分かる頃には、薄っすら睫毛の隙間から視界が開き始めていた。どうすりゃいいんだ、困ったな、とぶつぶつ零す男の横向きのシルエットと、その包帯を巻いた腕の中で何やら小さな存在が可愛らしい声を上げている。
 弱り切った横顔が愛おしくて、そしてその腕が抱えているものをもっと近くで見つめたくて、声を出そうと口を開けた。カラカラに貼り付いた喉からは掠れた息が漏れるのみでうまく音にならない。
 体を起こそうと腕に力を込めようとしたが、指先がシーツを擦るのみでまるで言うことを聞いてくれなかった。かろうじて頭をほんの少しずらし、心の中で名前を呼ぶ。──マッシュ。マッシュ……
 ふと横顔が弾かれたようにこちらを向いた。そして青い目を大きく広げて、まだ泣き声を上げている小さな命を危なっかしく抱いたまま駆け寄ってきた。落とすのでは、と思わず不安になったが、ベッド傍に膝をついたマッシュとその手が支える赤ん坊が横たわる体と同じ目線になり、一瞬泣き止んだその子が薄っすら開いた瞳に鮮やかな青を見たエドガーは泣き笑いのような顔になった。
「兄貴……」
 マッシュもまた眉を垂らした情けない表情で微笑み、片腕と膝で子供を支え、空いた手でエドガーの額に触れる。優しく前髪を掻き上げて、頭を撫でた手をそのまま頬に当てた。その手の暖かさを直に受け、エドガーはようやく自分が生きてこの場にいることを実感する。
「よく……頑張ったな……。まだ、無理はできないけど……でも、もう大丈夫だって先生が」
「……シュ」
「ん?」
「……こど、も、元……気、か」
 無理矢理に声を出すとかろうじて音になり始めた。マッシュは頷くと軽くエドガーの布団をめくり、腕の中の子供を辿々しく左隣に寝かせてくれる。一度ふあ、と小さな声を上げた赤ん坊は、何かを食むようにゆったり口を動かしながらエドガーの肩に顔を寄せて大人しくなった。
「やっぱ俺より兄貴の方がいいか」
 マッシュが苦笑しつつ、それでも実に嬉しそうに穏やかな眼差しでエドガーと赤ん坊を見つめる。エドガーも肩に触れる柔らかで温かいものを眩しそうに眺め、ふわふわと緩く波打つ金色の髪やまだぱっちりとは開かない瞼の隙間に覗く碧眼に目を細めた。
 腕を伸ばして触れてみたかったが、全身に重りを括り付けられたかのように身体が怠くて動かすことができない。何から尋ねれば良いのかとほんの少しの戸惑いを見せたエドガーに、マッシュは静かな声でひとつひとつ欲しい答えをくれた。
「あれから丸二日近く寝てたよ。出血が多くて、一時は本当に危なかった……。まだ貧血が酷くて自由に動けるようになるには時間がかかるみたいだけど、少しずつ元通りになるって先生が言ってた。子供は元気だよ。ばあやがミルク飲ませてくれてる。よく飲んでるって。俺も、ちょっとやってみたけど……難しくてへたくそって怒られた」
 エドガーの顔が綻ぶ。マッシュも照れ臭そうに笑い、それから切なげに眉を寄せて、床に膝をついたまま軽く腰を浮かせて身を乗り出す。子供を越えて近づいてきた顔にエドガーも目を伏せ、乾いてカサついている唇が優しく塞がれるのを受け止めた。
 触れるだけの口づけの後、エドガーの額に自らの額を軽く合わせたマッシュは、ありがとう、と掠れた声で呟いた。
「戻って来てくれた……。兄貴。ありがとう……ありがとうな……」
「マッ、シュ……」
 鼻先を擦り寄せてから名残惜しげに離れたマッシュは、赤くなった目尻を下げてエドガーの隣で落ち着いている赤ん坊を見る。
「困ってたんだ。名前、どうするのか全然話してなかったから。みんなこの子をどう呼んでいいか分からなかったんだよ」
 兄貴、何か考えてた? ──尋ねるマッシュにエドガーは微笑み、布団の中で右手を動かす。毛布が揺れたことに気づいたマッシュが左サイドから右側へとベッドを周り、蠢くエドガーの手を取った。エドガーはマッシュの手のひらに人差し指を当て、R、e、g、u、l、u、sと文字を綴る。
「……レグルス?」
 聞き返したマッシュに目を細めることで応え、エドガーが囁くように告げた。
「……小さな王、という、意味、だ」
「小さな王、か……」
 マッシュが産毛のような髪を撫でると名前を与えられたばかりの赤ん坊はふあと泣き、空腹なのか口を開けて何かを探すように身動ぎを始めた。
 その様子をエドガーとマッシュは愛おしげに見つめ、レグルス、と優しく呼びかけた。