Reincarnation




*Winter*



 窓から覗くどんよりとした空からは大粒のぼた雪が降り、積もりそうな気配を感じたマッシュはカウンターに肘をついて小さな溜息をついた。
 生まれ育ったこの国は冬が長い。雪に沈む街が白に染まる景色はとても美しいものだけれど、鼻の奥が軋むほどの凍てつく空気が支配するこの季節は、妙に心が鬱々としてマッシュはあまり好きではなかった。
 窓の外を見ていても行き交う人は疎らで、時計を見上げたマッシュはそろそろ店じまいかと鈍った身体を大きく伸ばし、ショーケースを確認する。売れ残ったケーキは二種類のみでひとつずつ。この天気の割には流石の売れ行きだった。
 次いで店の脇に置かれた大人の背丈を見下ろすほどのツリーを眺め、枝に飾られているオーナメントをモチーフにした大量のクッキーに溜息をついた。
 師匠のケーキの人気に比べて新米の自分の商品はまだまだ飛ぶように売れるとはいかないが、修行あるのみだ──自分に言い聞かせるように握った拳を胸に当て、気持ちを切り替えたマッシュがショーケースのケーキを下げようとした時、入り口のベルが鳴った。
 ドアを押して涼しげな表情で店内に入って来た青年を見て、マッシュは一瞬心臓が震えるような衝撃を受けた。──背中まで届く長く美しい金髪に青い瞳。何処かで、と頭を巡らせハッと気づく──どちらも自分と同じ色だ。背格好は違うが不思議と顔立ちもよく似て見えた。
 入り口で肩の雪を払い落とした青年は品の良い微笑を浮かべ、軽く首を傾げながら「もう閉店かな?」と尋ねて来た。慌てて首を横に振ったが、残っているのは二種類のケーキのみ。
「もう今日はこれしか」
「そうか、少し遅かったな……おや」
 残念そうに店内を見渡した青年がふとツリーに目を留め、ぶら下がっているベルの形のクッキーを手に取る。
「可愛らしいな。オーナメントか」
「あ、それは……」
「これは売り物ではない?」
 流し目のようなやけに色気のある目線を寄越され、思わず頬が熱くなるのを感じながらも再び首を横に振る。何だかこの青年の目は以前にも見たことがある気がする。
「俺が焼いたんだけど、たくさん売れ残っちゃって」
「君が焼いたのか。ふふ、見た目と違って可愛いものを作るんだな。何のクッキー?」
 見た目と違って、の件が引っかかるが、確かに人並み以上に身長が高い自分はよくケーキ屋らしからぬ威圧感があると言われているので仕方がないだろう。
「ジンジャークッキーだよ」
 ピク、と青年が一瞬不自然に動きを止めた。青年は薄く唇を開いて数秒押し黙り、すぐに笑顔でツリーに飾ったクッキーをひょいひょいと外し始めた。
「好物だ。残ってるの全ていただこう」
「あ、ど、どうも」
 慌ててマッシュはカウンターを越えて青年に並び、外したクッキーを紙袋に入れていく。下の枝からクッキーを取るため腰を屈めた青年が立ち上がった瞬間、ふわっと彼の髪から甘く立ち込める花のような香りを感じて胸がざわりと騒いだ。何の香りかは分からないが、酷く鼻腔に馴染む心地良い香りだ、とマッシュは不自然な反応を隠すために指で鼻の下を擦る。
 紙袋を渡すべく向かい合った時、見上げられた青い瞳の色が自分と瓜二つで息を飲んだ。確かに初めて会ったはずだが、まるでそんな気がしない。鏡を見ている感覚に近いのだろうか? 強く漂う奇妙な親近感にマッシュは首を傾げた。
「あんた、……名前は?」
 気づけば口が勝手に尋ねていた。すぐにハッとし、お客様に不躾な質問をしてしまったと慌てて口を手で押さえたが、青年は気を悪くした様子もなく艶やかに目を細めて答えてくれた。
「エドガー」
 その名を聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けるような音を聞いたような気がした。
 エドガー、と口の中で小さくその名を繰り返しながら──マッシュは泣きたくなるような懐かしさが理解できずに眉を下げた。
 手渡した紙袋を大事そうに受け取ったエドガーは、代金を支払い満足げに微笑んで、マッシュに小さく挨拶をしてから店を出るべく踵を返した。名残惜しさが募ったが、閉店間際にふらりと立ち寄った客を引き留める理由もなく、マッシュは頭を下げてカウンターへと戻って行く。
 そこで見送るつもりが、エドガーが潜ろうとしたドア付近の天井からぶら下がっていたクリスマスのディスプレイが彼の艶やかな金髪を絡め取ったのを見て、マッシュは小さな声を上げ急いで駆け寄った。
「おや」
「ごめん、じっとして」
 引っかかった箇所を丁寧に解く。絹糸のような髪が痛まないよう少しずつ解いたために時間がかかったが、エドガーは何も言わずに黙って事が終わるのを待っていた。
 ようやく解放された髪を指からするりと落としてマッシュがふうと息をつくと、エドガーが軽い調子で笑った。
「ありがとう。伸ばし放題にしているからよくいろんなところに引っかかるんだ」
 自分ほどではないがエドガーもかなりの長身で、この高さのディスプレイが身体に触れた客は彼が初めてだった。よく引っかかると言う割には実に指通りの良い美しい金髪に少しの間見惚れて、何かを思いついたマッシュが少し待ってと手の仕草でエドガーを留める。
 カウンターに戻ってラッピング用のリボンを覗き込むと、クリスマスシーズンでよく選ばれる赤と緑のリボンの隣にある、金のラインが入った紺碧のリボンが目を引いた。手に取って程よい長さに切り、不思議そうに見ているエドガーの元に戻って、背中まで届く長い髪を手でひとまとめに束ねて緩めにリボンを結びつけた。
 エドガーが小さく後ろを振り返り、見えてはいないだろう背中に視線を向けて眉を持ち上げる。そして軽やかに頭を振って何か面白いものでも見つけたかのように笑った。
「へえ」
 その仕草が無性にマッシュの胸を掻き乱した。




 靴音の響く鉄階段をゆったりと登り、古びたアパートの扉を開くと蝶番の音が耳障りに鳴った。
 薄暗い室内は必要最低限の灯りしかついておらず、鬱々とした空気に溜息をついたエドガーは部屋の隅で退屈そうにカードを並べているルームメイトをちらりと見る。
「灯りを増やしても?」
 尋ねると左目を斜め上から横切るような傷痕のある銀髪の男が顔を上げ、どうぞと手のひらを振って示す。エドガーがスイッチに触れると部屋には明るさが訪れ、口から自然と安堵の息が漏れた。
 大切に抱えていた紙袋をテーブルに置くと、ガサガサとした紙音に気づいたルームメイトが目敏く視線を向ける。
「何だそれ」
「ああ、甘いものが欲しくてね」
 曖昧に答えることで彼から興味を削ぐ予定だったのだが、反して男はカードを手放し近づいてきた。コートを脱ぐエドガーの後ろで紙袋を勝手に開いて覗き込む。
「へえ、また可愛いクッキーだな、デカイ図体して似合わねぇ」
「セッツァー、君の分はないから手をつけるなよ」
「こんなに大量に買い込んで?」
「全部私のだ」
 セッツァーと呼ばれた男はハッと鼻で笑って紙袋を軽く放るようにテーブルに戻した。その乱雑な扱いに眉を顰めつつも何も言わず、エドガーは髪に結ばれたリボンに手を伸ばす。その仕草でようやく普段と違う髪型のエドガーに気づいたセッツァーが、眉を持ち上げて乾いた笑いを漏らした。
「なんだよその頭」
 長い金髪を結ぶ青いリボンを揶揄うように指差すセッツァーを気にすることなく、エドガーはぽつりと呟く。
「天使にもらった」
「はあ?」
 頭でも沸いたか、と完全に小馬鹿にした様子のセッツァーを無視して、エドガーは紙袋から一枚クッキーを取り出し狭いキッチンへと向かった。
 湯を沸かしながら一口ジンジャーマンの頭を齧ると、スパイシーなジンジャーの風味が鼻を抜けていく。何処か懐かしい味だった。あの大きな手で随分と可愛らしく作るものだ、と先ほど出会った店員の姿を思い出して顔が綻ぶ。
 客に対して粗雑な言葉遣いで軽々しく話しかけてくるあの態度が、不思議と少しも嫌ではなかった。咄嗟に髪をリボンで結ばれるだなんて、思いがけなさが過ぎて可笑しくなってくる。
 何故だか初めて逢った気がしなかった。厳つい身体をしているのに雰囲気が柔らかく人懐こそうで、自分と同じ色の髪と目を持ち、おまけに酷く優しい眼差しの──そう、随分と詩人だと我ながら自嘲してしまうが──天使のような男だった。



 *



 年が明けて新年の浮かれ気分が少しずつ落ち着き、何の変哲も無い日常の空気が流れ始めた風の冷たい夕方に、彼の人は再び現れた。
 カラン、とドアに取り付けられたベルが鳴る音に弾かれるように顔を上げたマッシュは、立てたコートの襟が倒れないよう手で押さえながら店内に入ってきた長身の青年を認めてあっと口を開けた。
 以前マッシュが焼いたジンジャークッキーを残らず購入したエドガーが、冷えた外気に晒されていた頬を赤く染めて柔らかく微笑みかけてきた。
「やあ」
 耳に心地よく響く挨拶に分かりやすく頬を緩めたマッシュは、いらっしゃいませと形だけは店員として声をかけたが、それから後は気もそぞろにエドガーを見つめてしまう。
 初めて来店した時クリスマスのディスプレイに引っかかった長い髪は、あの日マッシュが結んだ青いリボンで再び纏められていた。すぐにそのことに気付いたマッシュが驚いて瞬きをする。
「そのリボン……」
「ああ、これか。気に入ってしまってね」
 何でもないことのようにさらりと返すエドガーに対し、マッシュは戸惑いに眉を下げた。
「でも、それ包装用の……」
「柔らかくて結びやすいんだ」
 艶やかで質の良い髪に包装で使うリボンを結ばせていることが申し訳なくなり、マッシュは困ったように頭を掻く。
「そんな適当なので結んで悪かったな」
「ん? 気に入ってると言ったはずだよ」
 戯けたように眉を上げながら軽く首を横に振るエドガーの仕草に思わず見惚れたマッシュは、ショーケースを覗き込んだエドガーの肩から金髪の束がさらりと落ちた動きにハッとしてまた頭を掻く。独特の雰囲気がある人だな、とやけにうるさい心臓の音を気にしていると、エドガーが端から端まで並んだケーキや焼き菓子を品定めしてから軽く小首を傾げた。
「もう、ジンジャークッキーは置いていない?」
「えっ」
 不意の問いかけに動揺してすぐに返答できなかったマッシュは、改めて尋ねられた言葉の意味を考えることから始めて、そして申し訳なさそうに頷いた。
「あれはクリスマス用に焼いたやつで……、今は置いてないんだよ」
「そうか、とても美味しかったんだが。では、君が焼いたものはここにあるかい?」
 思いがけない質問にマッシュは驚き、苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「俺、見習いだから。あんまりうまくなくてさ……、クリスマスのジンジャークッキーだけは師匠に合格点もらえて店に置かせてもらったけど、他は全然……まだ修業中なんだ」
 マッシュの言葉を優しい眼差しで聞いていたエドガーは、残念そうに肩を下げた。
「そうなのか……。あのクッキーは本当に美味しかった。何だか懐かしい味がしてね。君の作った菓子をもう一度味わいたかったんだが」
「そんなこと言われたの初めてだよ。嬉しいけど……」
 頬を赤らめたマッシュが落とした視線の先、ショーケースの中には自身が作った菓子はなく、どう言葉を返したら良いのか分からずに黙り込んだその目の前で、エドガーがふふっと口角を上げる。その品の良い微笑みは不思議とマッシュの胸を高鳴らせ、いつまでも見ていたいような魅力があった。
「困らせるのは本意ではないな。今日は君の師の作品をいただこうか。そうだな、そこの焼き菓子五種類をひとつずつと……あとザッハトルテを」
「あ、は、はい」
 エドガーが選んだ商品を包むべく準備し始めたマッシュは、チラチラと視線をエドガーに送りつつ、あることを考えていた。頼まれた品を箱に詰め終えて、エドガーが渡してくれた紙幣を受け取りながら、マッシュは少し遠慮がちに口を開く。
「あの、さ。もし、あんたが良ければ……、俺の試作品、たまに試食に来てくれないかな……?」
 マッシュの依頼にエドガーはぱちぱちと瞬きで応え、箱を手に取ると同時に軽く目を見開いて破顔した。
「勿論。引き受けよう。えっと……失礼、まだ名前を聞いていなかったな」
 左手に箱を収めて右手を差し出すエドガーと握手を交わし、「マッシュだ」と名前を伝えたマッシュをじっと見つめたエドガーは、口の中で一度「マッシュ」と呟いた。そして何か大切なものを見つけたかのようなはにかんだ笑みを浮かべて、よろしく、と暖かな声で囁いた。