Reincarnation




*Spring*



 少しずつ街角で花の綻びを見かけるようになり、柔らかさを増した空気を吸い込み弾むように地面を蹴る。
 小さな紙切れ片手にきょろきょろと辺りを見渡し、煉瓦色の外壁に目星をつけたマッシュは古びた鉄階段の下からアパートを見上げた。
 少し前、エドガーからもらった彼の住まいが書かれたメモ用紙。留守がちだけど、と付け加えて渡されたその住所を訪れたのは今日が初めてだった。
 メモをポケットに捻じ込み、左腕に抱えていた小ぶりの紙袋を見下ろしてふっと息を吐く。肩がストンと落ちる高さで無意識に緊張していたことを知り、マッシュは照れ臭そうに頭を掻いた。
 何度言っても初めて出逢った日に結んだ包装用のリボンをつけてくるエドガーのために、普段は立ち寄ることもないアクセサリーを扱う店で真っ赤になって品定めをしたことを思い出しながら、マッシュは錆びた鉄階段をゆっくりと上がっていく。──選んだのは青い石がついたヘアカフスと、包装用などではない柔らかいベロアの藍色のリボン。どちらがより彼に似合うか悩みに悩んで、結局ふたつとも購入した。
 自分と同じ青の瞳だけれど、エドガーの目は奥深く広がる水底のような落ち着いた碧眼だった。迷ったどちらもあの穏やかな瞳に映えそうで、いっそ好きな方をエドガー自身に選んでもらおうと少ない小遣いで奮発した。
 店員の女性に恋人へのプレゼントかと聞かれて慌てて首を横に振ったことが頭に浮かんで気恥ずかしさに足を止めつつ、上りきった階段の先にある年季の入ったドアの前でマッシュは深呼吸する。
 店ではしょっちゅう逢っているのだ、何も緊張することはない──自らに言い聞かせ、意を決して扉をノックした。
 返答はすぐにはなかった。数秒待ってもう一度ノックをし、それでも中から特に声も聞こえてこなかったため、やはり留守だろうかと眉を下げたその時。
 カタ、と薄い板の向こうで音がして、静かにマッシュに向かって扉が開いてくる。エドガー、と呼びかけようとしたマッシュの表情が固まった。中からドアを押し開けたのは、顔に無数の傷痕を持ち銀髪を長く垂らした気だるげな目つきの見たことのない男だった。男は不審げな眼差しでマッシュを睨みつける。
「……何か用か」
「……あっ、えっと……、ここ、……エドガーの部屋?」
 メモに書かれていた部屋番号と違わないドア横の数字をちらりと確認したマッシュがしどろもどろに尋ねると、銀髪の男は小さく口笛を吹いて鼻で笑った。
「あいつの客? ……へえ、ってことはお前がそうか。あいつ、まだ大学だぜ」
 お前がそう、と言われたことに疑問を持たない訳ではなかったが、エドガーのことをあいつと呼ぶこと、そして男が告げた耳慣れない単語が更にマッシュを混乱させる。
「大学?」
「……お前、何にも知らねえのか?」
 男の呆れたような口調に思わずマッシュもムッとする。この男は一体エドガーの何なのか。
 不快感をはっきり表情に出したマッシュを前に、再び吹き出すように笑った男は戸口で一歩後退して中へと顎をしゃくった。入れと言われていることは理解したマッシュだったが、エドガーの留守中にこの得体の知れない男に従って良いものか少々迷い、しかし男とエドガーの関係が気になってドアを潜る。
 自分と比べてひょろっと細いこの男なら何か仕掛けてきても対応できるだろう──用心しつつ足を踏み入れた室内は、ぼんやり薄暗くて物が少なくあまり生活感が感じられない空間になっていた。
「適当に座れよ。茶くらい出してやる」
 男の言葉を受けて、躊躇いながらもテーブルに添えられた椅子を引く。マッシュが腰掛けたのを確認した男は、小さなキッチンで茶葉が入っているらしい缶を手に取った。
「あの、あんたは……」
 エドガーとどういう関係だ、と口をついて出そうになる言葉をぐっと飲み込み、マッシュは何を話したものか戸惑って眉を寄せる。招かれるまま中まで入ってしまったが、彼は一体何者なのか。
 手慣れた様子で茶の支度をする姿を見ると、男もまたこの部屋の住人なのではないだろうか。エドガーと一緒に暮らしているのか、と推測したマッシュの胸がもやもやと嫌な重苦しさに包まれた。
「んな噛みつくような目で見んなよ。俺ぁただのルームメイトだ」
 心の中を見透かされたような笑みを浮かべる男を前に、マッシュは頬の内側が熱くなったのを感じて下唇を噛む。
「まあ、そう勘繰るように始めたルームシェアだがな」
 男は雑な手つきで茶葉をポットに放り込み、沸かしたてには見えないヤカンの湯を注ぎ淹れた。
「勘繰るって……」
「外面のいい野郎だからな。そのくせ人付き合いが面倒ときてる。人避けに俺を利用してんだよ、あいつは」
 大して蒸らしもしないポットの中身をぞんざいにカップへ注ぐ男に顔を顰めたマッシュに気づき、何かを勘違いしたのか男はまた鼻で笑って肩を竦めた。
「信用してねぇのか? 安心しろよ、俺ぁ男は趣味じゃねえ」
 ストレートな物言いにマッシュの頬が赤くなる。人を食ったような態度のこの男は年はさほど離れていないように見えるが、左目を斜めに横切る大きな傷痕が酷く印象的だった。
 男はソーサーも何もついていないマグカップをマッシュの前に滑らせて、自身も片手に持ったカップに口をつけてから告げた。
「俺はセッツァー。エドガーの同僚だよ」
 セッツァーと名乗った男にマッシュはどう返答すべきか迷ってしまう。そもそもエドガーが普段何をしている人間なのか、マッシュは知らないままだった。
 時々店に立ち寄ってはマッシュの作った菓子を受け取り、どれが美味しかったやら改良点やらを楽しそうに伝えてくれる。友人の一人ではあるのだろうが、それにしては彼のことを知らなさ過ぎると改めて思い知らされた。
 黙り込んだマッシュの反応をどう受け取ったのか、セッツァーはもうひとつの椅子を引いて腰を下ろした。そのふわりとした動作は彼に重みを感じさせず、風を纏っているようにも思えた。
「お前、飛空艇って聞いたことあるか」
 不意の質問にマッシュが眉を寄せる。
「ヒクウ……テイ?」
「知らねえか。空を飛ぶ船だよ」
 マッシュはますます顔を顰め、疑り深い目でセッツァーを伺った。セッツァーはにやりと笑い、カップをテーブルに置いて胸ポケットを探り出す。
「何千年か前には空をバンバン飛んでたって話だ……文献がお伽話じゃなけりゃな。俺とエドガーはその飛空艇の調査と、現代に蘇らせる研究をしてる」
 取り出した煙草を口に咥えて手早く火をつけたセッツァーは、マッシュから顔を背けてフッと煙を吐いた。
「あいつは見た目が派手な上、人の誘いを断れねえお人好しだ。厄介ごとをしょっちゅう拾ってくるもんだから研究に支障が出てな。それであいつと正反対で人好きされない俺とルームシェアを始めたのさ。効果は覿面……妙な噂も流れたがそんなこたぁどうでもいいって言ってたあいつが、少し前からルームシェアを解消したいと言い出した」
 セッツァーの前でただ瞬きだけを繰り返すことしかできないマッシュを尻目に、再び煙草を咥えたセッツァーが細く紫煙を吐き出す。マッシュへの配慮だろう、セッツァーは振り返るように煙を吐くが、空気中を漂う煙草の臭いがマッシュの鼻を掠めていった。
「詳しい理由は聞かなかったが、誤解されたくねえ相手がようやく出来たのは分かったよ。……お前、あいつと一緒に暮らすのか?」
「えっ……?」
 ようやく出した声は何とも間の抜けたもので、マッシュの背中からドッと汗が吹き出る。
 寝耳に水だ。エドガーとそんな話をしたことは一度もない。マッシュは抱えたままの紙袋を強めに抱き締めた。
「あいつのオトコなんだろ?」
「お、オトコって、どういう、」
 顔を真っ赤にして舌をもつれさせながらマッシュが何とか言葉を返した時、玄関から物音が響いてきた。蝶番の擦れる音の後、バタンと閉じたドアの振動が狭い部屋に伝わり、
「セッツァー? ……誰か来ているのか?」
 聞き慣れた柔らかいテノールが耳に届く。振り返ったマッシュとたった今戻って来たエドガーの視線がぶつかり、気まずそうに眉を下げたマッシュに対してエドガーは驚きに目を見開いた。
「マッシュ……? 来てくれたのか……?」
「あ、ああ。連絡もしないでごめん」
「いや、それは構わないが……、……セッツァー、余計なことを言わなかっただろうな」
 マッシュに向けた表情とは打って変わって鋭い目でセッツァーを睨みつけたエドガーに対し、セッツァーは肩を竦めて煙草を卓上の灰皿に押し付けた。緩慢な動作で立ち上がり、口元に薄ら笑いを浮かべてチラリとマッシュを横目で見る。
「余計なこと吹き込むほどお前のこと知りゃしねえよ」
 意味深な視線を寄越されたマッシュは訳も分からず顔を赤らめ、セッツァーはまた鼻で笑った。そして椅子の背凭れに引っ掛けられていたコートを手にし、すぐには羽織らず右肩にひょいと引っ掛ける。
「ダリルと約束してんだ。今日は戻らねえからごゆっくり」
 そう伝えてエドガーの脇を通り過ぎる瞬間、
「随分とガタイのいい天使様だな?」
 耳元で囁いたセッツァーを睨みつけたエドガーに顔を向けることなく、後ろ手に手を振ったセッツァーはそのまま玄関へと向かった。それからすぐにドアの開閉音が聞こえ、部屋に静けさが訪れる。
 溜息をついたエドガーは、マッシュに改めて向き直りすまなさそうな顔を見せた。
「すまんな、マッシュ。悪い男ではないんだが、人を食ったような発言が多いやつでね。気を悪くしなかったか?」
「あ、ああ。別に、そんな……」
 何も言われていないと答えかけて、セッツァーが口にした「あいつのオトコ」という言葉を思い出したマッシュは、顔に上る熱を散らそうと手で扇いで風を届ける。不思議そうに首を傾げるエドガーからつい目を逸らし、セッツァーが淹れてくれた茶を口に含んで無言の時を誤魔化した。冷めた薄い茶は味気なかった。
「今日は、どうした? 俺に用があったんだろう?」
 スプリングコートを脱ぎながら、先程よりも穏やかな口調でエドガーが尋ねてきた。マッシュは少し迷ったが、部屋に上がり込んでおきながら用事がなかったなどと誤魔化せるはずもなく、照れ臭さに頭を掻きながら紙袋をエドガーへ差し出した。
 エドガーは驚いて動きを止めたが、察してくれたのか黙って紙袋を受取る。そしてマッシュと紙袋を交互に眺めてから、そっと中身を覗き込んだ。
「……これは」
 取り出したヘアカフスとリボンを手にして、エドガーはまじまじとそれらを見つめる。マッシュは相変わらず頭を掻きながら、気恥ずかしそうにぽつぽつと説明し始めた。
「その、リボン。いつまでもそれじゃ、不恰好で悪いなって……。店でたまたま、似合いそうなのがあったから」
 半分は嘘だ。初めからエドガーに贈るものを探しに訪れた店で長時間悩んだのだから。
「……ふたつも?」
 エドガーが優しく問いかける。微かな笑みが口元に浮かんでいるのが分かり、不快ではないことが伝わってマッシュはホッと胸を撫で下ろした。
「どっちも似合うと思って、選べなかったんだよ。好きな方、つけてもらえたら……」
 マッシュの言葉を小さく頷きながら聞いていたエドガーは、再び手の中のヘアアイテムをじっと見つめる。ややしばらく無言で悩んだエドガーは、おもむろに今髪を束ねているあの包装用のリボンを解いて取り払った。
 美しい金髪が広がり切る前に、もう一度手で髪をひとまとめにしたエドガーは、マッシュが贈ったヘアカフスで根元を束ねる。そちらを選んだのか、とマッシュが納得しかかったその時、エドガーは残されたリボンをマッシュに差し出しておもむろに背を向けた。
「それも、結んでくれないか。そうだな、……ここら辺りに」
 エドガーは長い髪の束ねた根元から毛先の丁度真ん中辺りを指差す。髪にふたつのアクセサリーをつけるという発想がなかったマッシュは驚いたが、成る程エドガーの髪の長さなら更にリボンをつけても可笑しくはないかもしれない。初めて出逢ったあの日のように、マッシュは自らが選んだ藍色のリボンで丁寧にエドガーの髪を結んだ。
 髪にふたつのアクセサリーをつけたエドガーが、どうだと言いたげに軽くマッシュを振り返る。その仕草は優雅でありながら何処か可愛らしく見えて、マッシュはつい顔を綻ばせた。
「……似合うよ。思った通りだ」
 心からの言葉を口にすると、エドガーはしっかりと振り向いて艶やかに笑った。ありがとう、と口にしたエドガーの頬が薄っすら赤く染まっているように見えるのは錯覚だろうかと、マッシュは冷め切って薄い茶を喉に流し込んでやけに騒ぐ胸の音を必死で宥めた。