Reincarnation




*Summer*



 蒸し暑さが続いていた昨日までとは打って変わって湿度が下がり、やけに喉が乾く夜だった。
 手を伸ばしかけたマッシュの前で、顔を強張らせたエドガーが両腕を振り上げて身を守るようにマッシュから距離を取った。咄嗟に出たらしい反応にエドガー自身も驚いているように見えた。
 拒絶された──エドガーの仕草をそう理解したマッシュは、彼に対してとんでもないことをしでかそうとした自分を恥じて項垂れる。ごめん、と小さく呟くのが精一杯で、とてもエドガーに顔向けできずに黙って去ろうと背を向けた時、
「ま、マッシュ……、待ってくれ」
 珍しく焦りを含んだエドガーの声が投げかけられ、手首を掴まれた。驚いて振り返ると、薄っすら頬を赤らめたエドガーが困ったような上目遣いでマッシュを見ている。
「違うんだ……、今のは、その……、拒否した訳じゃない……」
 気恥ずかしそうにぽつぼつと言葉を区切りながら、歯切れ悪く伝えるエドガーが掴んだ手首は痛みを感じるほど強く捕まえられていた。マッシュを見上げる眼差しが逃げないでくれと切実に訴えかけてくる。
「驚いて、しまって……、頼む、話を聞いてくれ……」
 マッシュは息を呑み、身体ごとエドガーを振り向こうと身振りで伝えた。エドガーはまだ不安の抜けない目でマッシュを捉えながら、掴んでいた手首を静かに放す。
 改めて向かい合った目の前のエドガーは、軽く目を泳がせて少し迷う素振りを見せていた。いつも冷静な彼にしては珍しい姿だった。
 しばらく自分の中の何かと葛藤していたエドガーは、何かを決意したようにフッと短く息をつく。そして、おもむろにシャツのボタンに手をかけ一番上から外し始めた。
「エ、エドガー」
 急に何を、と今度はマッシュが慌てて指を戦慄かせている間に、エドガーは全てのボタンを外し終えた。開いた合わせを躊躇わずに脱ぎ捨てたエドガーのシャツの下は素肌で、いつもきっちりと着込んでいる彼の初めて見る白い肌はあまりに眩しく、マッシュは思わず目を逸らす。
「……マッシュ……これを」
 エドガーが意味ありげにかけた声でようやく恐る恐る視線を向けたマッシュは、肌を晒したエドガーの引き締まった上半身、右脇腹に赤味がかった黒い大きな痣が広がっているのを認めて目を見開く。
「気味が悪いか……?」
 マッシュの反応が不快感から出たものと捉えたのか、エドガーは自嘲気味な笑みを見せて力なく眉を下げた。マッシュは否定するべく何か言おうと口を開きかけたが、エドガーの肌を巣喰う痣への衝撃が大きく頭の整理がすぐにはつかなかった。
「これは……生まれつきなんだ。成長しても消えるどころか薄くもならない……」
 儚げに目を細めたエドガーは、自分の腹を見下ろして痣に指先を触れさせる。
「俺は身寄りのない孤児だ。この痣が不吉に思われて捨てられたのかもしれない」
 また自嘲を多分に含んだ笑みを浮かべ、エドガーはそれを振り落とすように軽く首を横に振った。
「俺自身、痣があることは気にしちゃいないんだ。生まれた時から一緒だからな、寧ろ愛着があるくらいだ……。だがそのせいか特別に思い過ぎた。この痣を見られるということは、腹の奥を見透かされるにも等しいと思うようになった」
 やや眼差しを厳しく顰めたエドガーは、過去の出来事を何か思い起こしているのだろうか、忌々しさがマッシュにも伝わるような表情で緩く下唇を噛む。
「いつしか痣を人に見られることを想像するだけで、胸が騒いでとても嫌な気分になるようになった……」
 目を閉じて気持ちを落ち着かせるように、エドガーは腹の右半分を覆うほどの大きな痣をそっと撫でながら、「誰にも見せたことはない」と自分にも言い聞かせるようにはっきりと呟いた。
 そしてマッシュに対して顔を上げ、不安で僅かに揺れたままの瞳を真っ直ぐに向けながら、エドガーは狂おしげに眉を寄せて口を開く。
「マッシュ、お前になら……、お前だけは違う。この痣を見られても構わないと思ったのはお前だけだ……」
 マッシュは言葉を失ってエドガーの右脇腹を見つめ続けていたが、エドガーがマッシュはどう応えるかを心配そうに待っていることに気づいてハッとし、唇を結んでマッシュもまた服に手をかけた。
 マッシュの行動もまた思いがけなかったのか、エドガーが呆気にとられている目の前で、マッシュもまた自身のシャツを豪快に脱ぎ始めた。マッシュの意図が分からず驚いて目を丸くしたエドガーだったが、シャツをめくり上げて両腕を上げたマッシュの腹部が露わになると、その目が一点を見つめてはっきりと強張った。
 腕から振り捨てるようにシャツを脱ぎ終えたマッシュは、エドガーがすでに気づいている左脇腹に手を添える。指先で躊躇いがちに撫でたその場所には、エドガーと同じく赤黒い大きな痣が広がっていた。
「俺も、痣、あるんだ……生まれつきの」
 マッシュの言葉が耳に入っているのかいないのか、エドガーはすぐには反応せずにマッシュの痣を凝視し続けた。それからややフラつきながら一歩目を踏み出し、ゆっくりとマッシュに近づいて伸ばした指先は小刻みに震えている。
 マッシュはエドガーの行動を咎めることなく、冷たい指先がそっと痣に触れた瞬間に僅かに身を竦めたのみで、後は黙って見下ろしていた。
「……そっくりだ……」
 小さく呟いたエドガーの声はどこか夢を見ているようにぼんやりとしている。マッシュは腹を撫でられる擽ったさに苦笑しつつ、エドガーの指が思った以上に硬く無骨であることに気づいた。
 日頃機械に親しむ手なのだと思い知らされる。この指のことも、そしてまるでお揃いのような痣のことも、今まで知らなかったエドガーを見つけていくのは嬉しかった。
「……嫌じゃないか?」
 エドガーが上目遣いに尋ねてきた。痣に触れていることについてだと察したマッシュは、微笑んで首を横に振る。
「全然」
「今まで誰かが触れたことは?」
「エドガーが初めてだよ」
 マッシュが告げるとエドガーの口元が仄かに緩んだ。そのままもう一歩近づいてきたエドガーが俯き加減に頭を下げ、ふわりと鎖骨を擽った前髪の感触にマッシュの心臓が大きな音を立てる。
「陳腐な言葉で好きではないが。……運命というものがあるのだろうか」
 ぽつりと零したエドガーの吐息混じりの言葉がマッシュの胸を温めた。マッシュは小さく喉を鳴らし、恐る恐るエドガーの両肩に手をかける。
 夏の盛りとはいえ、しばらく外気に晒されていた肌は冷たかった。
「……俺、初めて逢った時から不思議な感じがしてたんだ……ずっと前から知ってたみたいな……」
 勇気を出してマッシュがそう伝えると、エドガーが軽く笑った息が肌に触れる。
「俺もだよ、マッシュ」
 落ち着きを取り戻したエドガーの声には、普段と同じように少し戯けた調子が含まれていた。
「初めて逢った時、お前が天使に見えた」
「ええっ……?」
「優しい目で素朴で可愛らしくて。ずっと探していた尋ね人に逢えたような感覚だったよ」
 穏やかに答えたエドガーは、顔を上げて軽くマッシュを見上げ、これまでに見たことのないはにかむような笑みを浮かべていた。その表情を強い愛しさを感じたマッシュの手に自然と力が入る。
 肌を隔てる布を取り払った姿で、この人を望むままに抱き締めたい。身体はエドガーを欲しているが、そんなことをして良いものかとマッシュの理性が躊躇いでストップをかける。
 なかなか動こうとしないマッシュの肩に、焦れたエドガーが頭を寄せてぽつりと呟く。
「……脱いだのは、痣を見せるためだけじゃない」
 息を飲んだマッシュの身体が緊張で強張るのと、エドガーがマッシュの肩に寄せた頭を擦りつけるのとはほとんど同じタイミングだった。
「俺は、拒まないぞ……マッシュ……」
 囁きが耳に届くとそれ以上堪えきれず、マッシュは半裸のエドガーを腕の中に抱き締めた。エドガーは言葉通り拒否することなく、自分からもマッシュの肌に頬を寄せて、同じく背中に腕を回す。
 マッシュの腕の中でエドガーが苦しそうに息を漏らした。力が強すぎたかと慌てて緩めたマッシュを見上げてエドガーが微笑む。マッシュは気恥ずかしさと緊張とで首まで赤く染まり、口籠もりながら小さく呟く。
「……俺、こういうの初めてなんだ」
 エドガーは長い睫毛を揺らすように一度だけ瞬きをした。
「あんまり、うまくできないかも……」
 自信なさげに溢したマッシュを愛おしそうに見つめたエドガーは、優しく目を細めて微笑んだ。
「この痣は誰にも見せたことがないと言っただろう?」
 エドガーの言葉にマッシュが軽く眉を持ち上げる。
「……俺も初めてだ。二人で少しずつ覚えていけばいい……」
 そう告げて熱っぽく潤んだ瞳でマッシュを見上げるエドガーに見惚れ、マッシュの喉仏が上下した。小さく頷いたマッシュは、意を決して口を開く。
「……好きだよ」
 近づく呼吸を受け入れるためにエドガーは瞼を下ろした。
「俺もお前が好きだ……マッシュ」
 柔らかく塞がった唇はしばらくそのまま動かずに、ようやく離れた後に顔を見合わせて照れ臭そうに笑い合って、二人は再び唇を重ねる。
 啄むように、左右に軽く角度を変えながら互いの唇を食み、伸ばした腕で相手の熱を求めてその身体を掻き抱いた。


 その夜、絡み合ったまま意識を失うように眠りについた二人は、金の砂が舞う熱い空気の中でゾッとするほど冷たい金属に触れる夢を見た。