もう一度君に






 アキラの復帰初戦が白星スタートしたという噂は、緩やかに棋院内を駆け巡ったようだった。
 復帰、とはおかしな表現であるとアキラ自身も苦笑した。復帰も何も、二ヶ月前に無断で手合いをサボタージュした後は普段通りに棋院を訪れていたのだから。
 恐らく、復帰したと称されているのは「塔矢アキラ」としての気構えに他ならないだろう。
 淀んだ沼のような濁った瞳をして、人を避け、影を背負って髪で顔を隠していたアキラが、以前のように毅然と背筋を伸ばして現れたのだ。実に分かりやすい変化を目の当たりにした人々は、今度は最初の勝利が本物がどうかを見極める段階に入ったようだった。
 彼らの言うところの「復帰」二戦目にあたる今日、アキラは前回を遥かに上回る好奇の視線を一心に受けることとなった。
 棋院のロビーから始まり、エレベーターで乗り合わせた人、対局場に向かうまでの短い道のりですれ違った人、誰も彼もがアキラを伺うように顔を向ける。
 構うものかとアキラは胸を張った。
 しばらくこの手の視線に晒されるのは覚悟の上だった。
 彼らが注目しているのは塔矢アキラの今後なのだ。結果を出し続けることしか評価を得る方法はない。
 対局場に入ると、見慣れた顔がアキラに向かって手を振っていて、自然とアキラの表情も綻んだ。
「よう、おはようアキラ」
「おはようございます、芦原さん」
 すでに指定された碁盤の前に腰を下ろしている芦原の元へ向かおうとした時。
「おはよ〜」
「おー、おはよ」
 背中に、聞き覚えのある彼の友人達の声に混じって懐かしい声が届いた。
 ぴくりとアキラの耳が揺れたが、咄嗟に振り返ろうとする動作を押しとどめる。
 ――同じ棋士なのだ。対局場で見かけるのは当たり前。
 しかし、彼と並ぶ権利があるかと問われると、すぐにはまだ頷けない。
 アキラはそのまま聞こえた声の持ち主を追うことなく、穏やかな笑顔を湛えて芦原の傍へと歩き出す。
 ――キミも、みっともなく縋るボクなどもう見たくはないだろう。
 彼はきっと、ずっとアキラの結果を伺っている。
 認めてもらいたいなら、それだけの碁を打てば良いだけのことだ。
 同じ部屋にいるという確かな気配を感じながら、それが畏怖ではなく安堵へ繋がっていることを確信して、アキラは自分の考えが間違っていないことを悟った。





 昼の休憩時間を迎え、ばたばたと棋士たちが昼食に出かけて行った後、アキラは数人の棋士たちが集う控え室で静かに時を過ごしていた。
 部屋の隅に正座し、二、三人のグループが三つばかり出来ている控え室で彼らが喋りながら昼食をとる傍らで、軽く目を伏せたままじっと動かない。
 気持ちは随分落ち着いていた。復帰初戦と言われたあの一局の時もそうだったが、今日もこのまま静かな心で邪念なく打ち切れる、そんな自信があった。
 集中し切れなかった一時期が嘘のようだ。
 今は、相手が打つ千の手までも読み取れる気がする。
 ――対局前にヒカルの声を聴いても、動揺はしなかった。
 こんなに気持ちが安らかで、仄かな幸福感さえ感じることができるようになったなんて。
 ヒカルはいつも傍にいる。
 もうすぐ。
 もうすぐだ。
 ヒカルに逢えるまで、もう少しだけ。
 確かな力を信じられたら、その時はもう一度……ヒカルに。
 ありったけの想いを伝えよう。

 アキラはおもむろに腕の時計を見下ろし、そろそろ時間かと立ち上がった。
 控え室にいた他の棋士たちも、ぱらぱらと腰を上げ始めた。気怠そうに、張り切って、笑いながら、それぞれ違った表情で一様に向かう場所は同じという構図が、とても素敵なことのようにアキラには思えた。
 対局場の入り口が見えたところで、アキラはまさにその中へ入ろうとしていたその人が、一瞬こちらを振り向いた仕草を目の当たりにする。
 アキラは思わず足を止めた。
 金色の前髪を揺らしたヒカルもまた、そこにアキラがいることを意図して振り向いたものではないのだろう。回数の早い瞬きがそれを物語っていた。
 偶然に視線を交差させた二人は、僅か数秒の短い逢瀬の後――すぐに向かうべき正面へと目線を移す。
 お互いの決意の表れだった。
 アキラは胸にそっと手を当て、不自然な拍動がないことを確認し、きっと瞳に力を込める。
 ――今はまだ、キミを求めたりしない。
(ボクはボクのやるべきことに集中しよう。だから、……もう少し待っていて)
 一度止まった足が動きだした時、アキラの頭の中からヒカルの存在は消え、打ち掛けだった盤面の行先があらゆるパターンに広がろうとしていた。
 だから、気付かなかった。
 アキラから視線を逸らしたヒカルが、ごく自然な、微かな笑みを浮かべていたことに。




 その日の対局、アキラは午後の早い時間で六目半の大差をつけて勝利した。







 ***







 帰宅後、一人で黙々と検討を続けていたアキラは、ふと顔を上げた時に視界に入った時計の針が随分遅い時間を指していたことに気付き、ここまでかと肩の力を抜いた。
 今日の対局はなかなか悪くはなかった。しかしアキラの支配下に入り込んで来た相手の石の動きを読み違え、結果予定より二目ばかり損をすることになった右辺の動きが気にかかる。
 最終的には大差で勝利を得たとはいえ、やはり中身も伴ってこその勝ち星でありたい。アキラは散々検討した碁盤の上の石をざらざらと片付けながら、まだまだ成長の余地がある自分の力に奇妙な安心感を覚えていた。
 ――ボクはまだ伸びる。
 生涯を碁に捧げると決めた身として、今の棋力に限界が見えないことに素直に感謝したい。
 五年後も、十年後も、同じ気持ちで上を向いていられるといい。
 そのためには、今の力を最大限引き出さなくては。
 そんな決意を固めたアキラは、片付けた碁石をしまった碁笥を優しく碁盤の上に置いて、長く正座を続けていたその場所からすっと立ち上がった。
 静かな部屋。
 以前は日常の一部としてヒカルの姿があった、この部屋。
 家具も、電化製品も、ヒカルのために買い揃えた。ヒカルが喜ぶようなラグの手触りや、ヒカルが退屈な時にスイッチを入れられるコンポや、ヒカルと眠っても幅に余裕のあるベッド。そのひとつひとつが苦痛だった時期はついこの前のことだったのに。
 穏やかな気持ちで見渡せば、まるで本当に目の前にヒカルがいるかのように様々な光景が思い出されて、アキラは記憶に焼き付いているたくさんの笑顔にそっと微笑を浮かべる。
 乱暴に床にリュックを投げる仕草。
 冷蔵庫から買い置きのジュースを勝手に取り出す仕草。
 どっかり碁盤の前にあぐらをかく仕草。
 どれもこれも昨日のことのようで、愛しくてたまらない。
 この世の中に絶対はない。当たり前だと思っていた全てが呆気無く奪われる、そんな現実から目を背けようとしていた。
 日々を精一杯生きてこそ、培われる大切な時間。
 ヒカルとの思い出を、全て過去にしてしまうような結末だけは迎えたくない。


 もう一度キミの前に立つ時は、あの頃よりもずっと真剣にキミと向かい合いたい。
 キミが教えてくれた、ボクが抱える大切なもの。
 そして、キミの存在がどれだけボクを輝かせてくれていたのか。
 ……知ることが出来て良かった。
 キミのために、ボクのために、たくさんの優しい人のために、ボクは再びこの道の先を一心に目指そう。
 キミと分かち合ったひたむきな気持ちを……無駄にしないように。



 数カ月前まではヒカルを抱いて眠っていたベッドで、アキラは一人目を閉じる。
 来週は本因坊リーグ戦の最終戦。残ったリーグ戦はこの本因坊戦ただひとつ。後は、来期に一から出直さなければならない。
 納得できる碁を打ちたい――大きく深呼吸したアキラは、四肢の力を抜き、やがて安らかな眠りへと引き込まれて行った。






焦らしプレイですいません……
アキラさん冷静でいられるようになりました。
前進、前進。