その日は朝からやけに気分が高揚していて、何だか良い碁が打てそうな気がしていた。 身支度を整えて家を出て、扉にしっかり鍵をかけてショルダーバッグを抱え直す。自然と伸びる背筋は自信の表れ。今日は必ず勝って帰ろうと心の中で誓いを立て、アキラは手慣れた様子でエレベーターのボタンを押した。 本因坊リーグ第七戦。アキラにとっての今期のリーグ最終戦である。 最初の二戦で連勝したものの、四月からずっと負け続きで四連敗。すでに来期のリーグ残留は不可能になっている。 過ぎてしまった結果を悔やんでも仕方がない。 今できることに力を尽くすのみ。 アキラは風を切ってマンションの外へと飛び出した。 まだ暑さを含んだ空気の渦が、少しだけ短くなったアキラの髪を巻き上げた。 「おはようございます」 「よろしくお願いします」 対局室に入って来たアキラに、関係者たちが少し驚いたような顔を向ける。 先月も同じように驚かれたものだったが、今回の驚きとは意味合いが違うだろう。 予定の時間の十五分前に現れたアキラは、静かに碁盤の前で足を畳む。 今日の相手は真能九段。これまでも何度か公式戦で当たったことがある。一番近い対局は去年の十段戦の三次予選だった。あの時は終盤でアキラに致命的な読み違いがあり、投了せざるを得なくなった。 華やかな経歴はないが、地に足がついたようなしっかりした碁を打つ男だった。基本をおろそかにしない、努力の積み重ねで徐々に高段へと上がっていった棋士。見習うべき点の多い先輩棋士がこの日の対局相手であることに、アキラはひっそりと感謝する。 良い内容になりそうだと始まる前から直感があった。 アキラに五分遅れてやってきた真能は、静かながらも厳しい表情で、アキラを見据えて会釈をする。アキラも頭を下げて応えた。 彼のことだ、手を抜くことはないだろう。たとえアキラが不調のままでも、勝負には常に全力を尽くす真面目な人だ。 碁盤を挟んで向かい合い、無言のままに視線を交す。 棋風には性格が出ると言われる。真能の碁はスタートダッシュこそ鈍く感じるが、じりじりと相手を追い詰める様には年期の入った精神力が伺える。 昔からそんな碁を打ってきたのだろうか。――ふと、アキラはこれまで一度も気にしたことがなかった、相手の碁への興味を感じた。 どんな人生が、今の真能の碁を作り出したのだろう。これからも変わって行くのだろうか。進化し続けるのだろうか。 真能だけではない。アキラの知る、たくさんの棋士たちの棋風はそれぞれ見合った顔を持っていた。緒方の狡猾ながら粘り強い碁。芦原の穏やかな、時に実験的な碁。揺るぎない父の碁に、光閃くヒカルの碁。 アキラにもアキラの碁がきっとある。 様々な色の中で、自分の碁を追求することの喜びを改めて思い知る。 生まれた時から今まで、この身で体験した全ての事柄がアキラの碁に力を与えている。 才能と努力のひしめき合いの中、棋士として彼らに挑戦できる。それがどれほど面白いことであるか、かつてのアキラでは気付くことができなかった。 そして、立ち向かう一局の重みがどれほど尊いものであるかも。 (――負けたくない) 自分の碁で勝ちたい。 勝って、更に上を目指したい。 勝ちへの欲求が腹の底から迫り上がってくるようで、目に見えない圧力を感じながらアキラは表情を引き締めた。 対面の真能も鋭い視線をアキラに投げて寄越す。 「時間になりました」 張り詰めた空気の中、二人の間に火花が散った。 *** 駅を出てからずっと、逸る気持ちを抑え切れないようにアキラは走り続けていた。 徒歩十分以内のマンションなのだから、急がなくても帰宅するのにそれほど時間はかからない。 検討に長く時間をかけてしまったため、すでに時刻は真夜中近かった。暗い夜道でうっかり角張った小石を踏み、バランスを崩しかけながらもアキラは走る。 ――あんな感覚は久しぶりだった。 大分涼しくなったとはいえ、以前より少し緩くなったスーツは残暑の湿気を吸い、身体に纏わりついて酷く暑い。それでもアキラは全力で走り続けた。 ――打ちながら、浮遊するような感覚。この手で宇宙を創りあげていると錯覚させる、無限への挑戦―― 腕を振るせいで何度もショルダーバッグが肩からずり落ちそうになるが、抱え直して走る。 短い距離ではあるが、速度を緩めないせいで息はすっかり切れていた。 ――黒と白の二色が、どこまでも広がって行くようだった。思い通りに、時に思い掛けなく、あんな碁を打ったのは本当に久しぶりだった。 すっかり慣れたマンションが視界に入り、エントランス目がけてひた走る。 不思議な予感はあったのかもしれない。気持ちが急くのはそのせいなのだろうか。 心の興奮そのままに、走り続けたアキラはマンションに飛び込んだ。 真能の応戦は厳しかった。 一瞬の気の弛みが勝敗を分けることをお互い理解していたため、均衡はなかなか崩れなかった。 微妙なバランスを壊しにかかったのは、アキラが防御を捨てて勝ちをもぎ取りに行った強引とも言える手だった。 無謀な挑戦を乗り切る自信が枯れることなく沸いて来た。――それはそのままアキラの勇気となり、強さになった。 一目半の僅差。 勝敗がついたその瞬間、自然と関係者から拍手が沸き起こった。 アキラの胸にも確かな感動が脈を打ち、天を仰いだその口唇からは深い息が漏れた。 本因坊リーグ第七戦、ようやく納得のいく形でアキラは白星を手にした。 それから数時間検討に費やし、関係者にこれまでの感謝の気持ちを込めて丁寧な挨拶をした後、アキラは逸る気持ちそのままに帰路を急いだ。 ――ヒカルに逢いたいと強く思った。 今なら、ヒカルに恥じない自分を信じられる。 今なら、きっとヒカルも頷いてくれる。 帰宅したら、何よりも先にヒカルに電話をしようとそう思った。 ヒカルはすでに結果を知っているかもしれない。ひょっとしたら、棋譜さえも目を通しているかもしれない。 電話をしたら、今度は出てくれるはずだ。 一度は別れの言葉を告げさせてしまった、あの口唇が微笑んでくれるはずだ。 そう思って、エレベーターのボタンを強く押したが、随分上の階からゆったり降りて来るそれを待ち切れそうになく、アキラは八階分の階段を駆け上がることを選択した。 じっとしていられない。心が焼け切れてしまいそうで。 逢いたくて逢いたくて、焦がれる気持ちが強すぎて、荒い呼吸で喉や肺まで苦しくなっても、アキラはひたすら階段を上り続けた。 辿り着いた八階、重い非常用の扉を開いて、息も切れ切れに廊下を進んだその視界の先。 アキラは自室の数メートル手前で足を止めた。 額にびっしり浮かんだ汗が一滴、こめかみを伝って頬へと滑り落ちる。 ――微かな予感はあったのかもしれない。 心を急がせたその予感は、アキラに早く帰って来るよう合図を送ってくれていたのかもしれない。 電話はマンションに帰らなくてもできる。棋院で、駅で、歩いていても、いつだって持ち歩いている携帯電話のボタンひとつ押せば相手につながる時代に、何よりもまず帰宅を選んだのはそのためだったのかもしれない。 アキラが足を止めたその物音で、アキラの部屋の扉の前に座り込んで足を投げ出していた、その人が静かに顔をこちらに向けた。 エントランスは誰かにくっついてクリアできたのだろうけれど、今の彼は合鍵を持っていない。 いつからここで、冷たい廊下に尻をついたまま待っていたかは分からないけれど、待っていた相手が誰なのかはアキラにも分かる。 立ち尽くすアキラの顔をじっと見つめたまま、金色の前髪を揺らしたヒカルはゆっくり立ち上がった。 きっぱりとした色素の薄い瞳。その視線の強さはまるであの日別れを告げた時のものと同じように見えたが、奥に宿る暖かな光を離れた場所からアキラは確かに受け取った。 言いたいことはたくさんあった。 伝えたい言葉はまとまりがなく次から次へと湧き出て来た。 別れてから今まで。一人で過ごしたその時間が、決して独りではなかったことが、今更のようにアキラの胸を締め付ける。 顔を見たら、目を合わせたら、伝えたい想いがこれでもかというほどあったのに、実際に視線が交わると――溢れ出した想いが強すぎて、たった一言しか口にすることができなかった。 「――キミを愛してる」 掠れた声で呟いた途端、汗に混じって目尻からはらりと別の滴が零れ落ちた。 ヒカルはアキラから顔を逸らさずに、緩く開いた足の幅から見て取れるように肩の力を抜いた様子で、ゆるりと口唇の端を美しく持ち上げた。 僅かに細められたヒカルの瞳がじわりと潤み、彼もまた静かに両目から小さな涙をぽとりと落とした。 「俺も、お前を愛してるよ。……アキラ」 その瞬間、それまで床に縫い付けられていたアキラの足が強く大地を蹴った。 アキラに向かって伸ばされた両腕を確かに視界に捉えて、その人目がけて一心に走り、汗ばんだ身体に愛しい温もりを強く強く抱き込んだ。 |
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