NOBODY IS PERFECT






 興奮冷めやらぬ様相の少年が去った後も、アキラは放心したようにその場に立ち尽くしていた。
 握手を交した後の手のひらがじんわりと痺れている。まるで彼の情熱を少しばかり吸い取ったかのようだった。
 自分の胸の中に込み上げて来る想いがあまりに熱く、アキラは痺れた手を胸にぐっと押し付ける。
 ――囲碁を打ってきたのは、誰のためでもない。
 自分のためだ。自分がそう望んだのだ。

『それまでのボクは良い様に周りに流された人形のようなものだ』

 全てを自分以外の何かのせいにして、実に単純な答えを見失っていた。
 父に憧れていた。父のようになりたかった。
 あの頃の自分は、今しがた目を輝かせていた少年と同じ表情で自ら碁石に触れたのだ。
 そんなことさえ、忘れて……
「塔矢先生? 大丈夫ですか?」
 ふと背中にかかった低い声に、アキラは肩をびくりと揺らして振り向く。
 先程アキラに見学を勧めた職員だった。
 「大丈夫か」と問われたことに若干疑問を感じたが、すぐにぼうっと突っ立っている自分の様子が傍目にもおかしかったためだろうと理解する。
 アキラは曖昧に笑みを浮かべ、ええ、と小さく頷いた。
「驚かれたでしょ。いやいや、結構子供たち、好きなプロ棋士と話すチャンスを狙ってるんですよ」
 にこやかに説明する職員は、アキラの戸惑いは先ほどの子供とのやりとりのせいだと思っているらしい。
 アキラがあまり子供向けのイベントに関わっていないのを知っているのだろう。何と答えたものか迷ったアキラは、そのまま複雑な作り笑顔で彼の話をやり過ごすことに決めた。
 職員は少年が逃げるように走っていった方向に顔を向け、のんびりとした口調で話を続ける。
「彼、子供向けの大会では常連ですね。いや、よく顔を見ますよ。そうか、塔矢先生のファンだったんだ」
「……常連、ですか」
「ええ、いつも上位まで勝ち残っていますよ。いやいや、目標が塔矢先生なら、なるほど頑張らないとね」
「いえ、そんな……」
 アキラは口籠る。
 遠回しに皮肉を言われたのかと思ったが、それにしては職員の目に毒気がない。
「どうですか、子供達は?」
「え?」
 ふいにそんなことを尋ねられ、質問の意図が分からずにアキラは戸惑う。職員の表情は飽くまでにこやかだった。
「子供達。一生懸命でしょう」
 ああ、そういうことかとアキラは少し肩の力を抜いた。純粋に大会の感想を求められているのだと受け取ったアキラは、軽く首を回して会場の全景を見渡す。
「……ええ、みんな真剣で……驚きました」
 その言葉は本心だった。
 彼らの一手一手に込める気迫が空気に乗って伝わって来る。
 アキラの答えに職員は満足げに頷いた。
「刺激になりましたか?」
 思い掛けない問いに、アキラは意図せず眉を寄せる。
「え……」
 答え倦ねて瞬きをするアキラに、職員はにこやかに微笑んだ。
「いや実はね。この仕事、塔矢先生にお願いするよう勧めたの、進藤くんなんですよ」
 アキラは目を見開いた。
「進……藤、が?」
「ええ。いや、聞けば塔矢先生は子供向けのお仕事はこれまでほとんどされてないとか。子供たちから学ぶことも多いからって、進藤くんがね」


『アイツ、強すぎて子供の頃に大会とか出たことないはずなんですよ。だから、あの独特の雰囲気とか知らないと思うんです。俺、あの雰囲気好きなんですよ。ちっちゃいのがみんな真剣に碁打ってて、俺も負けてらんねえって。いつも原点に返れるから――』


 アキラは大きく広げた目をそのままに、口唇を薄く開いたものの言葉を発することができなかった。
 凍り付いて動かないアキラをそれほど不審には感じていないのか、職員は和やかな口調で良いライバルですね、と結んだ。
 気の良い職員がその場から立ち去っても、アキラは佇んだまま、しっかり開いた瞼を思い出したように瞬きする程度で、やはりそれ以外の身体の動きはないに等しかった。
 やがてぴくりと揺れた指先をきっかけに、アキラは自分が立ち尽くしていたことに気がついたが、手足を動かす脳からの指令は酷く鈍くて朦朧としていた。
 まるで僅かな余韻をも逃すまいとするように、息を潜めて耳に残る名前を繰り返し繰り返し頭の中で響かせた。




『進藤くんなんですよ』

『塔矢先生にお願いするよう勧めたの』

『進藤くんなんですよ』






 ――進藤が。






 気にかけてくれていた……









 ***







 覚束ない足取りで帰宅した家では、また少しいつもと違った様子のアキラに気がついたのか、母は口を開かない息子に何も聞かずに夕食の準備へと戻って行った。
 ただいまの一言も交すことなく部屋に隠ったアキラを、恐らくこの後呼びに来ることはないだろう。母の表情がそう予感させた。
 自室の戸を閉めたアキラは、吸い寄せられるようにあの押し入れへとふらふら近付いて行った。
 静かに開いた襖の向こう、ひっそりと棚に横たわる折り畳み碁盤。
 アキラはそっと手を伸ばして、少し湿気のこもる空間に取り残されていた碁盤に触れた。
 子供の頃と同じ感覚で力強く持ち上げれば、思い掛けない軽さに腕がふわりと宙を切ってしまうこの碁盤。
 アキラに握手を求めたあの少年と同じ目をしていた頃、アキラが一心に碁石を打ち続けた碁盤……
(進藤が)
 強く握られた小さな手の感触が、未だアキラの右手を痺れさせている。
(ボクのことを覚えていてくれた)
 ヒカルの口から自分の名前が出たことが、どれほど嬉しいか知れないというのに。
 今は、単純な喜び以外に胸の中で形を求めて渦を巻く感情がある。

 ――何か、分かりそうな気がする。

 子供達は皆一様に真剣な表情で碁盤に向かっていた。
 彼らと同じ年の頃、アキラもまた誰よりも真剣に囲碁の道を目指していたはずだ。
 厳しい指導に隠れて涙を拭いたこともあった。兄弟子たちに可愛がられ、張り切って研究会にまで顔を出していた。――買ってもらったばかりのこの碁盤を携えて。
 強くなりたかった。……父のようになりたかった。
 囲碁を打っている自分が――好きだった。


『あんなの初めてだったよ』

 そんな時、ヒカルと出逢って。

『俺より小さいヤツなんかもいてさ。すっげーみんな真剣なんだ……』

 彼の不可思議な存在に強烈に惹き付けられて。

『マジスゲーの。……ちょっとカンドーだよ』


 ――キミは真剣になったことがないの?




「……!」
 アキラはぐっと口唇を噛み締め、碁盤を広げて床へ降ろす。畳に膝をついて薄い碁盤をじっと見下ろした。
 何か分かりそうな気がする。
 数々の記憶がヒントとなって、過去から今日までの出来事が一気に胸に押し寄せて来る。
 ヒカルが何故離れたのか。
 何故あの仕事をアキラに勧めたのか。
(進藤は、まだ)
 父を目指して始めた碁。
 あの少年と同じように目を輝かせて碁盤に向かっていた幼い日々。
(ボクを見捨ててはいない……?)
 人生は常に囲碁と共に在り、これまで触れあった人々は皆、囲碁無くして出逢うこともなかった。
 ヒカルもまた、同じ……


 まだ、時間は残されているのだろうか。
 ヒカルは……答えが出るまで待っていてくれるだろうか。
 いや、たとえ時間がなくとも。


 あの少年と握手を交した右手がじんじんと痺れるように疼いていた。
 ――打ちたい。
 打たなければ、この熱を押さえることはできない。
 考えるのは後で良い。この家に戻ってから、いや、一人暮らしを始めてから久しく感じることの無かった熱い昂りを発散させなければ、石を持ちたくて焦れる右手が焼け落ちてしまう。
 立ち上がったアキラは、開け放したままの押し入れに飛び込むように顔を突っ込み、碁盤が置いてあった棚の奥に遠慮がちに並べられていた古い碁笥を掴んだ。蓋がずれて押し入れの中と畳に少し碁石が散らばったが、拾い集める余裕がない。
 碁盤の横に碁笥をどんと置き、前のめり気味に正座する。
 これまで、打ちたいと言う欲求が微かに頭を擡げても、無理にそれを押しとどめて来た。
 だけど今は、打つことでしか自分を保っていられない。
 母は恐らく呼びにこない。来たとしてももう耳に声など届かない。
 幸い今夜は月の薄明かりがぼんやりと室内を照らしている。電灯をつける僅かな間も惜しいこの身には有り難い。
 蓋を外した碁笥の中、ひんやりとした黒石に指が触れた途端、ぶるりと首筋から背中を駆け降りる震えにアキラは目を細める。
 この二ヶ月、仕事以外で碁石に触れたのは初。
 指先に挟んだ碁石を、構えて――




 ――お父さん。

 ボク、囲碁の才能あるかなあ――




 パチン。
 碁石が碁盤に打たれる音の高らかさが暗い部屋に冴え渡った。






まずは第一歩。
ここまで長かったような、あっさりし過ぎたような……
職員のおじさんは純粋にアキヒカの友情を信じてるいい人です。