NOBODY IS PERFECT






 パチン。
 パチン。
 パチン。
 パチン。



 一心不乱に石を打ち、指から伝わる震動はその都度足先まで電流に似た感覚を走らせた。
 何の棋譜を並べているのか、それと意識せずに打ち続ける。序盤の定石を越えた頃、ああ、この棋譜はプロになってから初めて二次予選に進んだ棋聖戦の一局、この棋譜は初めて本因坊リーグ入りを決めた三次予選決勝の一局、この棋譜は第一回目の北斗杯の韓国戦……そんなことが後からぼんやりと思い出された。
 思い付くがまま、指が動くままに次から次へと棋譜を並べ続ける。一局一局が実に雄弁に、当時の自分が何を考えて石を打っていたかを教えてくれた。
 これは二年前、海王高校の創立祭で打ったヒカルとの一局。思いきった踏み込みにヒカルは真っ向から立ち向かって来た。ギリギリの領地争いを一瞬の隙をついて勝ち取った瞬間、勝利への喜びと、ヒカルという存在と全力で打ち合えることへの悦びに、高揚する心を人前で晒さないよう抑制するのが辛かった。
 そこから遡ること数カ月、アキラと打つことを避け続けていたヒカルがようやく碁盤を挟んで目を向けてくれた、北斗杯終了後の一局。場所はこの部屋だった。それぞれの次の一手が待切れないように石を打ち続け、少しずつ広がる黒と白の美しい宇宙に誰にも憚られることなく二人で溺れた。いくらでも飛べると、信じていたあの日――
 そして四年前の名人戦一次予選の一回戦、待ちかねたヒカルとの再戦。初めて出逢ってから、追い追われてようやく辿り着いた二人のスタート地点。
 ヒカルの存在は確かにアキラの全てを変えた。初めて現れた得体の知れない力に、乱されっぱなしだった心にひとつの答えが出た、あの対局。
 実感したはずだ。――「彼はボクの生涯のライバル」だ、と
 いつしかその想いに愛情が混じり始め、ヒカルもまたアキラを受け入れて、徐々にアキラはヒカルと創り出す世界に傾倒していった。その日々の素晴らしさが、ヒカルさえいれば、二人だけで居られればもう他の何も必要無いと錯覚を起こさせるほどに――



『こんなとこに閉じこもってるから、余計に酷くなるんだ』


『お前は、何のためにプロになった!』






 二人だけの世界で……
 「ライバル」などという名聞に何の意味があるだろう……






 ヒカルの言った『こんなところ』とは、アキラが孤独を味わったマンションを指しているのではない。
 アキラが独りで創り出した、ヒカルの存在しか許さない狭い狭い世界のことだ。
 ヒカルはそれを良しとしなかった。アキラを引きずり出そうとして、叶わなくて、そして離れて行った。
 分かりかけて来た気がする。
 少しずつ、ヒカルの言葉の意味が。




 パチン。
 パチン。
 パチン。
 パチン。




 石を持つことを覚えたのは、記憶にもないほど小さな頃だった。
 母の話では、赤ん坊の時から碁石に触れていたというから、覚えていなくても無理はないだろう。
 思い出すのは、自室で碁盤に向かう凛とした父の背中だった。
 襖の隙間からこっそりその様子を覗いては、父が打つ碁石の音にどきどきと胸を奮わせていた。
 そういえば、父から囲碁を勧められたことは一度もなかった気がする。
『あの人は最初随分渋っていたわ……』
 母の言う通り、ひょっとしたら父はアキラに囲碁を教えるつもりはなかったのかもしれない。
 思い出す。父の部屋の襖にそっと触れ、音を立てないように隙間を開けて、静かに覗いていたあの頃。
 きっと、無意識に父の迷いを感じ取っていたのだろう。なかなか、言い出せなかったのだ。碁を教えて下さいと。でもあの綺麗な碁石にもっとたくさん触れてみたくて、碁盤に打たれる碁石の高らかな音を自分でも出してみたくて、父の機嫌が好さそうだった夕暮れに初めてのお願いごとをしてみた。
『お父さん、……ボクいごやりたい』
 父は少し驚いて、普段は穏やかな目を珍しく丸くさせながら、それでもアキラを怖がらせないようにか微笑んでくれた。
 その顔を見てアキラは、普段は感情表現の乏しい父が喜んでいることを素直に感じ取ったのだった。
 初めて教わった囲碁のルール。父と共に碁盤に向かう時間はとても楽しく、徐々にアキラは父の部屋で打つだけでは物足りなくなって行った。
 そんな頃、足付きの碁盤を買おうか、という話が持ち上がった。
 父が使っているような、何年も使える立派な物をアキラに用意しようかと両親が言い出したのだ。
 足付きの碁盤は、アキラの力では持ち上げるどころか動かすことさえままならない。小回りがきかない碁盤に比べて、まだ未就学であるアキラの小さな身体は実に細やかに動き、どっしり構えて碁を打つことよりももっと自由な動きを欲していた。
『もっと小さいのがいい。お願いします。いっしょうけんめい碁のお勉強するから、小さいのを買ってください。ボク、小さいのが欲しいんだ』
 与えられた折り畳みの碁盤は、すぐにアキラの宝物になった。
 玄関で物音が聞こえたかと思うと、碁盤を抱えてすっ飛んでいった。難しい詰め碁の問題がようやく解けた日などは、父が帰宅する数時間前から玄関で待っていて母に呆れられたこともあった。
 研究会でやってくる大人たちに、愛用の碁盤を見せて自慢した。真面目な顔で検討を続ける彼らに並んで、折り畳みの碁盤を広げて一緒に棋譜を並べたりもした。
 毎日が誇らしく、碁に親しむ日々は楽しかった。
 この石の先に未来があると信じていた。
 あの頃は、何も余計なことなど考えず、くだらない我欲に捕われず、自由に碁を打たせてもらえる環境が当たり前だと信じて不安なく碁の道を突き進んでいた。
 この碁盤は原点。
 石を打つ度に、溢れるように記憶が甦って来る。
 初めて緒方と打った時、置き石を九子も置いたのにあっさり負けて悔しかったこと。
 碁会所に通うようになって、父を慕うたくさんの大人たちから是非一局と誘われて、いい気分になったこと。
 甘い手を見透かされ、父に厳しい言葉をかけられ、縁側で項垂れたこと。
 気分転換にと芦原が買って来てくれた豆大福が美味しかったこと。
 忘れていた懐かしい出来事。どれもこれも、アキラの碁を見えない場所で支えて来た「経験」として、この胸のずっと深い部分に植わっていた。
 ――過去を否定しなくても良いのだろうか?
 未来のために、過去を切り捨てなくても良いのだろうか。
 ヒカルと生きることは、他の全てを排除することだと思っていた。
 ヒカルのために、それ以外の何もかもは諦めるべきだと思っていた。彼の存在に並べるものは何もないと。
 でも、諦めなくて良いのだろうか。
 彼を愛しながら、囲碁を打つことに全力を賭けても許されるのだろうか。
 今まで囲碁を打ってきた自分自身と、その周りにいた人々の存在を否定しなくても良いのだろうか。




 パチン。
 パチン。
 パチン。
 パチン。




 指が吸い寄せられる。
 こんなに夢中になって石を打ったのはいつ以来だろう。
 そういえば、北斗杯の合宿では酷いスピードで早碁に没頭したものだった。
 まるで頭が麻痺するような、癖になる感覚だった。
 ……あの時も楽しかった。




 パチン。
 パチン。
 パチン。
 パチン。




 ヒカルと共に生きようと、自分の中の熱を全てヒカルに注ぎ込もうとしたけれど。
 振り返れば、彼との対局以上にこの胸を燃え上がらせるものはなかった。
 口付けして、セックスすることももちろん愛情表現として大切なことだった。
 だけど、碁盤を挟んで向かい合った時の魂が震えるような高揚感――あれ以上の感動は味わえない。
 あのまま、形だけの愛に溺れて本当に碁が打てなくなっていたら、もう二度とヒカルとの対局で胸が高鳴ることはなかったのかもしれない。
 ヒカルはそれに気がついていた。




 パチン。
 パチン。
 パチン。
 パチン。




 自分の意志で碁の道を選んで。
 ヒカルに出逢い、ヒカルに惹かれ。
 ヒカルを愛し、ヒカルに愛され。
 共に進もうとした高みから逸れて、ヒカルを閉じ込めようとして。
 ……ヒカルが離れて行った。


 二人しかいない世界で、たとえ心無い碁を打ち続けていたとしても――
 いつか限界が来ただろう。
 何故なら、かつて自分は囲碁の道に未来の自分の姿を見た。
 誰より愛する人と出逢ったせいで、何より愛していた碁が崩れて行くのを、この胸に住まう小さな自分が許しはしなかったに違いない。
 「彼」はあんなに真剣に、大人たちの中で碁に向き合ってきたのだから。


(そうだ……)

 打つことへの情熱。
 胸躍る強豪との対局。
 誰より高い場所を目指していた。……ヒカルと。

(ボクは……囲碁を……)

 愛している。
 ヒカルとは比べられない場所で。
 確かに……囲碁を愛している。



 ――だってボクの中には、こんなにも数々の対局が生きている。
 キミとの美しい一局の他にも、鎬を削った多くの棋士たちとの素晴らしい対局が、確かに今日までのボクを形成している。
 その証拠に、指が、身体が覚えている。かつて幾度となく感じた興奮を、その先に目指した遥かな高みを。

 ……キミは最初から分かっていたんだね。
 ボクが、キミだけでは生きられないということを。
 ボクが、本当は何も捨てられないということを……






やっとここまで……!
ただ、毎日少しずつ進めていったので長く感じましたが、
一気に読んだら案外そうでもなかった低迷期間……かな?