時間を忘れて打ち続けた黒と白の石の音は止むことがなく、月明かりがやがて白々と夜が開けた後の朝日に変わっても、アキラは黙々と碁盤に向かい続けた。 帰宅してから飲まず食わずで打っていたというのに、不思議と身体的な疲れは感じなかった。 すでに頭では何も考えていない状態が数時間前から続いていたが、指先は忙しなく石を打つことを止めなかった。ある一局が完成すると、間髪入れずに次の一局、といった具合に、次から次へと石を並べて行く。まるで覚えている限り全ての棋譜を並べてやろうと目論んでいるかのようだった。 何百局打っただろう。ふと、アキラはすっかり明るくなった窓からの光に気がついて顔を上げた。 強張った肩の力をおもむろに抜くと、はっと荒い息が口から漏れる。相当呼吸を詰めて集中していたのだろう。それを皮切りに、しばらくアキラは肩で息をした。 視線を下ろせば、碁盤の上には随分昔の父との一局が並んでいる。 確かプロ入り決定直後に父の部屋で打ってもらったものだ。試験に合格したことへの祝いの言葉よりも、対局でアキラを迎えた父らしい態度。容赦ない洗礼を受けたことを覚えている。 ずっと石を挟んでいた形のままの右手をゆっくり持ち上げ、微かに震えている指先を見つめた。 心地よい痺れだった。 もうしばらく、こんなふうに何も考えずに碁に没頭したことはなかった。 打つことが怖かった。ヒカルとの最後の繋がりでありながら、幸せだった頃の過去を思い出すのが辛くて、自分の意志で碁石に触れることをずっと避けて来た。 だけど、一度このひんやりとした感覚に惹かれてしまえば、もう心は止められない。 ――ボクの碁盤。 ――ボクの碁。 ずっと見失っていた、途中で大きく逸れてしまった高みへの道筋。 今は、外れたところから本来歩くべきだった道が見えている、これだけ時間をかけて、やっと辿り着いたのはまだその程度。 ヒカルはもうずっと先を真直ぐに進んでいる。 『この仕事、塔矢先生にお願いするよう勧めたの、進藤くんなんですよ』 『子供たちから学ぶことも多いからって、進藤くんがね』 ……まだ、間に合うだろうか。 今から全力で追いかけて、その背中に追い付くだろうか。 ヒカルは自分を見限ったのではない。そうだ、かつての自分も打たないヒカルに対して同じことをしたではないか――アキラは震える指先を一度開き、それからぐっと握り締めた。 ヒカルは待っている。足を止めないことが、アキラの目を覚ます最良の方法だと信じて。 アキラは深く息を吸い込み、ゆっくりと肩を下ろした。 まだ、考えなければならないことがたくさんある。 少しずつ分かりかけて来たヒカルの言葉の意味。緒方に諭されたこと、芦原の存在、それから……父のこと。 今は、碁への情熱を思い出しただけに過ぎない。 胸の奥は焦げ付きそうなほどに燃え上がっているが、頭は到底冷静であるとは言い難い。 この熱が冷めてからではないと、落ち着いて考えることは無理だろう。 だけどまだ、この熱に浸っていたい。 もっと打ちたい。 もっと。 もっと。 覚えていた棋譜を並べるだけではなく、新しい碁を、打ちたい。 子供の頃のように、純粋な気持ちで、碁に触れていたい。 一手一手に胸をときめかせた、あの頃のように―― アキラはきっと口唇を引き締めて、正座しっ放しで軋む膝も構わずに立ち上がり、しっかりとした足取りで部屋を出た。 母が朝食の支度をしているのだろう、味噌汁の香ばしい匂いが漂って来る。 アキラは暖かな食卓には向かわずに、真直ぐ父の部屋へと足を運んだ。 「……お父さん」 障子戸の向こうから声をかけると、少しの間を経て「入りなさい」と返事が返って来た。 アキラはそっと戸を開き、すでに朝の着替えを済ませて碁盤に向かっている父の姿を認めて、その場に膝と両手をついた。 父がアキラへ顔を向ける。アキラはその普段よりも厳しく見える無言の表情を上目遣いに見据え、数秒視線を合わせてから深く頭を下げた。 一度深呼吸をして、覚悟を決めたアキラは、土下座の格好をしたまま掠れた声で一気にまくしたて始めた。 「長い間、仕事や生活をおろそかにしてご迷惑をおかけしました。お父さんに見限られても仕方がないことをしたと思っています。……ようやく、自分がどれだけ馬鹿なことをしていたか理解しました。今更、何を言っても言い訳にしかならないことは……よく分かっています」 畳を睨んだまま、アキラは一度息を吸い、父の相槌を待たずに続ける。 「どうか、ボクにもう一度チャンスをください。心を入れ替えて、碁の道に精進するつもりです。自分勝手なのは承知してる……でも、お父さん、師である貴方との対局をずっと避けてきた、ボクと、一局―― 一局、打って頂けませんか」 「……」 「お願いします」 つむじに感じる無言の圧力をじっと堪え、アキラは頭を下げ続けた。 出直して来いと言われたら、また時を改めて頭を下げよう。 この二ヶ月、――いや、それよりもずっと前から、ろくな姿勢で碁に向かっていなかった。 ヒカルだけに目を向け、それを言い訳にして、勝ち負けにもこだわらず、ただ機械のように義務を果たすべく適当に石を打って、碁を生業とする全ての棋士を侮辱しているも同然だった。 父が怒っているのは当然で、これまでアキラに対して一言の苦言もなかったのはそのせいかもしれない。 それでも、父がすでにアキラを見限っていたとしても。 この一局がなければ前には進めない。 父であり、師匠である目の前の人物は、アキラが碁を始めてからずっと目標としていた存在だったのだから。 『親父さんと打ってもらえ』 これだけ恵まれた環境にいながら、その有り難みを分かっていなかった。 『俺、塔矢先生みたいなプロ棋士になるのが夢なんです!』 勇気を振り絞って精一杯の言葉を伝えてくれたあの少年のように、堂々と正面から目指している人に向き合いたい。 打つことの喜びと楽しさを身体が思い出した。 残るは、心。 囲碁の道の厳しさと、それでもなおその道を目指した自分の意志を、もう一度信じたい。 そのために、全力で父に立ち向かいたい―― 「……、顔を上げなさい」 アキラははっと肩を揺らして、弾かれたように顎を持ち上げた。 父は身体をアキラに向け、涼し気な和装の袖にそれぞれ両手を差し入れたまま、静かにアキラを見下ろしていた。 アキラが身を屈めたままごくりと喉を上下させる。 父はおもむろに袖から腕を抜き、並べ途中だった盤上の石をざっと崩し始めた。黒と白に石を選り分け、手元の碁笥に石を仕舞い込むと、自らの対面に黒石の入った碁笥を置く。そうして再びアキラを見た。 「……座りなさい、アキラ。お前が先番だ」 淡々とした口調には何気なく耳にすると穏やかにも受け取れたが、声の端々に感じられるピリピリとした気迫をアキラは敏感に感じ取っていた。 細めた瞳の奥に、淡く燃える青い炎がアキラを威嚇する。 ――受けてくれた。 アキラは乾いた口唇を一舐めし、父に向かってもう一度深く頭を下げた。 「有難うございます……!」 中途半端な碁は許されない。 敬愛する大きな存在。息子として、弟子として、彼に恥じない碁を打ちたい。 アキラは身体を起こし、開けっ放しだった障子を閉めて、確かな足取りで父の対面へと移動した。 静座して毅然と背筋を伸ばし、実に数カ月に碁盤を挟んで父と向かい合う。 この一局に、全てを駆けるつもりで―― すうと息を吸い込んだアキラは、きっぱりと開始の挨拶を口にした。 「お願いします」 自らの声が心の中まで染み渡る。 これほど純粋な気持ちで「願い」を宣言するのはあまりに久しく、胸が震えた。 |
やっとお父さん喋りました。
いつもラスボス役お疲れ様です。