One more time,One more chance








『ヒカル』

 ……何処かで声がする。



『ヒカル』

 呼ばないでくれ。

『ヒカル』

 俺を呼ぶな。……振り向きたくないんだ……

『……カル』

 声が遠くなる。



『……カ、ル』

 待って。

『……ル』

 待てってば。行きたいけど、そこまで行けないんだ。

『……』

 声が聞こえない。

 待て。

 行くな。

 行かないでくれ、どうしても振り向けない、振り向けないんだ。

 行くな……


 消えるな――







「――ッ!」
 飛び起きるの言葉通りに上半身を跳ね上がらせたヒカルは、闇の中で蒼白な表情を晒して浅い息を切らせていた。
 見開いた目には薄暗い自室のぼやけた様子しか映らず、自分の荒い息づかいの他には何の音も聞こえてこない。
 徐々に呼吸が穏やかになり、身体を少し動かすと安っぽいパイプベッドがギ、と軋む音を立てた。
 ヒカルは眉間に皺を寄せ、ぐしゃりと潰すように前髪を掻き上げて、そのまま頭を垂らして膝に突っ伏した。





 ***





「おい進藤、聞いといてやったぞ!」
 翌朝ヒカルを見つけたバイト仲間の開口一番、ヒカルは表情が渋くなるのを強い意志をもって留めなければならなかった。
 夢見が悪かったせいで、朝からずっと気分がすっきりしない。起き抜けに鏡を覗いた時の冴えない顔色を見て、我ながら酷い顔だと溜め息をついたものだ。
 いまいち調子が出ないまま嫌々やってきたバイト先、まだぼんやりした頭にキンと響いたバイト仲間の大声は不快でしかない。
 おまけに案の定のおせっかいは、昨日ヒカルがやんわり断わった言葉を本気のものとは受け取ってくれなかったらしい。彼は喜々としてヒカルに近寄ってきた。
「親父にさ、前に騒いでた伝説の碁打ちってどんなやつよ? って聞いたらもーうるさくてうるさくて、長電話につきあわされたぜ」
「はは、悪かったな。でも、マジで俺そんな知りたかったわけじゃ……」
「まあ、そんな大した情報もないんだけどな。でも、ネット界じゃちょっとした話題なんだってよ」
 躊躇うヒカルを置いてきぼりに、ちょっと自分でも検索かけたりしたらいろいろ分かるかもな、なんていいながら彼はぺらぺらと話し始めた。
「昔ネット碁で勝ちまくってたヤツがいたらしくて、もちろん親父はその頃ネットなんてやってなかったからリアルタイムでは知らないらしいんだけどさ、碁仲間ではたまに話題にあがるくらい有名なヤツなんだってよ。名前はsai。エス・エー・アイでsaiって、変な名前だよなあ」
 ヒカルは浮かべていた愛想笑いをそのまま凍りつかせ、相槌さえ打つことができなかった。
 彼はそんなヒカルの様子に気付かないまま、父親から得たという情報を自慢気に説明してくれる。
「そんで、ある時期からぱったり姿を見せなくなっちまって、もう何年もネット碁に現れてなかったらしいんだけど、ここ三、四年くらい前からひょこっと出てきたんだってよ。最初はみんなニセモンだって思ってたみたいだけど、それが強いんだって! 負けナシで、月に何度か出てきては挑戦者をばたばた倒して、そういう親父もあっさりやられたクチらしくてさ……、進藤?」
 呼びかけは耳に届いていたが、如何せん身体が動かない。
 そんなはずはない、と頭の中で叫んでいる声は誰のものなのか。
 返事をしなくては不審に思われてしまう。でも、どう頑張っても口唇をほんの少し動かすことさえできなかった。

 エス・エー・アイ――sai。
 甦る過去の記憶。
 連戦連勝、ひと夏を費やして通いつめたネットカフェ。
『強い打ち手がいる。……saiという名だ』
 この身体を通して、確かに「アイツ」が打った軌跡……

「……藤、進藤!」
 揺さぶられて、ようやく意識を取り戻したヒカルは目の前のバイト仲間を呆然と見つめた。
 彼は心配そうにヒカルの顔を覗き込み、肩を揺すっている。
「おい、焦点あってねえぞ。大丈夫か?」
「……あ、ああ……」
「具合でも悪いのかよ? 顔真っ青だぞ」
「……いや、なんでもない……」
 ヒカルはやっと口唇に薄い笑みを乗せ、硬直していた筋肉が少しずつ動き始めたことを実感した。
 彼はまだ訝し気な目を向けていたが、ヒカルが普段通りを装って仕事の準備をしているのを確認し、首を傾げながらも追求するのはやめたようだった。
 ヒカルは強張った笑顔の裏で、恐るべき勢いで血液が循環しているような錯覚を感じていた。
 頬が、手のひらが、胸が熱い。
 腹の奥から突き上げられるような衝動が何なのか、すぐには理解できなかった。
 それは、久方ぶりに体感した大幅な感情の振れ――動揺というものに他ならなかった。




 帰宅後、ヒカルは昨日と違って今度は迷わずパソコンを立ち上げた。
 荷物を放り投げたまま、ジャケットも脱がずに発光するモニタ画面に食らいつく。
 のんびりと起動する様に爪を噛みながら焦れ、ようやく現れたデスクトップから素早くブラウザにマウスを走らせた。まだ立ち上がりきっていない画面上で何度も砂時計のアイコンが表示され、苛々と徐々に身を乗り出していく。
 何度も舌打ちをしながら、なんとか検索画面に辿りつき、もう二度と打ち込むことはないと思っていた単語を入力して――現れた検索結果を思い切ってクリックした。
 一昨日と同じ、見覚えのあるネット碁の画面が表示される。
 ヒカルは現在ネット上に上がっている登録者の名前をひとつひとつ、睨みつけるように確認した。

 ――誰かが、あの懐かしい名前を語っている。

 上から順に、一人一人、余すところ無く。
 見落としたりしないよう、瞬きを堪えて目を見開きながら。

 ――今はもういない、俺しか知らないはずの幽霊の名前を。

 耐え切れずに目を閉じる時は、どこまで見たかわかるようにカーソルをしっかり合わせてぎゅっと目を瞑った。
 そうして充分に眼球に潤いを与えてから、再びしっかりと目を開いて名前を追い始める。

 ――でも、もし……偽者じゃなかったら?

 追い続けた名前に終点が見え始めた。
 ヒカルは苦しげに目を細めて、最後まで名前を確かめた。

 もし、偽者じゃなかったら?
 佐為が……俺じゃない、他の誰かのところで甦ったのだとしたら?

 「sai」という登録者は見当たらず、ヒカルは脱力したように肩を落とした。
「月に何度か、って言ってたよな……」
 そう簡単に出会えるわけでもないということだろう。
 しかし、ネット上でちょっとした存在にはなっているようだから、しばらく張っていれば案外すぐに見つけられるかもしれない――そこまで考えて、ヒカルははっとする。

 ――「そいつ」を見つけてどうする?

 偽者かどうかを確かめるのだろうか? ……それを見極めて、一体どうなるというのだろう。
 とうの昔に囲碁を捨てた身で、今更佐為の碁かどうかを知って何になると言うのだろう。
「……」
 ヒカルは口唇を噛み、じっとモニタを眺めていたせいでじんわり痛む目を閉じた。
 答えなど、出るはずがなかった。
 とうに諦めていたはずの世界を、こんな形で再び振り返る日が来ようとは。
 あの名前を聞かなければ、いや、パソコンなど手に入れなければ、きっと一生思い出すことを拒否し続けただろう囲碁の世界。
 かつて夢見た場所はあまりに眩しすぎて、今の自分では目を開いて振り返ることさえ出来ない。
 諦めてしまったのだ。
 諦めてしまったのに、……何故こんなにも胸が疼く。






このお話は佐為が消えてから伊角さんが来なかった場合ですね。
そしてその後何一つきっかけがなかったという……不憫な。
和谷もアキラもたまたますれ違ってたのでしょう。
あれ、そう考えたらちょっと無理がある気もするけどまあいいか。