One more time,One more chance






 十年前に佐為が消えたとき。
 打たなければ、佐為が戻ってくるかもしれないと思っていた。
 自分のことばかり考えて、あまりに儚い存在だった佐為のことを思いやれず、そんな自分勝手さに佐為も嫌気がさしたのかもしれない。打たずに待ち続けていれば、佐為がある日ひょっこりと戻ってくるのではないかと……
『ヒカル、打ちましょう』
 佐為との出会いで人生が変わった。
 なんの興味もなかった「囲碁」というものに激しく惹かれ、強くなっていく自分が誇らしかった。
『ヒカル、私も打ちたいです』
 囲碁のためだけにこの世に留まった幽霊から、一番大切なものを奪っていたという自覚はなかった。
 佐為が何故消えてしまったのかは今でも分からない。
 「消してしまった」とは考えたくなかった。


 佐為がいなくなって、しばらく思いつく限りの場所を探し続けたが、とうとう見つけることはできなかった。
 虎次郎の縁の土地という因島まで出かけてみたりもした。秀策の墓にも行った。棋院、公園、土手、佐為と一緒に行ったあらゆる場所を探しても、気配ひとつ感じられなかった。
 打たなければ戻ってくるかもしれない。そう思って、碁盤に触る事をやめた。手合いも休み続け、そのサボタージュが目に余るようになったのか、お偉方から煩い電話がかかってくるようになってきた。
 佐為さえ戻ってくればまた打つことができる―― 一瞬そんな安易な考えが脳裏を掠って、自分は何も反省していないと自己嫌悪したりした。
 ――「俺が」打ったせいで佐為の居場所を奪ってしまったのに。
 だから、佐為が戻ってきたら、今度は我侭だなんて思ったりしないで存分に打たせてやろう。そう思って待ち続けた。一日が長く、そのくせ月日は無情なほど速く過ぎ去って、事態を楽観し過ぎていたことを思い知らされた。
 やがて高校進学についていよいよ本格的に親や教師と話し合わなければならなくなった頃、父親からけじめをつけろとどやされた。
 その時、初めて自分の口で親に告げた。「“俺は”もう打たない」と。
 はっきりと親に宣言したことで、自分の中の堰のようなものが切られてしまった。その後はとことん囲碁から離れようとして、碁の話題を出される度に異常なほどの抵抗を示した。
 子供じみた主張ばかりで何も動こうとしない自分の代わりに、両親が棋院に出向いて頭を下げたようだった。恐らく、あの時にプロ棋士としての資格は抹消されたのだろう。
 高校へは実家から通っていたが、碁盤はクローゼットの奥にしまいこんで三年間一度も取り出すことがなかった。
 卒業後は佐為と暮らした部屋にいる苦痛にいよいよ耐えられなくなり、ついに家を出た。たまに母親に促されて渋々帰った時も、出て行った時と何ら変わりのない自分の部屋のクローゼットは決して開かなかった。
 十年、一度も碁石には触れていない。
 碁の話にも耳を貸さず、かつてあれだけ夢中になった世界を自分の内側奥深くに封じ込めてしまった。
 ――だって、俺が打って何になる。
 佐為は本当に素晴らしい打ち手だった。彼を押しのけてまで自分がしゃしゃりでるメリットが何処にあるだろう? 力も弁えずに自分ばかりが打ちたがって、佐為の碁の価値も考えずに。
 だから、諦めてしまった。
 最初の数年はまだ僅かでも望みを持っていられた。
 でも、佐為は二度と戻らないんだと認めざるを得ないほど年月が経ってしまった今、改めて思い知らされたのだ。
 ひょっとしたら、自分が佐為を待っているのは、佐為が戻ってきたときに再び碁石に触れられることを期待しているのではないだろうか――?
 ……そう思ったら、強欲な心があまりに浅ましく感じて、もう二度と碁には触れるまいと自らの胸に鍵をかけた。
 佐為は戻らない。
 囲碁の道は諦めた。
 囲碁に出会う前の、もしも佐為が現れなかったら歩んだだろう道を、宛てもなくふらふらと彷徨うだけでいい。
 それなのに、何故今頃耳を掠った「sai」という名前にこんなにも反応している自分がいるのか。
 とうに諦めてしまった存在を追って、気付けばたった三文字を探して毎日のようにパソコンを覗き込む自分を否定しきれない。


 だってさよならひとつ言っていない。
 ある日突然いなくなってしまった。
 もしも他の誰かの身体を借りて、懐かしい幽霊が舞い戻ってきているのなら、
 ……何故自分に一言の憐れみさえかけてもらえないのかと……





 ***





 「sai」の話を聞いてからちょうど一週間が経過した夜だった。
「……!」
 先ほどまでは見当たらなかったネット碁への登録名に、ふいに「sai」という名前が上がって来た。
 ヒカルの心臓が跳ね上がる。
 あっと思う間もなく、誰かに対局を申し込まれて「sai」はそれを受けたようだった。
 観戦しようとマウスを握るのだが、指が震えてうまく動かせない。
 ヒカルは何度も生唾を飲み込んで、「sai」の対局を観戦するべくぎこちない動作でクリックした。
(「sai」が先番……持ち時間なし……すぐ秒読みか……)
 対局を申し込んだ白石は、数手見る限りでは素人でも玄人でもないそこそこの腕前、といったところだろうか。
 模範的な定石をきっちり守っているがそれだけである。
 対して黒石の「sai」は、対局相手の枠にはまった打ち筋を大きく広げてやる余裕はあるようだった。
(少なくとも、この白よりは断然上だ……でも……)
 持ち時間がないため、盤面の展開は早い。あっという間に黒と白の石で埋め尽くされる平面の碁盤の上に、白石の「投了」サインがポップアップ表示された。
(……これだけじゃ、何ともいえない……)
 相手の力が弱すぎて、「sai」の力を測ることは難しい。
 消化不良気味に終わってしまった対局に舌打ちしていると、続いての挑戦者が「sai」に対して名乗りを上げたようだった。
 「sai」は来るもの拒まずなのか、その申し出を受けたらしく、再び対局が始まる。ヒカルは「sai」の二戦目を観戦するべくマウスを走らせた。
 次の相手は先ほどの白よりは多少腕に覚えがある者のようだったが、「sai」は鮮やかに交わしていく。それどころか、半ば強引に陣地を築く相手に対して丁寧に補強を見せる様はまるで指導碁のようだった。
 強い、というのは間違いない。
 しかしかつてヒカルに宿った佐為と同じ力かと言われると、判断し難かった。
 相手が弱すぎる。そんな無意味にツケたりしないで、もっとじっくり囲んで攻めたほうがいい。うかつな攻撃は自分の首を絞めるだけだ。ああ、またそんな奥に飛び込んで……
 無駄の多い展開に気持ちが焦れて行く。自分だったらこんな打ち方はしない、と貧乏揺すりよろしく身体を揺らし、近付き過ぎるほどモニタを覗き込んで爪を噛んだ。
 これでは話にならない――ヒカルは思わず「対局登録」のボタンにカーソルを合わせようとして、はっとして踏みとどまった。
 無意識に囲碁を打つことを選択しようとした自分が、信じられなかった。
(……確かめて何になる……?)
 もう打たないと誓った自分が、いくらネット上とはいえ碁石を打つだなんて。
 本物か偽者かなんて、とっくの昔に囲碁を捨てた自分には関係ないはずだ。それなのに、「自ら打って」確かめるだなんて――十年碁石に触れてもいない鈍った腕で、何が見極められるというのだろう?
「……バカバカしい!」
 自嘲気味に吐き捨てたヒカルは、乱暴にブラウザを閉じた。
 胸に燻る未練を断ち切るように電源を落としたヒカルは、閉じたノートパソコンをCDが散乱するAVラックの中に無理矢理押し込んだ。
 そのくせ、どくどくと脈が煩く速度を上げていることに気付かないフリができなかった。
 マウスを握っていた右の手のひらが、発熱しているようにじんじんと疼いている。
 久方振りに見た碁盤。黒と白の石が創り出す無限の世界。ほんの一瞬の再会だったのに、確かに気持ちが昔のままに引き戻された。
 もう、諦めてしまった世界だというのに――
「……」
 ヒカルはわざとらしくパソコンに背を向けたまま、黙って床を睨み続けた。

 二色の石が何処までも広がり、新しい宇宙に繋がることを夢見ていたあの頃。
 ……あの頃のように、心がざわめいて落ち着かない……。






ネット碁、ちょっと調べてみたんですけどいろいろあるんですね。
サイトさんによって内容も様々のようで、どれか参考にさせて頂こうと思ったのですが……
当然ですけど登録しないと中が見れないんですね。
でも無駄に登録しても打つ腕もないしなあ……と諦めて、ほとんど憶測で書きました。
なのでところどころ感じる不審な点はどうぞ見なかったことに……!