『碁は打ちてーんだろ? 打ちてーよなっ!?』 俺はもう、打たねえんだ。 放っておいてくれよ。 『もう打たないってなに? プロやめるの!?』 やめるんだ、全部。 プロも、囲碁も。 だから、もう囲碁の話は俺の前でするな。 『打たないだとっ! ふざけるなっ!』 お前の望む碁はもう打てない。 アイツがいなくなっちまった。 打たせてやりたかったけど……、もう、無理なんだ。 だから、俺のことなんかもう忘れてくれ。 俺には何にも残っちゃいない。 アイツの碁を、あの素晴らしい碁を、活かせずに終わってしまった。 俺がアイツを食い破って、とうとう存在まで消してしまった。 俺が、俺が――俺が「打ちたい」と願ったせいで…… お前たちが求めているのは俺じゃない。 俺なんか、いたって何にもならねえんだ。 だから、もう追いかけて来ないでくれ。 俺を放っておいてくれ。 俺を見ないでくれ…… 闇があった。 見渡す限り黒い世界で、ぽつんと独りで佇んでいる。 ああ、そうか、と頷いた。 全ての人に見捨てられたから、こんなに世界が真っ暗なんだ。 ここには誰もいない。 誰の姿も見えず、誰の声も聴こえない。 もう誰も追っては来ない。 あの頃手に入れた輝きの欠片も見えない闇の中で、じっと息を殺して償いの方法を探してきた。 償いとは? ――消してしまった佐為への? では、佐為はやはり自分のせいで消えてしまったのか? 闇に答えは見出せない。どれだけ目を凝らしても何も見えない暗い場所で、いつまでこうして目を閉じていれば許されるのだろう? 諦めて手を離したあの場所に、もう二度と戻れない。 『ヒカル』 佐為がいたあの頃は、目に映るもの全てが真新しく煌いていた。 『ヒカル』 優しい囁きに導かれて、初めて開いた扉。囲碁という名のその場所は、ヒカルに新たな光を与えてくれた。 『ヒカル』 扇子が踊る碁盤の上に、懇親の一手を叩き込む。 技と技、気迫と気迫の真剣勝負。 いつだって前を見つめて、先ばかり急いでいた。 『ヒカル』 与えられたものが、失われる日が来ることなんて露ほども疑わず。 『ヒカル――』 ごめんな、佐為。 お前の願いを叶えてやれなかった。 神の一手を極めたいという、お前の純粋な囲碁への想いを俺が乗っ取ってしまった。 だから俺は、罰を受け入れるよ。 もう二度と、碁は打たない。 お前から奪ってしまった碁を、俺は二度と打たないから。 『ねえ、ヒカル』 『私が消えて、あなたまでもが囲碁を捨てた』 『それでは、あなたと共に在った私は――何処にも「生きた」証がないのですね……』 だって、お前が消えてしまったのに、俺だけ打ち続けるなんてできない。 俺はお前の代わりにはなれないし、何よりお前から囲碁を奪った自分が許せない。 そうだろう? だから俺は碁を諦めたんだ。もう二度と、打たないと誓ったんだ。 そうしたら、お前が戻って来てくれるんじゃないかって……ずっと、ずっと待ってたんだ。 何とか言えよ。 佐為。 そんな、哀しそうな声ばかり聴かせないで。 佐為。 言ってくれ。 一言でいい。姿が見えないのなら、もう戻れないのなら、たった一言だけでいいから。 「もういい」、と…… 『ねえ』 『ねえヒカル』 『囲碁は、つまらなくなんかないですよ』 『面白いでしょう』 『ヒカルは』 『囲碁が好きですか?』 ヒカルはゆっくりと瞼を開く。 開けっ放しのカーテン、窓からは薄ら白い光が覗いて夜明けの到来を告げていた。 しばらくベッドに仰向けに横たわったまま、おもむろに毛布から腕を引き抜いたヒカルは、ぐいと顔を拭った。 頬には涙の痕が筋を残していた。 *** いつものようにバイトへ向かい、いつものように適当に仕事をこなして、帰宅途中に夕食を買い、狭いアパートの一室で味気ない食事を取った後は、煙草を吹かしてぼんやりと時を過ごす。 その繰り返しで、日々とはただ移ろうものだと思っていた。思い込もうとしていた。やがて時が経てば、何もかもが懐かしい思い出の一部に取り込まれてしまうのだと。 それなのに、胸の痛みは消えない。 覚えていろと言わんばかりに、鈍く重く拍動を続け、存在を知らしめるように胸を打ち続ける。 ――痛みが消えない。 消えてしまった幽霊の代わりに、ずっとこの胸に居座り続けている。 いつまで抱えていけば良いのだろう。 どうすれば許されるのだろう。 ……あの時、どうすれば良かったのだろう? 考えても考えても、痛いばかりで答えは見出せない。 佐為と暮らした僅か二年半。 誰よりも傍にいて、心まで通じ合っているのだと思っていた。 佐為が消えてもう十年。 佐為と過ごした時間よりも、何倍もの時を独りで過ごして、分かったものは何もない。 確かなことは、佐為が囲碁を愛していたということ。 そして、自分が囲碁に興味を持ったことを、心から喜んでくれていたということ。 一度も否定をしなかった。自分が打つ碁に対し、真摯に指導をしてくれた佐為は、いつだってヒカルの碁に力を与えてくれていた。 打ちたかっただろうに、拙い碁が歯がゆい時もあっただろうに、――我侭を聞いてくれていたのは本当は佐為のほうだったのだ。 何処までも優しかった佐為。優しすぎて、ひょっとしたら消える時まで気を遣って何も言わなかったのだろうか。 そんな佐為の気持ちを一番近くで感じていながら、思うように打たせてやれなかった後悔が今でも胸を締め付ける。 もしも佐為が再び現れたのなら、思う存分打たせてやりたい。 あの輝かしい碁を、多くの人に広めてあげたい。 佐為の碁には何にも勝る価値があった。 誰にも、彼の碁を汚すことは許されない。 泣きながら目を覚ます朝が増え始めて一ヶ月、ヒカルはとうとうずっと顔を逸らし続けていたノートパソコンを引っ張り出した。 起動中の画面をじっと見つめ、時折思い出したように瞬きをする。閉じた口唇はしっかりと結ばれていて、揺るぎない決意を感じさせた。 ――本物なら、それでもいい。 ブラウザを立ち上げる。カーソルが砂時計に変わる様を苛立つ訳でもなく、ただ黙って見ていた。 ――もしも本当に佐為が甦ったのなら、今度こそ……思い通りに碁を打てているはずだ。ネットの世界だって、アイツはあんなに喜んでいた。 検索画面にいつもの単語を入力する。ブラウザに登録するのが躊躇われて、こうしてまどろっこしい手順を踏むのもこれで二度目。 ――アイツが喜んでるなら、俺はもう何も望まない。これからも、同じように生きていくだけだ…… ネット碁のサイトが表示され、ヒカルは深呼吸をする。 ――でも、もし。「sai」が偽者だったら。 軽く伏せた目を開いて、ずらりと並ぶ登録者の中から「sai」の文字を追った。 ――アイツの千年を遊び半分に弄ぶような偽者だったとしたら。 「sai」は、登録者の名前が半分を越えた辺りにその名をひっそりと鎮座させていた。 ――俺はそいつを許さない。 それが、今の俺に出来る唯一の償い。 夢の中で訴え続ける、佐為の哀しい声に応えてやれる唯一の贖罪…… 「sai」は対局中だった。まだ開始から三十分も経っていないが、すでに相手から十子以上のアゲハマを奪い、勝敗は見えている。 間もなく投了するだろう――ヒカルの予想通り、それから数分と持たずに相手は投了を示した。 それからほとんど休む暇もなく新たな対局希望者が現れたようで、「sai」はそれを受け入れたのだろう、対局が始まった。 ヒカルはすぐには観戦せず、まずは自らの名前を登録する。少し迷って、Sとした。これならばどこの誰だか分かるまい。 Sというハンドルネームを経て、改めてヒカルは「sai」の対局を観戦する。 今度の相手は定石も知らない初心者のようで、黒石と白石の迷走ぶりがレベルの違いを物語っている。 あまりに話にならない展開でも、ヒカルはもどかしい素振りを見せることなくじっとモニタを見つめていた。相手が投了のし時を判断できないのか、対局はずるずると長引いたが、ヒカルはパソコンの前から動かずにひたすら時を待っていた。 盤上のほとんどが黒と白の石で埋め尽くされようとした時、そこでようやく相手が状況に気づいたのだろう、遅すぎる投了で混沌の一局が終局する。 ヒカルはすかさず「sai」に対局を申し込んだ。 クリックと同時に、心臓がどくんと大きく音を立てる。 「sai」はすぐに了承のサインを寄越してきた。 (さあ、どっちだ?) 本物か、偽者か。 ……佐為の碁なのか、そうでないのか。 モニタ上の平面図とはいえ、ヒカルは実に十年ぶりに碁盤に向かって背筋を伸ばした。 |
この回がどうにも不自然で何度も書き直したんですが、
繰り返し見直しているうちに麻痺しちゃって……
ヒカルの迷走ぶりはそのせいかもです……