One more time,One more chance






 この十年、碁石に全く触れていないというのは本当だった。
 正直なところ、碁盤に向かってもまともな碁が打てるものか、不安がなかったはずがない。
 しかし不慣れなマウスを走らせ、ヒカルは自分の打つ一手一手に、眠っていた勝負への高揚感が目覚めていくのを感じていた。
 耳を澄ませば、聞こえるはずのない碁石の高らかな音さえ響いてくるような。
 無機質な画面からでも、懐かしい感覚はびりびりと肌を刺激する。
 序盤から仕掛けたヒカルに対し、最初の数手こそ様子を見ていたのだろう「sai」の打ち筋が一変した。
 これまでの格下の相手とは少し違うと判断したのか、弱い部分を容赦なく攻めてくる。その俊敏な石の動きには、ネット越しでも伝わるような気迫と貫禄があった。
(……強い)
 「sai」の陣形は隙も無駄もない。
 冷静に間を詰めて、ヒカルが崩れるのを淡々と狙っている。
 どの手をとっても溜め息が漏れるような読みの深さには、熟練の技が感じられた。腕前はかなりのものだ。これだけ打てる人間が、何故節操もなく申し込まれるがままに誰とでも対局を引き受けていたのか首を傾げるほど。
 何より、勝負慣れしている――ヒカルはぎゅっと口唇を噛み締めたまま、「sai」の懐に飛び込むべきか否かで決断を迫られていた。
(回り込んでも、先に叩かれて逃げ場はない。先に隅を攻めるか? それとも……)
 見事な構えだと、唸らざるを得ない。
 しかし、これが佐為の碁かと問われると、如何とも首を縦に振り難かった。
 強さは間違いないが、かつて何度となく感じた、厳かさと隣り合わせにある暖かさはこの碁の中には見つけられない。
 身体を共有していないから? ……それとも、やはりこの相手はただの偽者……?
(佐為なら、これが俺だと分かるはずだ。……佐為なら……)
 動揺はそのまま一手に現れた。
 うっかり放った悪手を利用され、一気に畳み掛けられる。
 補強が遅れて、地が奪われて行く。焦って判断に迷ったせいで、更に深い場所まで侵食を許してしまった。
(しまった……)
 少しの隙も見逃さず、ぐいぐいと入り込んでくる相手の石を、抑えきることができない。
 何とか立て直そうと打開を試みるが、攻撃も防御も相手のほうが上だ。多少の揺さぶりではビクともせず、形勢は変わらない。
(――ダメだ……)
 防ぎきれない。
 ヒカルは生きる道を見つけられず、投了を示すべくマウスを動かす。

 ――結局、デカイ口叩いて何にもできねえじゃねえか。
 あの頃と変わらない。俺なんかが打ったって……

 心の声が責め立てて、胸の痛みは激しくなった。
 思わず左手で胸を押さえながら、躊躇いを落胆が上回ったことを確かめて、そっと「投了」をクリックした。
 終わってしまった――息をつこうとして肩を下ろしかけた時。
 その瞬間、それまでずっと無反応だったチャット画面に文字が表示された。







『進藤か?』






「――!」
 驚愕は右手の素早い動きに表れた。
 ヒカルは画面に表示された文字の意味を理解するより前に、咄嗟にマウスを走らせブラウザを閉じてしまった。

 ……何が起こったのか分からなかった。
 目を見開いたまま、ただアイコンが並ぶデスクトップを呆然と眺め続ける。
 動けない身体の中枢で、どくんどくんと心臓が煩く胸を叩いていた。はあ、と短く息を吐き出すと、どっと全身から汗が噴き出して来た。

 ――今のは……一体……

 『進藤か?』と。
 確かに、そう書かれていた。
 「sai」が、チャットで尋ねてきたのだ。ヒカルに対し、『進藤か?』と。
(誰だ?)
 佐為ではない。ヒカルの直感はそう告げていた。
 佐為なら、あんな聞き方はしない。あんな碁は打たない。あそこまで攻撃的に、執拗な追い詰めを繰り返す碁は彼の本意ではないはずだ。
 ならば誰が? 誰が、今の一局でヒカルの存在を弾き出したのか?
(……誰だ……?)
 身体が熱い。手のひらが、指先が、ぴりぴりと痺れて熱を膿んでいる。
 問われた言葉への驚きだけではない。
 あまりに久しく打った碁に、身体が痺れている。
 ずっと触れていなかった黒と白の世界。自分に十年のブランクがあることも忘れて、勝つことだけを考えて画面に食らい付いた――余計なことを全て忘れて。
(ダメだ)
 まだじんわりと熱い右手のひらを、左手で押さえ付けるように握り締めた。
(これ以上を望んじゃ、ダメだ)
 今の一局は、佐為かどうかを確かめるために仕方なく打ったもの。
 囲碁の世界に戻ろうと思ってマウスを握った訳じゃない。
 ……これきりだ。
 あれは佐為ではない。「sai」の名を語ってはいるが、佐為の碁とは違う。
 確かに相当の強さではあるが、佐為の碁が持つ輝かしさとは空気の質が違っていた。
 だからと言って、今のヒカルにどうすることができるはずもない。
 お前は佐為ではないのだから、「sai」を語るなと口を出そうにも、あっさりやられてしまったこの程度の力では。
(……ダメだよ)
 宥めるように、心の中でそっと自分に囁きかける。

 ――もう、ダメだよ。ここまでだ。
 あれは佐為じゃなかった。佐為ではないけど、とても強くて、俺なんかじゃ敵わない。
 だから、もうおしまいだ。
 これ以上は許されない。
 もっと、打ちたいなんて……思っちゃいけない。

 あれは佐為ではない。
 佐為ではないが、確かにヒカルのことを知っていた。
 誰だ、とざわめく胸が苦しいけれど、更に奥に足を踏み入れたら、戻って来るのが辛くなる。
 誰でもいい。……あれは佐為ではない。
 もう、帰らなくては。
 全てを諦めてしまった元の世界へ……








 ***







『ヒカル』



『ヒカル』



『ヒカル……』





 まだ、夢を見る。














 無口になったなと、よく言われるようになった。
 そんなつもりはなかったから、「いや」と首を振ってみせるけれど、返って来る反応は芳しくない。
「お前、煙草やめた?」
 聞かれて初めてしばらく吸っていなかったことに気がついた。
 そう言えば、いつの間にかあの口淋しい感覚を忘れてしまっていた。
 煙草を吸い始めたのは、一人暮らしを始める少し前くらいからだっただろうか。……いつも苛々していた、不安定だったあの頃、やたらと新しいものに手を伸ばしてみたかった。
 煙を吸い込んだって美味しくもなんともなかったけれど、何に集中する訳でもない日々の中でくつろぐ理由を作ることができる、いつも手持ち無沙汰な自分にとっては重要なアイテムだった。
 それなのに、もう何日も咥えていない。
 吸わなくても、意識が別の場所へアンテナを伸ばしてピリピリと緊張している。
 夢を見る度にその感度は強くなる。
 ずっと背を向けていたところへ、たとえ僅かな時間でも振り向こうとしてしまった時から、心が揺さぶられ続けて笑い飛ばすことができない。
 あれから十年。
 何故、今になってこんなにも過去に捕われるのかと、何度も耳を目を塞ごうとしたけれど。
 ひょっとしたら、十年もの間、臆病な心はきっかけを待っていたのではないだろうか?
 息を潜めて、じっと時期が来るまで諦めたフリをしていただけではないだろうか?
 都合の良い解釈かもしれない。夢だって、自分の頭で造り出しているものなのだ。実に胡散臭いメッセージ。
 ――それでも、夢の中では佐為の声が聴こえる。
 働きながら、食事をしながら、歩きながら、話しながら、いつでもあの声が自分を呼んでいる。
 何日も経っているのに指先は痺れたまま。人さし指の先と中指の腹を擦り合わせ、伸びた爪の感触に思わず眉を顰めてしまう無意識の行動。
 思い出す度、胸が熱く高鳴る。
 たった一局、佐為ではない「sai」との激しい攻防が、いとも簡単に迷う心を捉えて離さない。
『進藤か?』
 あれは誰だ? 隙のない巧みな打ち回しで強さを誇示する、あの碁は誰の碁だったのだろう?
 あの短い対局で、十年も碁の世界に触れていない人間の存在を思い出してくれるだなんて、一体何者なのだろう?
 ほんの偶然だったのかもしれない。
 でも、必然にしたがっている自分を咎め切れない。
 諦めてしまったはずの場所へ、もう一度目を向けたい。
 夢を見る度、その思いは強くなる。





 真夜中に目が覚めた。
 午前三時――枕元に置いておいた携帯電話で時刻を確かめ、ヒカルは身体を起こしてベッドを抜け出る。
 水でも口に含めば落ち着くかもしれないと思った。しかし、先ほどまで頭に響いていた声がやけに脈を速めている。
 身体の熱が引かず、ヒカルはミネラルウォーターを一口飲んだ後、ワンルームの床に腰を下ろしてぼんやりと空を見つめていた。
 やがて、険しい顔はそのままに、これまで意識的に背を向けて来たAVラックを振り返る。
 無造作に突っ込まれたパソコンは、静かに時を待っていた。
 おもむろに立ち上がったヒカルは、口唇を固く結んだままAVラックに手を伸ばし、パソコンを持ち上げる。
 闇の中でブーンと起動音が響き、モニタの光に照らされてヒカルの顔にくっきりと陰影が落ちた。
 何度も繰り返した手順で、迷うこと無くネット碁のサイトを呼び出す。
 こんな真夜中だというのに、世界中の人に親しまれている場所のせいだろうか、登録者はそこそこの人数がいた。
 「sai」はそこにいた。
 誰とも対局をしておらず、ひっそりと名前だけを登録者の中に列ねていた。
 かつて見た「sai」は、誰からの誘いでも気軽に引き受けて対局をこなしていた。その「sai」が、ただネット上でじっとその身を置いたまま、何かを待っている。
 ……待っていると、思い込むのは驕りだろうか。
 そうだとしても、逸る胸を抑えられそうにない。
 ヒカルは慎重にマウスを動かし、「S」の名前でログインをした。
 それから僅か数秒後。――「sai」が、対局を申し込んで来た。
 ヒカルは目を閉じる。

 ――これが偶然ではないと言うのなら。
 その証を見せてくれ――

 目を開き、ヒカルは対局を受けた。
 迷いを薙ぎ払った瞳には静かな炎が宿っていた。






後半戦に入り展開もちょっと急です……
そして囲碁の部分はやっぱりなんとな〜くそれっぽく???
デタラメに書いているので詳しい方には申し訳ないです……!
この後何度か囲碁描写出てきますが、全編そんな感じです……