持ち時間は五時間。コミは六目半。先番は――「sai」。 ヒカルは大きく深呼吸をして、「sai」の初手を迎え撃つ形になった。 手広く構えて来たりはせず、早い展開で絡んで来る。待ちかねた、とでも言うように。 ヒカルは、右手はマウスを握り、左手は膝の上できつく拳を作って、全身に緊張を迸らせながらモニタに向かっていた。 この前の「sai」とは違う、と直感が働いた。 前回打った時とは碁から感じる雰囲気が違う。気迫の質も違う。 この力強さ。巧みさの中に見え隠れする、覚えのある強い意志。 (あ……) 震え出す拳の内側で、爪が手のひらを刺す。 覚えている。 忘れもしない、この碁。 拳の震えが伝わって、肩も背も、口唇も震えだした。 (この碁は……) 前向きで、ひたむきで、彼が持つ印象そのままにその碁はいつも真直ぐだった。 堪え切れず、ヒカルは解いた拳で口を覆う。 アイツだ、と掠れた声が呟いた。 碁会所で二度打った。 ネットでも、囲碁部の大会でも。 そのほとんどは本当は佐為が打ったものだったけれど、佐為を通して彼の碁はこの目で見ていた。 雪が降る中、記者室のモニタで見守った新初段の碁は、今でも初手から並べられるくらいはっきりと覚えている。 『逃げるなよ、今から打とう!』 『以前のキミに……垣間……神の一手を見たとさえ思ったのに……』 『俺じゃダメ? どういうことだ?』 『ボクはそう思わない』 鼻の奥がツンと痺れて、ヒカルは背中を丸めて俯く。 いつもいつも、期待させては失望させてばかりだった。 誰より多く佐為の碁に触れた彼にとっては、自分は得体の知れない存在だっただろう。 その不確かな力に、怯むことなく向かって来た。 きっと今も、あの真直ぐな目でモニタ越しのヒカルの姿をしっかりと捉えて―― 「……ッ」 喉が引き攣れるような苦痛を感じて、ヒカルはぐっと息を飲み込むことで波をやり過ごそうとした。しかし堪え切れずに開いた口唇の隙間から、ひく、としゃくりあげる音が漏れる。 口唇を覆っていた手のひらを広げて、鼻と目までも覆い隠す。不規則に跳ね上がる肩、指の隙間から熱い滴がぽたりと落ちた。 ――なんて執念だ。自嘲気味に釣り上げようとした口唇の端は、震えて笑みを浮かべるどころではなかった。 十年も経つのに、まだ覚えていたなんて。 とっくに人々の記憶から消えてしまったと思っていた自分が、まだ彼の心の片隅に存在を許されていた。 これ以上、まともに碁など打てそうにない。ヒカルは震える手でマウスを握り直し、そのまま「投了」を宣言した。 そうしてマウスから手を離し、ぐっと身体を抱き締める。 胸が苦しくて、嗚咽が止まらない身体の揺れを押さえ込むように腕に力を込めていると、ふいにチャット画面に文字が表示された。 『5日の午後六時、碁会所で待つ。君が現れるまでいつまでも待っている』 ヒカルは濡れた瞳で、次々に文字が表れるモニタを呆然と見つめていた。 『君が来なければ、「sai」の名はもらう。この名前で好き勝手されたくなければ、必ず来い』 『ブランクがあろうが、容赦はしない。死に物狂いで鍛え直して来ることだ。君が負けたら、ひとつ言うことを聞いてもらう』 『この提案に異論があるなら聞こう。このまま五分待つ。返事がなければ、了承したものと受け取る』 「sai」からのコメントでびっしりと埋まったチャット画面を見つめたまま、返事をしようにもヒカルは嗚咽に肩を揺らして動けずにいた。 五分は、永遠のようにも、ほんの一瞬のようにも感じられた。 『では、5日に』 きっかり五分後にそう表示されたのを最後に、「sai」の名が画面から消える。 取り残されたヒカルは、「sai」が消えた後のモニタをぼんやりと見つめたまま、随分と長いこと座り込んでいた。 変わらずに朝日は昇る。 毎朝毎日、時間は正確に流れて行き、自分独りが置き去りになっていると冷めた心で一歩退いていた。 太陽を見つめる目が憧憬の眼差しだったことに、気付いていながら素知らぬフリをして。 ――俺一人、どうなったところで誰が気づくわけでもない。 そんな自暴自棄な言葉を嘯いて、全てに顔を背けていればいつか何かが変わるとでも思っていたのだろうか。 きっかけは与えてもらった。 『君が来なければ、「sai」の名はもらう』 ここまでお膳立てされて、腰を上げられないなんて泣き言は言えない。 佐為のために封印したものを、佐為のために解放する。全ては佐為のため――そんな言い訳に、今一度しがみつかせてもらおう。 再び碁石に触れるのは、佐為の碁を守るため。鼻で笑われそうな、我ながら情けない理由付けだとは思うけれど、その大前提がなければ弱い心を奮い立たせることができない。 もう一度。諦めた世界を振り返るためには。 ……お前のために、もう一度だけ碁盤に向かう。 そんなの詭弁だって、お前は怒るかな。そうだよな。 だけど、お前から奪った囲碁で、アイツに応えてやりたいんだ。 二度と、打たないって言ってたのに、ごめんな。 でも、こんな俺でも、待っていてくれてるヤツがまだ残っていたから―― カーテンを開き、眩しい朝日を全身に浴びて、ヒカルは細めた目を逸らさずに光に向かった。 迷いを振り捨てた目は、もう揺らいではいなかった。 *** 半年ぶりに顔を見せた息子に対して、母親は「連絡くらいしなさい」と呆れた表情を浮かべていたが、挨拶もそこそこに二階の自室に向かったヒカルが碁盤を抱えて階段を降りてきたのを見たとき、その表情ははっきりと驚愕に変わった。 「ヒカル……あんた」 「……持ってくわ、これ。悪いけど、なんか包むものだけ貸して」 小さいが、しっかりした声でそう告げたヒカルに対し、呆けたようにぽかんと口を開けて息子を見上げていた母親が、数秒後にはっとして動き出した。 「そ、そうね。ちょっと待って。風呂敷持ってくるわ」 「……あんま派手な柄は勘弁な」 苦笑混じりにそんなことを呟くと、母はなんだか泣きそうな顔で笑い返してきた。 ろくでもない息子でごめんと、喉まで出かかった言葉は結局口には出せなかったけれど。 碁盤を抱えての道のりは思った以上に厳しかった。 十年ほったらかした重みが腕からびしびしと伝わってくる。 歩く一歩一歩ごとに、ごめんな、ごめんなと心の中で繰り返した。 謝ってばかりの再スタートだなんてみっともなくて情けないと思うけれど、今までは謝ることさえまともにできていなかったのだ。薄情な十年を振り返って、多少のみっともなさは天罰だと割り切って歩き続ける。 もう一度。もう一度だけ。 せめて、満足できる形で。 お前の名を語って俺を迎える相手に、恥じないような碁をもう一度。 お前が俺に遺してくれた、この碁を腐らせてしまわないように。 一人暮らしのアパートの床に碁盤を下ろすと、その見慣れない光景がやけにミスマッチで思わず苦笑いが零れた。 こうして碁盤をまじまじと見つめるのは本当に十年ぶり。 モニタ上の無機質な映像ではない、手を伸ばせばひんやりした木肌を指で感じられる本物の碁盤。 かつて佐為と向かい合って打った、あの大切なひととき。 ヒカルは携帯電話を取り出して、カレンダーを呼び出した。 彼が指定してきた五月五日まであと二週間。 チャットでの脅し文句を思い出してヒカルの口唇に皮肉めいた笑みが浮かぶ。 ――死に物狂いで鍛え直してくることだ―― 「……アイツ、無茶苦茶言いやがって……」 たった二週間で何ができるだろうと、考え込む時間すら許されない。 立ち向かうしかない。恐らくこれが最後のチャンスだ。 もう一度だけ、あの輝きに向かって腕を伸ばす、最後のチャンス。 碁盤の前に胡座をかいて、碁笥を手元に引き寄せる。 蓋を開き、そっと指で触れた碁石の滑らかな感触に、ヒカルはぶるりと身を震わせた。 甦る数々の思い出。 碁石もまともに持てなかった頃から、佐為は根気強く囲碁の面白さを説いてくれた。 黒石を指に挟むと、伸びた爪が邪魔で少し石が滑る。ヒカルは眉を顰めて、碁石を離すと爪切りを探し始めた。 ――最初は、小石もろくに打てなかったんだ。 パチンパチンと爪を切りながら、幼い頃のやりとりをぼんやりと思い出した。 『ヒカルこれ! この石で打ってみてください!』 『ヒカル、もう一回やってみて』 石を吹っ飛ばしたんだ、俺。ヒカルは少しだけ顔を綻ばせた。そういえば、いつからきちんと碁石を挟めるようになったのだったか……気付けば碁石を持つ指先はそれなりに様になっていて、その頃はもう囲碁の魅力にすっかり取り憑かれていた。 佐為はいつも優しかったけれど、囲碁に関しては容赦がなかった。 『見極めてギリギリまで踏み込むのです』 今一歩が踏み出せない時、発破をかけてもらってなんとか院生順位をそれ以上落とさずに済んだんだ――院生、という言葉の響きの懐かしさに目を細めながら、ヒカルは短くなった爪をそっと撫でた。 ――和谷、いいヤツだったよな。 『碁は打ちてーんだろ!?』 打ちたかったよ、とぽつりと呟く。 ……でも、打っちゃいけないと思っていた。今でもそう思っている。 もう一度碁石を持つのは、こんな俺に対してまだ望みを捨てていないヤツの想いに応えるためだ。 「sai」の名を語ってまで、俺を引っ張り出そうとした。アイツは、俺を煽るツボをよく知っていやがる…… 『この名前で好き勝手されたくなければ、必ず来い』 あんな分かりやすい喧嘩売られて、黙ってなくてもいいだろ? 佐為…… 『ヒカル』 痕跡を一切残さずに消えてしまった佐為。 『ヒカル』 今思えば、長い長い夢を見ていたのではないだろうか――そんなことをふと考えてしまうほど、彼の存在は儚かった。 『ねえヒカル』 だけど、確かなものがここにある。 『囲碁は』 佐為がこの腕に遺してくれた。 佐為から授かった碁が、この身体に生きている。 『面白いでしょう……?』 ――ああ、面白いよ。佐為。 ぱちりと、黒石ひとつを碁盤に打ち、その余韻に浸るようにヒカルは静かに目を閉じた。 睫毛の先がしっとりと濡れていた。 |
……というわけで最初のsaiは某さんじゃなかったようです!
なんとなく某さんは「そんな間怠っこしいことしていられない!」
とかってむやみやたらに歩き回っていそうな気がしたので……
きっと十年空回ってたんだそれで……愛しいなあ。