One more time,One more chance






 バイト代がほとんど本に化けた。
 十年も経てば、定石も随分変化している。古い知識だけでは通用しない。ましてやこの十年、全く碁に触れていなかったのだから知識以前の問題だった。
 勉強をし直さなければならない。ヒカルはバイト中も常に石の並びを頭に思い浮かべ、帰宅後は食事も忘れて石を並べて時を過ごした。
 二週間は短すぎる。それも相手は素人じゃない。十年腕を磨きに磨いただろう天才棋士だ。
 彼の新しい棋譜をいくつか手に入れ、並べてみては背筋に走る恐怖にも似た感動を味わった。
 ――佐為に見せたら、喜ぶだろうな。
 手に汗握る攻防が紙の上で繰り広げられている。
 こんなに面白い世界を、どうして今まで見ないフリをしていられた。
 碁のことだけを考えて時を過ごす。
 日々の充実を感じたのもまた、十年ぶりだった。


「進藤、明日の飲み会行かないの?」
 休憩中にすっかりトリップして、缶コーヒー片手にぼうっと壁を見つめていたヒカルの目の前に、エミがひょいっと顔を出してきた。
 一瞬何が起こったのか分からず、頭の中で広がっていた黒と白の碁石が散らばって、ようやくバイトの時間内だったことを思い出す。
「……ああ、行かねえよ」
 数分の不自然な間の後、受けた質問を理解して返事を返したヒカルに、エミはふうん、と軽く首を傾げて、まるで独り言のように呟いた。
「……進藤、ここ辞めんの?」
「え?」
 ぎくりと胸が竦む。
 誰にも告げていなかったのに――エミの透明な瞳に心の内を読まれたようで、体裁を整える暇もなく顔が強張った。
「やっぱ、そうなんだ」
 今時の女の子らしく、舌っ足らずに呟いたエミは、どこか飄々と肩を竦めた。
「……なんで分かった?」
「進藤、最近マジな顔してるから」
 ヒカルから顔を逸らして、エミはやはり小さな声で呟く。その独り言を拾いながら、ヒカルは少しだけ目を細めた。
 恐らく彼女は嗅ぎ取ったのだ。住む世界を変えてしまったヒカルの匂いを。
 多分もう男と女で逢うことはないのだろう。そう思った瞬間、さらりと言葉が出てきた。
「……俺、お前のこと好きだったよ」
 エミは驚きもせずに振り返って、「あたしもね」と告げた後、
「でも、マジな男、ダメなんだあたし」
 どこか冷めた目で笑いながら、軽い口調で続けたエミに、ヒカルは分かっていると言いたげに微笑んだ。
 スタッフルームを出る前、もう一度ヒカルを振り返ったエミは、相変わらずの軽い調子でこんなことを付け加えた。
「進藤、今のほうがカッコイイよ」
 思わず苦笑したヒカルも言い返す。
「そのカッコイイ男を振りやがって」
「あはは、つきあう気もないくせにー」
 エミは悪戯っぽく笑い、ドアの向こうに消えていく。
 女ってやつは怖いな、とヒカルは一人呟いて、パンと頬を軽く叩いた。
 弾みで閉じた目を開いた時、すでに囲碁以外のことは頭から消え去っていた。






 ***






 「sai」との対局から二週間後の朝――


 チャットでの指定は「碁会所」としか書かれていなかったが、ヒカルは迷わずその場所に出向いた。
 かつて二度彼と打った、懐かしいこの場所。
 すっかり面変わりした風景の中にぽつんと佇むビルを見上げ、ヒカルは小さく深呼吸をした。
 五階の窓に明かりがついている。
 エレベーターのゆっくりとした上昇音に合わせて心臓を落ち着け、到着したフロアでヒカルはいざ一歩を踏み出した。
 ガラスの自動ドア越しに見る中の様子はがらんとして、受付にも人がいるようには見えない。
 訝しがりながらも、電気がついているのだからとドアに近付くと、自動ドアはがらっと開いてヒカルを迎えてくれた。
「よく来てくれた」
 低い声に弾かれるように顔を上げたヒカルは、中央の座席から立ち上がった一人の男に視線を合わせて表情を引き締める。
 覚えている印象よりもずっと大人びて、少し髪の短くなった塔矢アキラがそこにいた。
 しゃんと背筋を伸ばした佇まいは昔と変わらなかったが、十年の時を経て体格も良くなり、元々精悍な顔つきに深みが増した。行洋に似ている、と咄嗟にヒカルは思った。
 切れ長の瞳はあの頃のように真直ぐにヒカルを見ている。
 ああ、変わらない――思わず目を細めたヒカルは、返事も出来ずにその場に立ち尽くした。
 アキラはカタンと椅子を押し退け、ゆっくりとヒカルに近付いて来る。真摯な視線は身体に刺さるような錯覚を感じさせた。
「呼び出してすまなかった。仕事の都合で空いている日が限られていたから」
 口を開けずにいるヒカルを不審がる様子もなく、穏やかな口調でアキラは淡々と語る。ヒカルの耳が記憶している声よりも随分低くなったその音もまた、アキラの父である行洋の面影を思わせた。
 本当に、十年経ったのだ。改めて、離れていた時間の長さを思い知らされる。
 あの頃、まだどちらも学生服を着て、心も身体も子供のままだった。十年経って身体だけは大きくなったが、では心はどうだろうと聞かれると――口籠らざるを得ない、とヒカルは苦い笑みを浮かべる。
 ようやく、ヒカルは心に踏ん切りをつけたように、静かに首を横に振った。
「……忙しいんだろ。大丈夫なのか、今日は」
 アキラの眉がぴくりと揺れ、ヒカルの声が聞けたことで安心したのだろうか、それから少し表情が柔らかくなった。
「いや、今日はもう予定がない。……キミが来るまで、いつまでも待つつもりだった」
「俺が、来なかったら?」
「来ると思っていたよ。……いや、実際には……半々、かな。来て欲しかった、というのが本音だ」
 アキラは穏やかに微笑んだ。
 ヒカルの覚えているアキラと言えば、鞘のない剣のようにぎらぎらと目を光らせているイメージが強かったのだが、今目の前にいるアキラは雰囲気自体が実に落ち着いている。
 彼の十年は、有意義だったのだろうか……。そんなことをぼんやり考えさせるほど、アキラの存在があまりに遠くに行ってしまったようで、ヒカルはつい顔を逸らしてしまう。
「……、最初の「sai」は……お前じゃねえな?」
 その場繕いで出て来た問いかけに、アキラは否定することなく頷いた。
「あれは……緒方さんだ」
「緒方先生……?」
 咄嗟に再びアキラを見てしまったヒカルは、もう一度ゆっくりと頷くアキラの静かな眼差しに魅入られた。
「四年ほど前だ。なかなか掴めないキミの消息に緒方さんが痺れを切らしてね。ひょっとしたらキミが気付くんじゃないかと、「sai」の名でネット碁に出始めるようになった」
「緒方先生が……俺を……?」
「キミのことを気にかけていたのは、ボクだけじゃない」
 ヒカルは驚きに目を見開いた。
 それであんなふうに誰とでも打っていたのか――ヒカルがどんな名前で登録しているか分からない以上、手当たり次第に打ってみる他確かめる方法はない。網にまんまとかかったという訳だ。
 アキラは僅かに眉を寄せながら、それでも口元は笑みを見せて軽く目を伏せた。
「ボクは正直、そんなやり方でキミが見つかるとは思っていなかった。直接足で探したほうが性に合っていた……数年経っても成果があるようではなかったしね。だから、先月緒方さんに「進藤らしき人と打った」と聞かされた時は……思わず耳を疑ったよ」
「それで、お前が……?」
「キミかどうかを確かめる大事な役だ。緒方さんに譲る訳にはいかない」
 きっぱりと言い切ったアキラの目に鋭い光が宿る。
 ヒカルは思わず息を呑んだ。
「キミが再び現れるまで、時間の許す限りネット上で待っていた。……打って、すぐにキミだと分かった……」
 アキラはすっと腕を持ち上げ、開いた手のひらを真直ぐに碁盤へ――先ほどアキラが座ってヒカルを待っていたその場所へ向けた。
「今日はもう店を閉めてもらった。誰も邪魔は入らない」
「……塔矢」
「最初に言っておくが、ボクは今タイトルを二つ持っている。しかし手加減をするつもりは全く無い」
 速まる口調の端々に、火花に似た熱が散り始めた。
 徐々に青い炎を帯びて行く真直ぐな瞳を受けて、ヒカルの腹の底からかつて感じたことのあるぞくぞくとした震えが産まれようとしていた。

『それを武者震いと言うのですよ』

 優しい声が聴こえた気がする。
 深く息を吸い、吐く。きつく握り締めた拳の内側で、短く切られた爪はもう刺さらない。
「さあ――打とうか」
 アキラの強い視線に、ヒカルは躊躇なく頷いた。






やっと若先生登場です!saiは白スーツでした……
すげえ勝ち誇って若に「進藤と打ったぜ」とか言ったっぽい。
今回はちょっとだけ名前つきオリキャラも出ちゃいました。
あってもなくてもいいようなシーンですが好みの問題ですね……