「家庭教師?」 怪訝な顔でアキラは聞き返す。 アキラの表情とは裏腹に、楽しげに微笑んだ母親の明子は事も無げに繰り返す。 「そうよ。美津子さんとお約束したの。息子さんの家庭教師をつけてあげるって」 「……美津子さんとはどなたです……」 碁盤に向かったまま、顔だけを部屋の入口に立っている明子に向けて、アキラは半ば諦め顔で尋ねた。 母はいつもこうだった。何やら一人合点して勝手に物事を決めてしまった後に、その決定に至る前後を一切省いてポイント部分のみを伝えてくる。本人は分かっていて話していても、アキラには何のことやらさっぱり理解できなかった。 アキラが辛抱強く明子に質問を繰り返し、その全貌が見えた頃にはすっかり疲れ果ててしまっていた。もちろん話を聞き出すことに疲れたというのもあるが、それ以上に内容にげんなりしてしまったのある。 明子が先日ショッピングに立ち寄った店で、学生時代の同級生に偶然会ったらしい。 懐かしさに立ち話を始め、喫茶店で腰を据え、昔話からお互いの近況まですっかり話に花が咲き、話題はいつしか自分たちの息子のことで盛り上がっていた。 「美津子さんの息子さん、あまり成績がよろしくないんですって。アキラさん、お勉強は得意でしょう? 家庭教師させましょうかって言ったら美津子さん喜んでくださって」 「……ボクに何の許可もなくですか」 アキラが低い声を出すと、明子の眉尻がキッと持ち上がる。 「まあアキラさん、迷惑だって言うの?」 「当たり前です。ボクはプロ棋士ですよ? 本当なら高校に通う時間だって惜しいのに、貴重な時間をどうして他人のために割かなければならないんです」 「あなたのお父様も高校に通いながら棋士活動をしていたんです、それは理由になりませんよ。それに、これはあなたのためでもあるんです」 食って掛かったアキラに怯まず、明子は厳しい表情でそう言った。 ボクのため? 聞き返すアキラに明子は深く頷く。 「アキラさん。あなた、同じくらいの年頃のお友達が一人もいないでしょう。あなたは昔から碁ばっかりで、少し周りに無頓着すぎるところがあるわ。高校に通ったり、お友達に勉強を教えたりすることは社会勉強のひとつなの。分かったわね」 アキラは渋い表情を隠さない。 母の言うことも分かるが、分かるだけで、アキラにとっては至極どうでも良いことだった。 棋士という特殊な職業には変わり者も多く、その中でアキラは礼儀も正しい方で、うわべだけとはいえ協調性にも優れている。確かに友人は少ないが、勝負の世界に生きる自分にとってそんなものは必要なかった。 お母さんはプロの世界を知らないから――しかしそんなふうに反論しようものなら、荷物一式纏めてこの家を出ろと言われかねない。母を怒らせることは天の怒りに等しいのだ。 アキラは渋々承諾した。もっともアキラの意志など関係なくすでに決定事項として明子は返事をしてしまっているのだから、アキラが嫌だと言ったところでどうにもならない。 「あなたと同じ年の息子さんですって。仲良くできるといいわね、アキラさん?」 明子はころころと笑いながら人事のように言った。 アキラはむすっとしたまま返事をしなかった。 *** 第一回目の家庭教師の当日。 アキラは明子に渡された住所のメモを頼りに、ある一軒家の前で表札を覗き込んでいた。 「進藤」――間違いない。 アキラは軽く深呼吸をして、チャイムを鳴らす。やがて中から「はーい」と声がして、ドアが静かに開いた。 現れたのは、母と同じ年頃の穏やかな表情の女性だった。 「アキラくんね? いらっしゃい。ごめんなさいね、面倒なことを頼んでしまって」 どうやら彼女が美津子だろう。アキラは日頃仕事で鍛えた営業スマイルを貼り付け、優雅に頭を下げてみせた。 「いえ、お役に立てるか分かりませんが」 「本当にあの子ったら頭が悪くって。苦労すると思うんだけど、よろしくね」 先行き不安になるような言葉を告げられ、アキラは内心うんざりしながらも鉄壁の笑顔を見せた。 「部屋は二階に上がってすぐよ」 教えられた通りに二階に上がり、ドアの前で軽く深呼吸する。 ――なんの、指導碁と同じようなものだ。教えるのが碁か勉強かというだけで、大した違いはない。 そんなふうに心の中を落ち着けて、ドアをノックする。 「ほーい」 随分軽い返事が返ってきた。 アキラは思わず顔を顰めながらも、気を取り直してそっとドアを開く。 「こんにちは……」 開いたドアの向こう、いるはずの人間の姿が見当たらない。あれ? と部屋に一歩足を踏み入れたアキラは、巡らせた視点をベッドに向けて固まった。 ごろんとベッドに寝そべっている青年が一人。まるで緊張感のないその様子に、アキラは最初見間違いかと思って目を擦ったくらいだ。 青年はよいしょ、とわざとらしい声を出して上半身を起こし、ドアのところで呆然と立っているアキラに「よ」と馴れ馴れしく手を上げてみせた。 「……、キミ、進藤……くん?」 思わず尋ねると、青年は悪びれずにへらっと笑う。 「そ、俺進藤ヒカル。お前が塔矢?」 いきなり呼び捨てで名前を呼ばれ、アキラはむっとした。 なんなんだ、この男は。勉強を教えてもらう身だというのに、偉そうにベッドに寝そべっていたりして。 おまけに前髪が金色に染まっていていかにも頭が悪そうだ。服装もだらしない。あんなにボタンをはだけて、しかもズボンからパンツが見えているではないか―― 先ほどまでは完璧だった笑顔が剥がれ、アキラは反動のようにきゅっと眉を寄せた。そんなアキラの表情を見て、ヒカルは相変わらずニヤニヤとふざけたような笑みを浮かべながらベッドから下りる。 「まーそんな硬くなんなよ。俺らタメだぜ?」 「タメ??」 「同じ歳ってこと」 ヒカルはアキラの横をすり抜けて、ベッドの後方に立てかけてあった折り畳みのテーブルを手に取る。四つの脚を開きながら、突っ立ったままのアキラを上目遣いに見上げた。 「ベンキョ教えてくれんだろ? お手柔らかに」 その口調が到底真面目に教わる人間のものとは思えずに、アキラは渋く顔を顰めて持参した重い鞄をどんとテーブルの脇に置いた。音の大きさにヒュウとヒカルが口笛を吹く。 真剣さを見せないヒカルを睨みつけたアキラは、てきぱきと鞄から筆記用具や参考書を取り出し始めた。 「あまりふざけるな。ボクはキミのお母さんから頼まれてここに来ているんだ……遊びに来たわけじゃない」 「分かってるよ、だからベンキョーすんだろ」 「分かっているなら真面目に座れ! 背筋を伸ばして、あぐらをかくな! ノートも出さないでどうやって勉強するんだ、さっさと準備をしろ!」 我慢できずに怒鳴りつけたアキラを丸くした目で見上げていたヒカルは、それでも怯んだ様子は見せずに飄々と肩を竦めていた。 「ひゅー、塔矢っておっかねえ」 「呼び捨てにするな。ここに来ている間はキミの教師役なんだ、先生と呼んでもらおうか」 「ハーイ、センセイ」 「ふざけるな!」 元気良く右手を挙げたヒカルを一喝したアキラはバンとテーブルを叩いた。呼べっていうから呼んだのにさ、とヒカルは口唇を尖らせてブツブツ言っている。 「まずはキミの成績表と、テストの答案も見せてもらう。どのくらいの学力か確認するから」 「ええ、全部見せんの? エッチ〜」 「訳の分からないことを言うな!」 冗談の通じないアキラにわざとらしい降参ポーズをとってみせたヒカルは、へいへいと生返事をして部屋の隅に立派に構えている勉強机へ向かっていった。 ヒカルが引出しを漁り出した時、コンコンとドアをノックする音が聞こえる。ヒカルが無反応なので、仕方なくアキラが「はい」と答えると、開いた扉からヒカルの母親が盆を手に現れた。 「冷たい飲み物で良かったかしら?」 ウーロン茶の入ったコップをテーブルに置くヒカルの母に、アキラは表情を引き締めて首を横に振った。 「すいません、お構いなく」 「何か欲しいものがあったら言ってちょうだいね。ヒカル、あんたしっかり教えてもらいなさいよ。今度のテストでまた赤点取ったら、アレ取り上げるからね!」 母の言葉に、ヒカルはべっと舌を出した。呆れた顔をしたヒカルの母は、アキラに向き直ると「こんな子ですけどお願いしますね」と再び頭を下げ、部屋を出た。 ヒカルは悪びれずに口笛を吹きながら引出しをゴソゴソ探っている。アキラはため息をついた。 「キミ、お母さんにあの態度はないだろう」 「いいんだよ、うるせえんだもん。……あった」 ようやく目的のものを見つけ出したのか、ヒカルは引出しを閉めた後、ぽいっとアキラの前にいくつかの紙を放り投げた。テーブルの上を滑るテストの答案用紙と成績表を慌てて捕まえたアキラは、その中身を見て愕然とする。 |
「オレンジ*ほりっく」の瞳さまに「書きますよ〜」とお約束してから
随分お待たせしてしまった捧げものです。(すすすいません……!)
パラレル世界の高校生アキヒカです。