ヒカルはアキラの隣にどすんとあぐらを掻いて、母親が置いていったウーロン茶にストローも使わずにごくごくと口付けた。 「コーラが良かったのになあ〜」 「……ふ……」 「ふ?」 「ふざけるな!」 突然怒鳴りだしたアキラにヒカルはひっくり返りそうな勢いで仰け反って、慌てて手に持っていたコップをテーブルの上に避難させる。 アキラは成績表と答案を広げて、その手をブルブルと震わせていた。 「なんだこの数字は……1ばっかりじゃないか! 唯一4が体育だけ!? 英語、数学、現国、古典、科学も地理も日本史も……! 主要教科が1ばっかりでこの先どうするんだ!」 「び、びっくりした……お前、急に大声出すなよ!」 「しかもなんだこのテストは! 図形の証明問題の解答が『何となく』だと!? この英語も……cousinの訳が何故『行進』になるんだ! キミは馬鹿か!」 「その通りだ、俺は馬鹿だ! だからお前を呼んだんだろうが!」 顔を真っ赤にして言い返したヒカルに、アキラは絶句し、苦々しく成績表を閉じると、一度気持ちを落ち着けるためにぎゅっと目を瞑った。 ――堪えろ。これは仕事だ。やってもみないで投了するわけにはいくまい…… ぱちっと目を開いたアキラは、どこか疲れた顔をしつつも覚悟を決めたように口元を引き締め、数学のテスト答案をヒカルの前に置いた。 「このテストを元に、基礎からやり直そう。数学の教科書出して」 「え〜、俺数学苦手〜」 「得意な教科なんてないだろう」 「……」 広げた教科書はやけに真新しく、手垢どころか折り目もついていない。第一章のページでかっちり折り目をつけたアキラは、ひとつひとつ説明をしていった。 「この形式が単項式。数字部分を係数、文字部分を次数と呼ぶんだ。この単項式を解くと、こうなる」 「フーン」 「異なる文字を掛け合わせると記述がこうなって……、おい、聞いているのか」 本来アキラの説明に合わせて教科書を向いていなければならないヒカルの視線は、はっきりアキラの横顔に向けられていた。 ヒカルを振り返ったアキラは当然正面から顔を合わせることになり、遠慮なくその整った眉を顰める。 「何処を見ている。教科書はこっちだ」 「ん? いや、お前の顔キレイだな〜と思って」 思いがけず同性にそんなことを言われて、アキラの頬がかっと赤くなる。その途端、してやったりとばかりにヒカルの口元がにやりと歪んだ。 アキラは慌ててヒカルから顔を逸らしてウーロン茶に手を伸ばす。冷たい液体を一口喉に流し込むと、少し気持ちが落ち着いた。 ――彼のペースに惑わされるな。きっとこうやってふざけて、相手が困るのを見て楽しんでるんだ…… およそアキラとは人種まで違うような困った性格だが、一度引き受けた任務は全うしなければ気が済まないアキラにとって、これしきで根を上げるわけにはいかなかった。 アキラは再び教科書に向き直り、説明を続けた。 「……で、同じ文字を掛け合わせると記述はこう。この場合はaが三つだから、aの三乗と……」 「ねえねえ、ちょっと髪触ってもいい?」 「はあ?」 数式とはまるきり関係ない伺いに、アキラはまたもヒカルを振り返らなければならなかった。 ヒカルはどこか目をキラキラさせてアキラの髪を見つめている。 「真っ黒でツヤツヤしてすげーさらっさら。ね、ちょっとだけ触らして?」 「な……」 「ちゃんと勉強も聞くからさ〜」 「ほ、本当だな」 アキラの低い呟きを了承を受け取ったのだろう、ヒカルは手を伸ばしてアキラの髪に触れてきた。最初は指先で爪弾くように、やがて髪の間に指を挿し入れて、上から下へと手櫛で梳くように。 こんなふうに人から髪に触れられたことのないアキラはその動きに戸惑ったが、顎まで届く長い髪が珍しいのかもしれない、とヒカルの奇行を黙認することにした。どうも落ち着きのない青年だから、じっと話を聞いているのは手持ち無沙汰なんだろうか。 触られている髪が気にはなるが、アキラはそのまま授業を進めることにした。 「……、それで、これらの数字と文字を全て掛け合わせるとこうなるんだ。この基本が分かっていれば、テストのこの問いは解けるだろう?」 「んー、こう?」 左手でアキラの髪を弄りながら、ヒカルは「17点」と書かれているテストの答案用紙の余白部分に間違った問題の新しい解答を記入する。 「そうじゃない、ここにbがふたつあるだろう。これはまとめて……」 「ああそっか、じゃ、こう?」 「……そうだ」 ようやく一問進んだが、その間にもヒカルはずっとアキラの髪を指に絡めたりしている。 髪を弄られ続けているアキラにとっては落ち着かないことこの上ない。 「……進藤」 「ん? 次は?」 「いつまで触ってるんだ?」 「あ、これ? だってなんかキモチイイんだもん」 そう言ってテーブルに身を乗り出したヒカルは、おもむろにアキラの顔を覗き込んでにやっと笑った。釣りあがった口唇の間にわざとらしく舌先を覗かせたその表情に、アキラはうっと怯む。 なんて卑猥な顔をするんだろう――疎いアキラも、ヒカルがアキラをからかおうとしている方向性を察して呆れてしまった。 アキラは以前、父が経営する碁会所で受け付けをしている市河に言われたことを思い出す。 『ホント、アキラくんって真面目で見るからに優等生! って感じよね〜。まあ女の子にも興味なさそうだから、私としては安心なんだけどね』 彼女の言う通り自分の外観が優等生であるなら、ヒカルはその真逆の印象である。見るからに遊んでいそうで、頭が悪そうで、異性にも興味深々といったところだろうか。 きっと彼の性格として、アキラのような固い人間を戸惑わせるのが大好きに違いない。そしてそのためには性的な揶揄が一番効果的だと思っているのだろう。 その手には乗るか、とアキラはヒカルの顔をぐいっと押しのけ、彼の右手を掴んで答案の上に置かせた。 「次、これも解いて」 「なんだよ、つれないの」 「ボクは勉強を教えに来たんだ。いい加減髪から手を離せ」 しつこいヒカルの左手を払い、アキラは弄られて乱れた髪を整える。 ヒカルは肩を竦めたようだった。構わずにアキラは指定した問題を人差し指でとんとんと叩き、ヒカルに早く解くよう促す。 ヒカルはハイハイ、と面倒そうな返事をして、汚い字で解答を書き込んだ。それが正解だったことにアキラはほっと息をつく。 「じゃあ、次。今度は多項式について……」 「あのさ」 「なんだ」 アキラはヒカルに目を合わせず、教科書の次のページをめくって再びきっちり折り目をつけながら返事をした。 じり、とヒカルがにじり寄ってくる気配がする。肩と肩が触れ合ったが、アキラは振り向かずにシャープペンシルを握り直した。 「お前が勉強教えてくれる代わりに、俺もいいこと教えようか?」 ヒカルの声が思いのほか近くから聞こえてきた。いつの間にここまで接近されていたのか……アキラはそれでも教科書を睨む視線を頑として動かさず、ヒカルの言葉を受け流す。 「結構だ。教えてもらいたいことなどない」 「まあそう言わず……勉強より面白いことっていっぱいあるんだぜ」 ふいにヒカルは指先でアキラの耳元の髪を掬い、現れた耳にふっと息を吹きかけてきた。 突然の刺激にアキラの首筋がざわりと粟立つ。思わず耳を押さえてヒカルを睨みつけた時、ヒカルの顔が異常な至近距離にあることにようやく気づいた。 近づいてくる顔が何をしようとしているのか理解したアキラは、咄嗟に腕を突っぱねて顔を極限まで背けた――が、腕が一歩間に合わず、ふにゃ、とあまり触れたことのない感覚が頬に押し付けられる。 「なんだよ、避けんなよぉ」 ヒカルは不満げな声を漏らしているが、アキラはショックで反応するどころではない。 頬にキスをされてしまった……それも男に。 せめて口唇を死守できて良かったというポジティブな考えにまで頭が働かず、見た目の通りにこういった経験値がうんと低かったアキラは、頬とはいえ口付けを許してしまったことへの驚きと怒りで目の前が真っ赤になってしまった。 とても耐えられない――アキラは手早く筆記用具を片付け始める。 冗談じゃない。こんなセクハラじみたことをする奴に勉強なんか教えられるものか。母親になんと罵られようと、この話はなかったことにしてもらおう―― ところが帰り支度を始めたアキラに対し、焦り出したのはヒカルだった。 「ちょ、な、何してんの? 待てよ、悪かった! もうしないから帰るなよ!」 「もう我慢できない。キミが勉強するつもりがないのはよく分かった!」 「ご、ごめん、勉強する! するから、頼むから帰らないで! もう変なことしないから!」 ヒカルは立ち上がろうとするアキラの腰に縋り付き、ぺこぺこと頭を下げる。アキラは振り解こうとしたが、あまりに必死なヒカルの様子に思わず力を抜いてしまった。 情けなく眉を垂らしてアキラを見上げているヒカルに、不信の目を向けつつもアキラは渋々口を開いた。 「……本当にもうしないか?」 「しない!」 間髪入れずに答えたヒカルをまじまじと見つめ、その目がにやけていないことを確認したアキラは、大きなため息をつきながら座り直した。 ヒカルはほっと安堵したように歯を見せて笑った。 「いいか、ボクは勉強を教えるために来ているんだ。勉強に関係ないことは禁止」 「分かりました、塔矢先生!」 調子の良い返答だが、これで少しは真面目になってくれるなら、とアキラは勉強を再開する。 その後のヒカルは大人しく、きちんとアキラの説明を聞いて生徒らしい態度を守っていた。 きっちり二時間数学と英語を教えて、第一回目の家庭教師はなんとか終了した。 |
ちょっと変態入ってるヒカです。
ちなみにヒカの解答は知人のものをそのまま引用。
久しぶりにアキラさんの台詞に「!」連発できて楽しかった!