RHAPSODY






 最後の一枚を教室で受け取った時、何とも複雑な溜め息をついた。
 思ったことは、――電話しなきゃ、と、――とうとう次が最後だ、の二つだった。
 ヒカルのテスト結果は前回を大きく上回る、母親が小躍りして喜ぶだろう点数で占められていた。




 ***




 震える指でメモに書かれた番号をプッシュしてから一週間後。
 いつも通りにやってきたアキラは、ヒカルの隣で軽く目を伏せて答案を次々に確認している。
 ヒカルは折り畳みテーブルに肘をつき、少し眠たそうなフリをしながらちらちらと横目でアキラを伺っていた。
 整った横顔。長い睫毛。きゅっと結ばれた口唇の凛々しさに、知らず溜め息が漏れそうになってぐっと息を呑み込んだ。
 電話をした時、その場で結果を言おうとしたヒカルを、アキラはやんわり遮った。
『いいよ、直接キミの家で見る。じゃあ来週』
 呆気無いほどあっさり通話は切れた。
 電話をかける前にうだうだと一時間も悩み、でも約束だからと意を決して繋がった通話、ヒカルは緊張のためにすっかり声を裏返らせていた。それをいつものハイテンションぶりにうまく見せ掛けて、調子の良い発言ばかりしていたのが気に障っただろうか。
 そう、ふざけてばかりいたのは緊張していたからだ。特に初日は酷かった。
 あんなふうに怒られるようなことばかりしていないと、とてもじっとして隣に座っているなんて無理な話だったのだ。浮かれて仕方のない心と、そのくせ目の前にぶら下げられた綺麗なパーツに品なく触ってしまいたくなる若い欲望。
 そんな暴走も最近はようやくコントロールできるようになっていた。だからこそ告白も決意したのだ。テンパってごまかさずにいられると思ったから、勇気を出して気持ちを伝えようと思ったのに……
 隣のアキラは黙って答案を見つめ続ける。時折小さく頷き、何かを納得したような素振りを見せて、一枚、また一枚と見終わった答案をテーブルに重ねていった。
 残りはあと一枚。それが最後なのだと思うと、ヒカルは淋しさを隠し切れない。
 ――あの時、彼女サンと一緒にいる塔矢を見なかったら、どうなってたのかなあ……
 気味悪がられて逃げられてしまったかもしれない。それよりは、今の状況のようにきちんとけじめをつけてお別れできるほうが良かったのだろうか。……少なくとも、心の整理はつきそうだった。時間がかかることは間違いないが。
 アキラは最後の一枚の端まで目を通し、それまでで一番大きく頷いてから、その一枚をテーブルの上の答案群に静かに重ねた。
 そしてヒカルを振り返り、穏やかに微笑んでくれる。
「うん。頑張ったね。これならボクも満足だ」
 ああ、綺麗な顔だ……などと見愡れていられるのもあと僅か。
 できるだけ目に焼きつけておこうと、なるべくわざとらしくならないように横目でアキラを見つめていた。
「じゃあ、これで家庭教師も終わりだね」
 ずん、と胸に重いものが落ちて来る。
 実際にアキラの口から「終わり」という言葉を聞くと、受けるショックも大きい。
「だから、ここからは勉強に関係ない話をしてもいいだろう」
 落ち込みかけていたヒカルは、アキラの奇妙な台詞に眉を寄せる。
 思わず顔を上げてアキラを見ると、アキラはじっとヒカルに意味ありげな目を向けていた。どきんと心臓を鳴らしたヒカルに、アキラは目を合わせたまま形の良い口を開く。
「キミに聞きたいことがある」
「……え?」
「キミ、囲碁をやっているそうだね」
「!」
 予想もしていなかった問いかけに、ヒカルは過敏すぎる反応を示した。
 顔を強張らせてざっと後ろに飛び退いてしまったヒカルを顔色も変えずに見ていたアキラは、落ち着いた声色で続ける。
「数年前から始めたんだって? 自分の碁盤も持っているとか」
「な、なんでそんなこと……」
「この前来た時、キミのお母さんから伺った。囲碁に夢中になり過ぎて前以上に勉強しなくなってしまった、と嘆いてらしたよ。でも、それもボクが来たおかげで解消されて有り難かった、と。……ボクのことを、以前から知っていたそうだね」
「……!」
 ――お母さんのバカ! よくも塔矢に余計なことを……!
 アキラが家に来ると決まった時から、ヒカルは母親に口止めをしていたのだ。
 アキラを一方的に知っている事は黙っていろ、それを目的に近付いたように思われるのは嫌だから、と。
 母も最初は話半分ながらハイハイと頷いていたのに、アキラが来て以来優等生然としたアキラの佇まいにすっかり痺れてしまったようで、そのまま聞かれたことをほいほい答えてしまったのだろう。
 なんて頼りにならない母親だ――ヒカルは何とアキラに答えたものか弱り果てて口唇を噛んでいると、アキラは尚も畳み掛けて来る。
「まあ、囲碁に興味を持っている人ならどこかでボクの名前を見ていたとしてもおかしくはないけれど。……それにしても、キミは随分ボクのことをよく知っていたようだ」
「……?」
「悪いとは思ったけど、この前見つけてしまった」
 アキラはそう言って、ヒカルに向けていた顔をおもむろにベッドに向ける。
 まさか、とヒカルが何かアクションを起こす前に、アキラは腕をベッドへ伸ばした。
「あっ……!」
 とめる間もなかった。アキラが伸ばした腕は真直ぐベッドの下に到達し、そこに隠してあった「あるもの」を掴んで引っ張り出す。
 ヒカルはもう声も出なかった。真っ赤になって、真っ青になった。
 アキラの手にあるものは雑誌と新聞紙。今の一度で掴み切れたものはその二種類だけだが、あの場所にはもっとたくさんの同様の雑誌類が隠されている。かつて佐為と一緒に、この部屋の床にずらりと並べてにやにや眺めていた宝物たちだ。
 アキラはその存在をすでに知っていたようで、自分が掴み出したそれらを一瞥してから再びヒカルを見た。
「この雑誌も新聞も。……ボクが載っているものばかりだ」
「あ……、あ、うう……」
「勝手に部屋の中のものを見たことは謝る。……碁盤は何処にあるのだろうと、軽い気持ちで覗いたんだ。驚いたよ。週間碁くらいなら囲碁好きなだけかと思ったけれど、囲碁に関係ない雑誌でインタビューを受けたものまで揃ってる。ボクだって自分の出ている雑誌をここまできっちり保管していない」
「うあ、あう……」
「キミはボクを囲碁の棋士だと知っていた。それだけじゃない、特別「ボク」に注目してくれていた。それなのに、何故自分も囲碁をやると言わなかった? 何故、ボクを知っていることを黙っていた?」
 アキラの瞳はあまりに真直ぐヒカルを捉えていて、ヒカルは呻く他にまともな言葉を発することができなかった。
 何故、だなんて。そんなこと決まっている。
 ヒカルは紙の中のアキラに一目惚れした。しかし、彼の囲碁を知ると今度は棋士としての塔矢アキラに惚れ込んだ。
 迷いがなく、気概のある碁。どんな苦境でも強気の攻めを見せる底力。棋譜を追えばぞくぞくと興奮に身体が震え、碁盤に並べると指先まで痺れるような感動がある。
 憧れの碁打ちと囲碁の話なんてできるはずがない。だって本当に好きなのだ。舞い上がって、興奮し過ぎて、きっと余計なことを口走ってしまう。――「お前の碁が、お前が好きだ」と。
 アキラの打つ碁にどれだけ惹かれていたか、一晩中だって語り尽くせる自信がある。その張本人と囲碁の話をするだなんて、そんな無謀なことできるはずがなかったのだ。
 困惑するヒカルを前に、アキラは攻撃の手を緩めない。
「それだけじゃない。何故突然家庭教師を終わりにすると言い出した? キミ、明らかに様子がおかしかった。底抜けに明るかったキミが終始俯いて、ボクが不審に思わない訳がないだろう。……差し出がましいことだとは思うが、何か、あったんだろう? その、彼女と喧嘩したとか……」
「はあ?」
 唐突におかしな言葉が飛び出して、ヒカルはつい間の抜けた声を漏らしてしまった。
 確かにこの話を始める前、アキラは「勉強に関係ない話をする」と言っていたが、それにしても発想が飛び過ぎではないか。一体今の流れでどうやったら彼女だなんて単語が出て来るのか。
 ヒカルが珍妙な顔をしていると、アキラは少し口籠った。それまでじっとヒカルから逸らさずにいた目を脇に泳がせ、言いにくそうに声を潜める。
「キミ、彼女がいるんだろう。とても美人の」
「彼女……? そ、そんなもんいないけど……」
 ようやくまともな言葉を口にすることができたのは、アキラの質問が丸きり的外れなものだったからだ。
 なんのやましさもない。それどころか考えたこともない彼女なんて存在を突つかれて、いきなりどうしたのかと純粋な疑問のほうが勝った。
 きょとんと答えたヒカルに対し、アキラは少しむっとした顔を見せた。
「いないはずないだろう。ボクは聞いたんだ。キミに最近彼女が出来て、嬉しそうに惚気ていると」
「はああ? 誰に? ノロケって、そんな覚えねえよ」
「キミのクラスメートだ。とても美人な彼女だそうじゃないか……それで、この前学校を早退してまで逢いに行ったんだろう? ボクの家庭教師があるはずだった日に」
「!」
 ヒカルはアキラが何のことを言っているのか思い当たって、あっと口を開けて目を丸くした。
「ば、ちが、違う! 彼女じゃない、それ、お前だ!」
「え?」
「あっ!」
 慌てて口を押さえるが遅すぎる。
 アキラは瞬きをして、いつも凛々しく閉じられている口をぽかんと半開きにした。
 一瞬で真っ赤に染まったヒカルは、無駄だと分かりつつも口をがっしり押さえたまま、アキラから顔を逸らして蹲った。
 しまった。なんて失態だ。うっかり口を滑らせてしまった。
 どうやってごまかそうと混乱を極めた頭を抱えているというのに、アキラは呆けたような声で呟いて来る。
「……ボク? ボクだって?」
「……」
「最近できた彼女が、ボク? 凄い美人だって自慢していた彼女が……」
「……!」
 いよいよ堪えられなくなったヒカルは、もうどうにでもなれと立ち上がった。
 そして驚いてヒカルを見上げているアキラに、真っ赤な顔で、おまけにほんのちょっと涙目でぶちまけ始めた。
「そうだよっ、お前だよ! で、でも彼女なんて俺は一言も言ってないっ! お、俺の大好きな、むちゃくちゃキレーなヤツの話をしただけだっ!」
「……それが、ボク?」
「……ぅだよっ!」
「キミ、ボクが好きなの?」
「……、……う、だよ……っ!」
 潤んでいた目に本格的に涙が溜まり始めて、ヒカルはぐいと二の腕で顔を擦る。
 なんて格好悪さだろう。ずっと胸に留めておこうと思った想いをこんな形で伝えることになろうとは。
 もう最悪だ。これできっと嫌われる。アキラの中で酷い悪夢として今日の出来事が残るのかと思うと、惨めで切なくてやりきれない。
「……じゃあ、何故家庭教師を終わりにするなんて言ったんだ? ボクのことが好きなんだろう?」
「……だって、お前! ……彼女いるんじゃん」
「……彼女??」
 アキラの問いかけにはわざとらしさがなかった。
 純粋に不思議そうに首を傾げているアキラに、ヒカルは少し不安を覚え始める。
「……いるだろ、彼女。俺、見たもん。彼女と二人で車乗ってた。あの日、お前急に家庭教師休みにしたから、あの人とどっか行くんだろうなって……」
 ヒカルの言葉にアキラはぽんと手を叩いた。
「ああ、市河さんのことか! 違うよ、彼女はうちの碁会所の受付をしていて、あの日はキミに逢うために車で送ってもらっただけだ。急な仕事で家庭教師に行けなくなったけど、お宅に電話しても誰も出なかったものだから。それで市河さんにキミの学校まで送ってもらったんだ。早退した後だったから、そのまま家まで来てしまうことになったけど……」
「……え?」
「第一、市河さんはボクより随分年上だよ。十歳近く離れているんだ、彼女にそんな気があるはずないだろう」
「……ええ……」
 ヒカルの顔の赤みがますます深くなる。
 アキラはなんだか謎が解けたとでも言うように晴れやかな顔をして、にっこりヒカルに微笑みかけた。その笑顔の鮮やかさにヒカルは膝から下の力が抜けそうになるのを何とか踏ん張った。
「……それで次の週に突然家庭教師をやめるなんて言い出したのか」
「うう……」
「ボクが好き?」
 もうやめて欲しい。意地悪く同じ質問を繰り返すアキラに、ヒカルは困り果てて眉を垂らすことが精一杯だった。
 その表情だけで充分だったのか、アキラは満足げに目を細めて、そっと自分の胸に手を当てた。
「そうか……。じゃあ、ボクのコレも、そういうことなんだろうな」
「……?」
 自分の胸を見下ろして嬉しそうに微笑むアキラを、ヒカルは不安げに見下ろす。そのアキラがおもむろに顔を上げ、すっくと立ち上がったので、ヒカルはぎょっとして一歩後退した。
 アキラはヒカルと向かい合って、きちんと目を合わせて告げた。
「ボクはあまり他人に興味を持つことがなかったが。キミは違った。呆れたり、怒ったり、苛々したり……急にキミが家庭教師をやめると言い出した時、ボクは切り捨てられたんだとショックだったよ」
「そ、んな、そんなつもりじゃ、」
「この感情は一体なんだろうと思ってた。でも、今分かった。キミに彼女がいないと分かった途端、柄にもなくほっとしてしまった。……キミがボクを好きだと言ってくれるなら。ボクも迷わずにいられる……ボクはキミが好きなんだ」
 ヒカルの大きな目が飛び出しそうなほど剥き出しになった。
 優しい微笑みを浮かべて、目の前でとんでもない台詞を言ったアキラ。そのアキラの前で完全に固まったヒカルは、声を発することもできずにただただ呆然としていた。
 石像と化したヒカルに苦笑して、アキラは不自然に浮いたままのヒカルの手をそっと握る。その暖かさに、ガチガチになっていたヒカルの身体がびくんと跳ねた。
 アキラが一歩近付いた。思わず後ずさろうとしたヒカルだが、手を取られているのでかなわない。
「……最初の日、言ってたよね。いいこと、教えてくれるって」
「……!」
「あれ、教えてくれないかな?」
 囁くようにそう告げたアキラの口唇が、静かにヒカルに近付いて来た。ぼん、と爆発音を響かせそうなほど顔を茹だらせたヒカルは、慌てて腕を突っぱねる。
「あっ、あのっ、あれは! その、照れ隠しとゆーか、そのっ……!」
「その?」
「……ほ、ホントは、……俺も初めてで……」
 消え入りそうな声で呟くヒカルの手を握りながら、少しだけ目を大きく見開いたアキラは、やがて安心したようにほっと顔を綻ばせた。
「そう。……じゃあ、これから二人で勉強していこうか」
「えっ……、ん、」
 照れ隠しの言葉は柔らかく塞がれて、それ以上の言い訳は言えず終いだった。
 口唇が離れた後、へなへなと座り込んだヒカルは、これが夢なら覚めないでくれ! ――と本気で神様に、佐為にお祈りをしたくなった。
 こんな時でも、ああ、睫毛長えなあ、綺麗だなあ、ツヤツヤの髪に触りたいなあなんて思ってしまったのは一種の現実逃避だったのだろうか――




 その日以来、学力には関係ない勉強を始めることになった二人だったが。
 後日、せっかくだからと初めて二人で碁盤を囲み、人と対局したことがないからと謙遜するヒカルの言葉に反した凄まじい棋力に、激しく驚愕したアキラが別な意味でもヒカルを追い掛けるようになったのは、もう少し先の話。






ずうっと前に瞳さんから戴いていたリクエスト、
ようやく完結してお届けできました。遅くなってすいません!
リクエスト内容の要約は『真面目で優等生なアキラさんが
ヒカルのカテキョをすることになって、(見た目)遊び人で
ノリの軽いヒカルのセクハラ行動に翻弄されたりするんだけど、
ある時からヒカルのスキンシップがパタリとなくなって、
また好きな人がいるらしいことが分かって苦しむ』
プラス『小悪魔だけどなんか惹かれちゃうヒカルの魅力』
……でした。後半部分のリクに応えられてるかは「?」ですが、
前半はもう戴いたプロット通りに楽しく書かせて頂きました〜。
(要約以外にもホント詳しく書いて下さってたのですよ!)
しかし変態度はちょっとアップさせたかもしれませぬ。
一応この先の展開もぼんやり考えていたんですが、今回は一旦これで。
いつか続き書きたいなあ〜30万感謝祭が終わったらやってみたいです。
瞳さん素敵なリクエスト有難うございましたv
(BGM:RHAPSODY/BUCK-TICK)