「……あれ?」 えいと開いた自宅のドアの向こう、玄関にはきっちりと揃えられた一足の革靴がある。 見覚えのある靴が誰のものか思い出したヒカルは、ほんのり赤くなり、そしてすぐに青くなった。慌てて時計を確認するが、まだ予定の六時には二十分ほど余裕がある。 振り落とすようにスニーカーを脱いで、自室より先に居間へ飛び込んだ。 母親を探してキッチンに顔を突っ込むと、冷蔵庫の扉に手をかけていた母がヒカルを見つけてあら、と声を上げた。 「あんたやっと帰ってきたの。アキラくん、部屋で待ってるわよ」 「部屋で……って、やっぱ塔矢もういんの!? きょ、今日六時じゃなかったっけ?」 「少し早く見えたのよ。一時間くらい前かしらね……」 母親の言葉を皆まで聞かず、ヒカルは急いで居間を出て階段を駆け上がる。 一時間も待たせてしまったとは! 何だって今日に限ってこんなに早くやってきたのかは分からないが、なかなか帰って来ないヒカルに対して気を悪くしていたらどうしよう―― 青ざめたままバタンと開いた扉の向こう、アキラはいつものように自分で折り畳みのテーブルを出して、戸口のヒカルに向かって背筋を伸ばして正座していた。 ドアのところで思わず固まってしまったヒカルへ顔を向けて、「お邪魔してたよ」と穏やかに微笑む。 その品のある微笑みにズキンと心臓を打ち抜かれたヒカルは、ふにゃふにゃと崩れそうな足を必死で踏ん張って部屋の中に入った。 「ご、ごめん、待たせて。早く来てたんだって?」 「ああ、いや、ボクが勝手に時間より早く来ただけだから。気にしないでくれ」 珍しくにこやかで随分機嫌が良さそうだ。何か良いことでもあったのだろうか…… そんな想像をしかけたヒカルの頭の中に、先日アキラと一緒にいた女性の姿がぼんやり浮かんで来る。ちらりと見ただけではっきりとは覚えていない……ただ綺麗な人だったとしか思い出せないその人が原因かもしれないと思うと、先ほどとは違う痛みを伴って再び心臓が音を立てた。 先週はあからさまに落ち込みっぷりを放出してしまったので、アキラも心配そうな素振りを見せてくれていた。しかし今日のアキラはヒカルの様子を伺うようなこともなく、普段通りに教科書と参考書を並べてヒカルが座るのを待っている。 関心さえもないということだろうか――ますます凹んだヒカルは、それでも最後の二時間を迎えるためにアキラの隣に腰を下ろした。 最後の授業。もうこれで、本当にお終いなんだ…… 「……うん、これはよく解けたね。初めの頃と比べると凄い進歩だ」 淡々と褒め言葉をくれるアキラの端正な横顔を盗み見て、ヒカルはひっそり口唇の内側を噛んだ。 以前だったらどれほど喜んだか知れない言葉だって、最後だと思えば哀しみが募るだけ。 ヒカルの汚い字で埋まった問題集に赤ペンでマルをつけていく右手。長くて綺麗な指……無駄毛もなくて……すべすべでいい匂いがして…… ――ああ……撫で回してえ…… いつしかだらんと垂れ下がった目でアキラの右手を視姦しまくっていたヒカルは、慌てて顔に力を込める。 ダメだ、もう諦めるって決めたんだから。べたべたいつまでも触らせてもらってたら未練ばかりが残ってしまって仕方がない。 「……よし。正答率が七割まで上がった。……今日もご褒美、いらないの?」 ちら、とアキラの目線が突然流れてきて、ヒカルはびくりと背筋を伸ばした。 切れ長の瞳をぐるりと囲むように生えている長い睫毛にうっかり見愡れそうになりながら、泣く泣く首を縦に振った。 最後なんだから思い出に触らせてもらってもいいかな、なんて少しは考えたけれど。……でももし、その綺麗な右手であの女の人の頬や髪に触れたことがあるかもしれない、なんて思うとやっぱり苦しくて耐えられない。 ――だって俺、コイツの前では格好つけて慣れたフリしてたけど。ぶっちゃけ、チューもしたことねえもん…… 初日のどさくさ紛れは賭けでもあったのだ。万が一ふざけた弾みでアキラとキスできたらもう死んでもいいなんて思っていた。 ――チキショー、こんなことならやっぱあの時無理矢理チューしとくんだった…… 「……さて、そろそろ時間かな」 トン、と教科書を揃える音がする。 はっと顔を上げたヒカルは、またすぐに俯いた。 とうとう終わってしまった。憧れの人がこんなに近くにいた幸せな時間。 何とかして触ろうとしたり気を引きたくてふざけたりもしたけれど――しかし勝負パンツを穿いても可愛いピンを髪につけてみてもノーリアクションだった――、アキラはいつも馬鹿がつくほど真面目に勉強を教えてくれた。時に相当なスパルタ教育だったが、実際に成果も出ている、と思う。 あれだけとんでもない珍解答ばかり生み出していたヒカルに根気良くつき合ってくれた。毎週二時間……プロ棋士として活動しているアキラにとっては惜しい時間だっただろう。 淋しさに浸るのはこの後いつでもできる。まずは今までのお礼を言わなければと、ヒカルは膝の上に置いていた両の拳を握り締めた。 「あの……、その、今まで、サンキュ。勉強教えてくれて……」 アキラが振り向いた気配を感じた。 「マジ、助かった。これでちゃんと進級できそうだし……次のテスト、結構自信あるかな〜なんて……」 「……テストは来週だろう? まだ、前回より良い点数を取ると決まった訳じゃないよ」 「え」 思わず顔を上げたヒカルを、アキラがじっと見つめていた。 真直ぐな視線にたじろぐヒカルに構わず、アキラはヒカルから目を逸らさずに淡々と告げる。 「まだ、今日で終わりだと確定した訳じゃない。テストの結果次第では、また家庭教師を継続することになるかもしれない……ボクは先週そう伺ったが」 「あ……、そ、そだけどさ……」 「仮にテストの点数が良かったとしてもだ。解答はボクも確認したい。テストの結果を見に、また来るよ」 「えっ!?」 予想していなかったアキラの発言にヒカルは大声を出した。 しかしそんなヒカルの反応も気にせずに、アキラは着々と帰る準備を進めている。 「で、でも……、答案返って来るのバラバラだし……」 「じゃあ、全部揃ったら連絡してくれ。いつでも構わない」 そう答えたアキラは鞄からスケジュール帳を取り出すと、メモ部分を千切り取ってさらさらと何か記述した。 その紙切れをヒカルにぐいと突き出す――勢いに押されてうっかり受け取ってしまったヒカルは、そこに書かれている数字の並びを見てぎょっとする。 ――これ……、ひょっとして塔矢の…… 「電話して」 念押しするように囁かれた一言で、また情けなく心臓が竦む。 アキラはすっと立ち上がった。その直線の動きはヒカルに否定の言葉を言わせないような態度に受け取れた。 ヒカルはメモの切れ端を手にしたまま、あ、う、と奇妙な声を漏らす。さくさくと扉に向かうアキラを追いかけようと脳は指令を出しているのだが、腰が抜けてしまって立てやしない。 「じゃあ、また」 短い別れの言葉を残し、アキラは扉の向こうに消えて行った。 ヒカルは呆然とメモを見直した――これ、携帯の番号だ…… メモを持つ指先が震える。フラフラと引き寄せられるように顔を近付け、匂いを嗅ごうと鼻から息を吸い込みかけたところではっと我に返った。 ――塔矢の携帯番号を入手してしまった! ――会うのは最後と覚悟を決めていた日にこんな思いがけないお宝を手に入れようとは。 携帯電話、つまりアキラのプライベートアイテム。勉強以外の無駄話を全くしなかったアキラの携帯番号を知る機会なんて一生ないと思っていたのに。ヒカルの心は揺れる。 ――ひょっとして、塔矢も俺に気があったりして。 つい浮かれたことを考えかけて、いいや、と首を横に振り項垂れた。 あの綺麗な人がいたではないか。二人で車に乗っているなんてきっと親密な間柄だ。くだらない夢を見るのはよそう、自分が虚しくなるだけだから……ヒカルは哀し気にメモを睨み、どうしたものかと首を捻る。 『電話して』 きっぱりとしていた、アキラの声。 連絡をしなければ最後の最後に印象が悪くなってしまう。元々初対面から印象なんて最悪だっただろうとは思うが、それでもラストはヒカルにとっても美しい思い出で終わらせたいのだ。 テストが全部返ってきたらアキラの携帯に電話する。それは酷く甘い罠のようで、想像するだけで指先から身体の芯まで痺れたようにぼうっとしてしまうのだった。 *** テスト期間がスタートした。 初日から曲者の数学がヒカルを待ち構えていたが、さすがアキラの教えは確かだったようで、後半は時間のなさに手こずりながらもそれなりに満足できる内容になった。 本当はわざと悪い点数をとってみようか、なんて姑息なことを考えたりもした。 しかし、あんなに一生懸命教えてくれたアキラに対してそれはあまりに失礼だと考え直した。いくら一緒にいたいからと言って、不正を犯して悪い結果を出すだなんてアキラにいよいよ見放されてしまう。 ちゃんと頑張ろう。教えてもらった通りに。そして、アキラに伸ばしてもらった力を見てもらって、今度こそ本当にさよならするんだ―― 構文を叩き込まれた英語も、年号が夢に出るくらい説明された日本史も、どの教科も以前のテストに比べて格段に手ごたえがあった。 テスト最終日、いい報告が出来そうだと、考えていることとは裏腹にヒカルは淋し気な微笑を浮かべた。 「テスト、どうだった?」 帰宅したヒカルを玄関まで出迎えてくれた母親に、ヒカルは黙ってピースサインを見せる。母は組んだ両手を頬の横に添え、目を輝かせた。 「ホントね? 期待していいのね?」 「学年トップとかは期待しないでよ? 前よりは良かったってだけだからさ」 「それでも充分よ。アキラくんに来てもらって良かったわねえ。ねえ、もうちょっと見てもらったら? あんただってアキラくんが家庭教師に来てくれるって分かった時、あんなに喜んでたじゃない」 痛いところをさらりと突いて来る。ヒカルは言葉に詰まりながらも、なるべく平静を装って答えた。 「塔矢は俺なんかと違ってすげー忙しい人なの! 囲碁のプロって年に何人かしかなれないんだぜ。お母さんは知らないだろうけどさ、アイツマジですっげーヤツなんだから」 「そうみたいねえ。でも、礼儀正しくてとってもいい子だし、お母さんアキラくんが来るの楽しみにしてたのに」 「お母さんの楽しみなんかどうでもいいだろ。とにかく、アイツは俺の勉強なんて見てる暇ねーの!」 母親の言葉を半ば無理矢理遮って、ヒカルはばたばた騒々しく階段を駆け上がった。 あまりアキラの話題を、未練を助長させるようなことを振らないで欲しい。 テストが返却されるまで数日あるだろうけれど、前回より上回っていることは間違いがない。――つまり、アキラにテスト結果を報告すればそれで今度こそお終いというわけで。 辛いし哀しいし惨めだけれど、アキラのためだ。そして報われない自分のため。初恋は実らないと言うし、将来あんな素敵な出来事もあったなあなんて夢のような日々を思い出せる日が来るかもしれない。 だから今はじっと我慢するのだ。……気を緩めると涙が滲みそうな目をキッと釣り上げて。 |
変態はへたれでもありました……
トリプルHです(変態・へたれ・ヒカル)