起床後、三人は朝から中韓の棋譜研究を始め、それまでの二日に比べて穏やかな時間が過ぎていった合宿三日目。 夕方近くなり、さて夕飯をどうするか、という時刻になった頃、突然社が身支度を整え始めた。 ヒカルとアキラの不思議そうな視線を受けながら、社は何でもないことのようにさらりと告げた。 「俺、これから和谷ん家行って来るわ」 「はあ!?」 大声を出したのはヒカルだった。 ちょっとそこまで、といった感じの口調でありながら、社は荷物を全てまとめてしまっている。 まるで、もうこの塔矢家には戻って来ないような格好だ。 「ま、待てよ、なんで和谷ん家?」 「あー、言っとらんかったか。俺、最終日は和谷んとこで合宿なんや。越智や伊角さん、門脇さんや冴木さんも来るんやで」 ヒカルは目を丸くする。和谷や越智はともかく、門脇や冴木の名前が社から出てくるだなんて。ぱちぱち瞬きを繰り返すヒカルに対し、社は飄々として掴めない表情をしている。 「な、なんで……?」 「俺の交友範囲は広いんや。知らんかったやろ」 「お、俺だって和谷とは友達だ!」 「知っとるわそんなん。ま、そんな訳で今夜は向こうで泊まるから、明日レセプションで会おうな〜」 ほな、と朗らかに手を上げてさっさと部屋を出ようとする社の腕を、ヒカルは慌てて捕まえる。 「なんやねん」 「……お前、俺らに気ぃ使ってんのか?」 思わず聞かずにいられなかった。 社がおかしな気を回して、ヒカルとアキラを二人にさせようと仕組んだのでは―― しかし、社は口唇を尖らせてむっとした顔を作る。 「阿呆、俺は元々和谷に連絡しとったんや。去年誰のせいで合宿できんかったと思っとる? そん時に急遽代わりの合宿をセッティングしてくれたのが和谷様や。今年もいっちょよろしく頼むって、あらかじめお願いしとったんやからな」 「な、なら俺も」 「お前は呼ばれてへんやろが。あの狭い部屋、知っとんのやろ。定員オーバーや」 ばっさり切り捨てられたヒカルは、唖然として社から手を離した。 社は大袈裟に首を回して、改めて荷物を抱え直すと、ヒカルの肩にどんっと手を置いた。 「俺はお前らと違って余裕ないねん。お前らは明日に備えてのんびりしとき。ほな行くわ」 にっと歯を見せた社は颯爽と客間を出て行く。 突然の社の行動に、ヒカルはもちろん、アキラですらぽかんとして玄関まで見送りに行くことさえできなかった。 社が消えた客間で、二人は呆然と顔を見合わせる。 「……社、気を使ってくれたんだろうか」 「……だよな、やっぱり……」 アキラは苦笑し、ヒカルも表情を渋く歪めた。 たとえ社の言う通り、あらかじめ和谷の家に行くことを計画していたとしても、今の今まで黙っていたなんて絶対におかしい。事前に言えば、ヒカルがついて行くとごねるのを防げないと踏んでのことだろう。 図らずも二人きりになった客間、しばし二人はぼーっと顔を見合わせていた。やがて、ヒカルの腹が空腹を訴えて、そういえば夕食について話し合っていた途中だったことを思い出す。 「どうする? 何か作るか?」 「……後片付けめんどいから、出前にしようぜ」 三人分の予定が、二人分になってしまったけれど。 急に景色が変わった室内で何となく調子が狂いながらも、ヒカルとアキラはいつものペースを取り戻そうと動き出す。 アキラが出前を注文し、ヒカルは散らばった棋譜を掻き集める。合宿の風景というよりは、ごく日常のワンシーンに近い様子に、何故だか逆にくすぐったさを覚えてしまう。 (社が変な気の使い方をするからだ) 棋譜を揃えて碁盤の上でとんとんとまとめ、封筒の中へと戻す。 (別に、俺たち……その気になればいつでも会えるのに) ――お前は胸はって、塔矢と一緒におったらええんや―― (……あのバカ) 合宿の間は、恋人じゃなくてライバルでいようって思っていたのに…… 二人になると意識してしまう。 夕べアキラの夢を見ながら眠ったせいだろうか? 大会を明日に控えて、こんな浮ついた気持ちで臨むなんて…… 「進藤?」 ふいに背中に手を置かれて、ヒカルの身体が過剰なまでに跳ねた。 振り返ると、驚いた顔のアキラが視界に映る。 「あ……、な、なに?」 ヒカルは思わず作り笑いでごまかした。 恐らく不自然な動きをしたのだろう、アキラが少し妙な顔をしている。 「……大丈夫か?」 「え? な、何が?」 「ごまかすな。本当に緊張しているのか? それとも……二人になった途端にボクが襲い掛かるとでも思ってるんじゃないだろうな」 アキラの呆れた表情に、ヒカルが赤くなった。 「ボクだって棋士の端くれだ。約束は守るよ。合宿中は何もしない」 「そ、そ、そんなつもりじゃ」 「安心してくれ、今日は夕食を食べたら風呂に入って、早めに休もう? 明日、レセプション前に一度家に戻るんだろう。早起きしないとね」 そう言ってにっこり微笑むアキラを見ていると、ヒカルは自分自身が居た堪れないような気分になってしまって、酷く居心地が悪くなった。 それというのも、社が余計な気を使っていなくなったりするからだ。いや、そもそも夕べの就寝前に一緒に寝ないのかとか何とかごちゃごちゃ聞いてくるから…… (こんなことになるなら、最初から何も言わなければよかった……) 二人きりになって、変に自分ばかりが意識しているだなんて。 アキラは特に社がいてもいなくても変わらないといった、余裕綽々のポーズだというのに。 (……もう、俺も余計なこと考えるな) アキラの言う通り、後は食事をして風呂に入って寝るだけだ。明日に疲れを残すわけにはいかない。 また、別な意味で力の入ってしまった肩をすとんと落とし、ふっと気持ちを緩める。その時玄関のチャイムが鳴らされ、ヒカルは再びびくりと肩を竦めてしまった。 「出前が来たかな。出てくる」 アキラが財布を持って足早に廊下を過ぎるのを見送り、やけに臆病な心臓をヒカルは責めた。 すっかり調子が狂ってしまった――こんなことで、明日からの北斗杯は本当に大丈夫なんだろうか…… 風呂上りに火照った身体を畳の上に投げ出して、ヒカルはぼんやりと、朝からずっと眺めていた棋譜に再び目を通していた。 高永夏の去年の国手戦の棋譜。攻撃的でありながら、巧みな小技が光る文句のない内容だ。 北斗杯の代表権利を得てから、アキラと二人でずっと永夏対策に力を入れてきた。 時にアキラが擬似的に永夏の碁を打ってくれて、ヒカルもアキラの思いに応えようと日々最善の一手の研究に余念がなかった。 来年で十九歳になる永夏は、今年が最後の出場になる。 去年彼をがっかりさせてしまった、その借りは返したい。 「……また見てるのか」 背中にかけられた声に肩が跳ねた。振り返ると、まだバスタオルを肩にかけたままのアキラが優しく微笑んでいる。 「強張ってるよ。もう少しリラックスしたほうがいい」 近づいてきたアキラは、ぽんとヒカルの背中を叩いて隣に腰を下ろした。その弾みで力の抜ける身体を実感して、やはり余計な力が入っていたことを気付かせられる。 「今日はこれ以上詰め込まないほうがいいよ。大丈夫、今のキミは高永夏にも引けを取らない。自信を持っていい」 「……自信は、あるんだけどさ」 ヒカルは棋譜から顔を上げ、ふうっと大きなため息をついた。 「なんか、落ち着かなくて」 「やっぱり緊張してるんだろう。人間だ……仕方ない」 横目をちらりとアキラに向けると、緩く細めた目が暖かくヒカルを見守ってくれていた。ヒカルは慌てて顔を逸らす。 隣同士に腰を下ろして、いつもなら肩のひとつも抱いてきそうなものなのに、アキラは何もする気配がない。やはり、最初に約束したことを最後まで守るつもりなのだろう。 律儀なアキラが、何だか少しだけ悔しかった。 「気負う必要はないよ、進藤。勝ちたいという気持ちは大切だけど、それよりも、何の枷もなく打てることを楽しむといい」 「枷?」 「ああ。……キミは今までの北斗杯、全て何かに捕らわれたまま打っていただろう?」 ヒカルは思わずアキラを振り向いて、ぱちぱちと瞬きをした。 「今回は自由だ。……キミの碁を思う存分打てる。ボクは、それが嬉しい……」 「……塔矢」 心から嬉しそうに微笑むアキラに、ヒカルは照れ臭くなってこめかみを掻く。 「な、なんでお前が嬉しいんだよ」 「キミの碁が好きだから」 ストレートに告げられると、何と答えたらいいのか分からなくなる。 ヒカルが頬を染めたまま俯くと、少し覗き込むように顔の位置を下げたアキラが、ヒカルの耳元でそっと囁いた。 「……キミが好きだから」 かっと熱くなった顔から、火を噴いたような錯覚を覚えた。 少しだけ顔を上げると、目の前で睫毛を揺らして微笑する綺麗な顔がアップになっていて、ヒカルはぐっと息を飲み込む。 息がかかりそうな至近距離。咄嗟にヒカルはぎゅっと目を瞑った。 しかし、すぐ近くにあった気配は数秒の間を置いてふっと離れてしまう。 「さあ、寝る支度をしよう。キミ、まだ歯磨いてないだろ?」 立ち上がったアキラをヒカルは呆けた顔でぽかんと見上げ、それから理不尽な怒りを感じて一人口唇を尖らせる。 その気になったわけでもないのに、キスをおあずけさせられたような気分になって面白くない。おまけに、いつも余裕がないのはアキラのほうだったはずなのに、涼しい顔をして優雅に立ち振る舞うその態度が気に食わない。 (別に、して欲しかったわけじゃねえけど) でもあれは誰がどう見てもキスする体勢だったから、身構えたっておかしくないだろ!? ――ヒカルは誰が聞くでもない言い訳を心の中で呟き、アキラに促された通りに歯を磨こうと立ち上がる。 緊張どころか、虫の居所が悪くなってしまった。余計なことで苛々しないで、さっさと寝て明日に備えなければ…… |
最初に決まっていたのは「合宿三日目に社消える」
……だけでした。
なんでこんな流れになったかなあ。
和谷宅での合宿風景も書いてみたかったかも……