ヒカルが歯を磨き終わると、すでに客間の灯りは落とされていた。 電気をつけると、二組積んであったはずの布団はすでに一組片付けられ、もう一組は客間のど真ん中にぽつんと敷かれていた。 さすがに頭に血が昇ったヒカルは、枕を抱えて廊下を突進する。 「塔矢っ!」 アキラの部屋の襖をがらりと開けると、パジャマに着替えたアキラが自分用の布団を敷いているところだった。 少し驚いたように丸い目でヒカルを見て、それからすぐににっこり笑って「何?」なんて尋ねてくる。 その白々しい様子に、込み上げてくる恥ずかしさよりも悔しさが勝った。 「お前、俺にあそこで一人で寝ろってのかよ」 「合宿中はただのライバルってキミが言い出したんだろ?」 「そ、そうだけど、でも、もう社もいないし、誰も部屋からあぶれないし、それに……」 言い訳がましい自分の訴えが酷く惨めに感じてきて、ヒカルは口内の肉を噛んだ。やや俯きがちに視線を落としたヒカルを見て、アキラは苦笑する。 「ごめん。少しやりすぎた。……おいで」 ヒカルはふてくされた表情のまま、アキラが広げた腕の中に飛び込んだ。 きゅっと軽く抱き締められて、無性に胸が熱くなってまた更に悔しくなる。 「でも、キミも悪いんだよ。あそこまで極端に嫌がらなくてもいいだろ? 社は元々ボクらのことを知ってるんだし」 「……だって、恥ずかしいから」 「今更だろう」 「俺はわざわざ大阪に出かけてアイツにエッチの仕方聞いてくるほど図太くないの!」 「わざわざ出かけたわけじゃあ……、まあ、もういいよ。どうする? 布団、もうひとつ持ってくるかい?」 アキラは自室に敷かれた布団を指差して、腕の中のヒカルの顔を優しく覗き込んできた。 ヒカルが黙って首を横に振ると、アキラは目を細めて頷いた。 ヒカルを抱いたままアキラは手を伸ばして電気を消し、闇の中でヒカルを布団の中へ招き入れる。 アキラと共に身体を滑り込ませたヒカルは、ふわりとヒカルを包む優しい匂いに目元を緩ませる。 つい、アキラの鎖骨に額を摺り寄せると、アキラは静かにヒカルの髪を撫でてくれた。 「あのね、進藤。棋士として向き合うのも大事なことだけれど、ただのライバルじゃお互いの心のケアまでは難しいだろう? そんな時は、無理して離れることはないんじゃないかな」 「心のケア? ……誰の?」 「キミがボクのを、ボクがキミのをだよ」 「……俺、なんもしてねえぜ」 アキラはヒカルの髪を撫でながら微かに笑った。喉が震えたのを額に感じて、ヒカルは少しくすぐったそうに身じろぎした。 「いてくれるだけでいいんだ。キミが傍にいて、笑ってくれれば……それだけでボクは何にだって立ち向かえる」 「……お前、恥ずかしい台詞吐くの相変わらずなのな……」 「だって本当のことだよ」 至極真面目な声のアキラに、ヒカルは堪え切れずに吹き出す。 「でも、お前らしいからいいや……」 ヒカルは笑いながらアキラの胸に顔を擦り付けた。 時折髪の隙間に入り込んで来るアキラの指の感触が、ぞくりとヒカルの首筋に鳥肌を立たせる。それでもその指の動きを邪魔しようとは思わなかった。 「キミが今回の北斗杯に掛ける意気込みはよく分かっている。勝ちたいという気持ちも。その思いの強さはボクが受け止めるから。キミは何も気負わなくていい」 「塔矢」 「キミの表情が硬いから心配だった。こうして触れ合っているだけでも、少しは気持ちが落ち着くだろう?」 じんわりと熱が灯っていく冷たい指先を感じて、ヒカルは黙って頷く。 「キミにはボクがいるから」 「……うん」 「もっとボクを頼ってくれ」 暖かい胸の一定のリズムが、耳から肌から、ヒカルの心に安心感を伝えてくれる。 ――あったかい。 明日から始まる戦いの数日間を前に、ともすれば神経質になりかねなかった勝ちへのこだわりが息を潜めて行く。 代わりに、妙な興奮が和いで、ただがむしゃらだった乱雑な気持ちが穏やかに澄んで行くのが分かった。 高揚感はそのままに。 気持ちばかりが空回りしないよう、しっかりと目指すものに視線を向けられるように。 とくん、とくんと規則的に揺れる胸の上で、ヒカルは心地よく息をつきながら小さく笑った。 「……俺、昨日の夜、昔のこと思い出してた」 「昔のこと?」 「うん。二年前の合宿ん時。あの時も、こうやってくっついて寝たよな。お前、無茶苦茶心臓バクバクさせててさあ」 アキラの苦笑が頭の上から聞こえて来る。 「仕方ないだろう。免疫がなかったんだ」 「へへ。……でも、凄く優しくしてくれた」 「進藤……」 ヒカルは軽く身体をずり上がらせ、アキラの胸辺りに乗せていた頭を持参していた枕の上へと移動させる。 アキラと同じ目線で闇の中の輪郭を見つめて、ヒカルは手探りでアキラの手のひらを探した。辿り着いた指先をぎゅっと握り締めると、ヒカルの髪を撫でていたアキラの手が止まる。 「お前、ホント……変わらないんだな。あの頃から、ずっと……一生懸命で、優しくて……」 ヒカルが握り締めていたアキラの指が、ふいに意志を持ってヒカルの指に絡み付いた。 「ボクは……変わらないよ。いや、寧ろ……、あの頃よりずっと……キミを……」 暗闇で見つめあったまま、アキラの言葉はそこで途切れた。 沈黙が破られるのをじっと息を潜めて待っていたヒカルは、焦れたようにアキラとの距離をほんの少し詰める。もう、お互いの身体はほとんど触れあっていて、これ以上近付けるスペースもないのだけれど。 「……キスしてくれないのかよ」 「……したら、キスだけで止まらなくなりそうだから」 「……、止まらなくていいじゃん……」 「進藤」 いくら薄暗くとも表情の変化くらいは分かるほどの距離で、アキラが困ったように微笑む気配がした。 「合宿の間は恋人同士じゃないんじゃなかった……?」 「うるせえ……俺は、お前とくっついてるのが好きなんだ……」 ヒカルはぎゅっとアキラに身を寄せて、その首筋に鼻先を押し付けた。 ふわりと香る同じシャンプーの匂い。清潔な肌の感触が少しだけ憎たらしい。 「もう、充分落ち着いた……。後は、明日まで何も考えられなくなりたい……」 「……進藤」 「いいだろ? 社はもういない……俺たちしか、いないのに」 言葉はそこまでだった。 ヒカルの顎を掬い上げ、アキラの口唇がヒカルの口唇を深く食む。 緩めに舌を絡めあって、一度は離れた口唇が、再び激しく唾液を交換し始めるまでそれほど時間はかからなかった。 アキラが身を起こして、ヒカルの上に伸しかかってくる。ヒカルはその重みを受け止めながら、体重を支えて硬さを増したアキラの二の腕に縋り付いた。 「何も……考えられなくさせてあげるよ。夢も見ないくらい、ぐっすり眠れるように……」 アキラの囁きに、ヒカルはキスで応えた。 重なる吐息を感じて、見つめ合う目はすでに潤んでいるのだろう。 アキラのうなじに伸ばした、ヒカルの指が合図だった。 「……ヒカルっ……」 噎せ返るような熱い呼吸に、ヒカルは自ら理性を手放した。 |
所詮バカップルでした……
幸せそうだからいいかなあ……