Stop the time forever






 ヒカルはぼうっとした目でぶらぶら揺れる自分の足の甲を見つめ、黙ってベッドに腰掛けていた。
 この北斗杯が開催されてからの二日間を思い出し、胸のうちのやりきれない思いを持て余す。
 初日中国戦、ヒカルは副将だった。アキラを大将、社を三将として望んだ団体戦は、中国側の不調も手伝って三戦全勝をおさめた。
 しかしヒカルの対局内容はというと、我ながら酷いと思わざるを得ないものだった。
 今のヒカルなりに食らいつき、粘った結果に相手のミスが運良く重なって、ギリギリの一目半勝ち。ある意味、相手はヒカルの出鱈目な打ち筋に動揺したと言えなくもなかった。
 その日の夜、ヒカルは倉田にキツイ一言をもらった。
『予選のお前は強いだけ。今のお前は強さもない。韓国戦、文句言わせないから』
 高永夏を大将に据えた韓国相手に、ヒカルは副将の席に座るしかなかった。いや、副将席に座らせてもらっただけでも倉田は寛大だっただろう。ヒカルはその時の自分が、社より上だとはどうしても思えなかったからだ。
 観客からはブーイングも出ていた。去年のヒカルと高永夏の激戦は記憶に新しい。二人の再戦を望む声は、開催前から随分棋院に届けられていた話も聞いている。
 しかし観客は、すぐにヒカルが高永夏の前に座ることができない理由を理解しただろう。
 韓国の副将は洪秀英だった。何度か打った相手であり、これまで負けたことのなかった秀英に、ヒカルは五目半という大差で敗れた。
 数字以上に、対局の内容がヒカルの不調をこれでもかと言うほど示していた。
 社も韓国の三将に中押しで破れ、韓国の勝利が決定した中、ただ一人大将のアキラだけが驚異的な追い上げを見せていた。
 序盤から仕掛けたアキラに対し、高永夏のシノぎは上手だった。形勢不利のまま終盤まで持ち越すかと思われたが、アキラは攻撃を緩めなかった。そして誰もが見逃していた高永夏の隙をつき、敗色濃厚の碁を立て直したのである。
 そこから繰り広げられた一進一退の攻防の末、整地を終えた碁盤にはアキラの黒が僅かに半目勝っていた。会場の興奮は最高潮に達していた。
 勝利を収めた後の、アキラの強い視線をヒカルは覚えている。
 アキラの目がヒカルに語っていた。――ここまで来い、と。
 いつもの真っ直ぐな目が迷うヒカルの心を射抜いていた。
 ここまで来い。きっとアキラはいつかのようにその手を伸ばすだろう。
 しかしその手を取る資格が果たして自分にあるだろうか? アキラを佐為の身代わりにすることを恐れ、闇雲に走ったヒカルには未だ自分の碁が見えない。
 おまけに国際棋戦であんな酷い碁を打って、どんな顔でアキラの前に立てるというのだろう。
 アキラと対等になりたかった。自分の力でアキラの隣に並びたかった。今はまだ迷う自分の碁を見極められたら、その時は自分からアキラの前に向かい合いたいと思っていた。
 しかし現実は打てば打つほど分からなくなり、苛立ちが募り、迷いを生んだ。何度アキラと打ちたいと思っただろう。
 もう何もかもアキラに話して、自分と打ってくれと懇願しようかとも思った。彼ならヒカルが望む一局を打ってくれるかもしれない。
 だがこんな中途半端な状態で彼とは打てない。何から何まで甘えっぱなしで対等になりたいなんて笑わせる――その繰り返しで結局全てを一人で抱え込もうとした。
 ヒカルが怖れたのは、ヒカルが自分で作り出した幻のアキラとの馴れ合いだった。いつか佐為がそうしてくれていたように、ヒカルの一手一手を見守る目。アキラにはそんな存在になって欲しくなかった。そんなことにアキラを縛ってしまいたくなかった。
 対等でいたい。彼は自分のライバルであり、特別な存在だ。自分の中に囲ってしまいたくない、常に正面から向き合っていたい。
 何より、あれほど真摯にヒカルを好きだと言ってくれた人を、誰かの身代わりにするなんて残酷なことに耐えられなかったのだ。
 隣にいた社が立ち上がり、「茶でも飲むか」とヒカルに声をかけた。ヒカルは返事をしなかったが、社は小さなカウンターへ移動し、電気ポットのコンセントを入れた。
 沈黙の中、社がホテル備え付けのほうじ茶を準備する音だけが響く。ガサガサとティーパックを開き、湯のみ茶碗にセットした社は、立ったままヒカルを振り返った。
「……お前ら何があったんや」
「……」
「お前の碁。……はっきり言って今日のはひどかった。あれはないやろ。秀英がどんだけがっくりきてた思っとんねん」
「……」
「……もしかして、塔矢がお前に惚れてるのと関係あるんか」
「!」
 重力に負けていたヒカルの顔が跳ね上がった。
 みるみる朱に染まるヒカルの表情を見て、社は苦々しく眉を歪める。
「なんや……図星かい。当てたくないところで俺のカンはしっかり当たってきよる」
「カン……?」
「カンちゅうか、塔矢や。アイツが分かりやすすぎてバレバレなんや」
 社は後頭部をがしがし掻きながら吐き捨てた。
 ヒカルの目が不安に揺らぐ。社は少し困った顔をした。
「別に、それでお前らのことをヘンに思ったりせんから安心し」
 ヒカルの顔の赤みが増す。しかし明らかに表情が和らいだのを社は見逃さなかったらしい。社もまた、僅かに緩めた口元に安堵の色を見せた。
「正直まさかとは思ったんやけどな。アイツにごっつい目で睨まれてピンと来たんや」
「……塔矢と、何か話したのか?」
「あん? あれや、ホラ、お前が合宿やらん言うから俺勝手にこっち出てきたやろ。そん時に塔矢ともちょろっと打ったんや。お前らの様子がなんかおかしいのはここ数ヶ月の棋譜見て分かっとったから、塔矢に進藤のこと聞いたら一発や。おっかない顔しよって」
「おかしい? なんで?」
「なんや、お前自分がおかしいの分かっとらんのか?」
 目を剥いた社にヒカルは必死で首を振る。
「違う、俺じゃなくて、今お前らって言った。お前らって何? 塔矢もおかしい?」
 ヒカルの言いたいことをようやく理解したのか、社の口がああ、と間抜けに開く。それから少しヒカルを同情するような目で見て、アイツもおかしいで、と続けた。
「お前みたいにムチャクチャなんやないけど。おかしいで、やっぱ。ちゃんとあいつの棋譜見てみい。……お前、しばらく塔矢と打ってないんやろ」
「……」
「強さは変わらん。でもなんや面白みがないっちゅーか……無難すぎるんや。あるはずの力を窮屈に抑えてる感じがする。俺は、それがお前と打ってないからやと思っとる」
 ヒカルはまた首を横に振った。弱々しい否定に社はため息を漏らす。
「お前、塔矢に告られて動揺しておかしなったんちゃうんか?」
「違う」
 意外にもしっかりと返ってきたヒカルの答えに、社は少し目を丸くした。ヒカルはもう一度そんな社の顔を見て、違う、と念を押す。
「塔矢は関係ない。俺が勝手に悩んでムチャクチャやってたんだ。アイツは俺のこと心配してくれて、それで、一生懸命になって」
「……進藤」
「俺、今のまんまじゃ塔矢に会わす顔がないんだよ……」
 ヒカルの頭は再び垂れた。
 静かな室内にはポットが湯気を噴く音だけ。
「進藤、お前……、塔矢が嫌なんやないんやな?」
「……」
「塔矢が原因やないなら何があったんや。お前がええなら、俺はいくらでも話聞いたる」
「……」
 そうしてゆるゆると顔を上げたヒカルのくすんだ目も、緩いへの字に曲がった口唇も、強張った頬も、全てが「限界」を訴えていた。
 社はヒカルを安心させるために、強く頷いてみせた。一瞬泣き出しそうに萎みかかったヒカルの顔が、意を決したように頷き返す。
 ヒカルはゆっくりと口を開き始めた。






社がどんどん都合良くいい人になっていく。
面倒見よすぎです。
北斗杯の内容端折りすぎか……